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 その扉は随分と前に作られたものであるらしく、ユーレカが押すと嘆くように軋んだ。中に入り、閉めるときは余計な音など立てないよう最後まで見守る。
 まだ日の沈む時間には早いにも関わらず、その建物の中は薄暗かった。しかしそうは言っても無理はない、この空間が有するのは明り取りとも呼べない小さな窓一つで、そこからも建物と建物の隙間を潜り抜けることのできた日差しが届いている程度である。影の濃い部屋の奥を見遣ると、そこには隣の部屋へと繋がる戸に暖簾がかけられており、しかしその周囲には部外者の侵入を阻むように瓶や木箱がいくつも積まれていた。
「……ロアンさん」
 ぽつりと呟くようにユーレカが声を放る。と、暖簾の向こうで何やら人影の動く気配があった。
「何だ、またお前さんか」
 布を押し上げて姿を見せた老人に、ユーレカは笑みを見せる。それまで何か作業をしていたのか、その老人は腰につけた前掛けで両手を拭きながら眉根を寄せた。
「こんにちはロアンさん、相変わらず売れているようですね?」
「ああ、お前さんみたいな、こういうものにまで手を出す余裕のある奴らがいるおかげでな」
 ロアンと呼ばれた老人は皮肉めいた口調とともに、床に置いてあった木箱の一つに腰を下ろす。ユーレカも彼に近づき、断りもなく木箱に座った。
「それで、今日は何を買いに来たんだ」
 老人は自らの周囲に瓶を引き寄せ、キュルキュルとそれらの蓋を緩める。取り外した蓋を丁寧に置き、瓶の中身を取り出す。その一挙一動をユーレカは楽しげに眺めた。
「そうですね、色合いの鮮やかな甘いやつを。虹みたいに何色もあれば尚のこと良いです」
 床の上に、手に乗る大きさの紙袋がいくつも並べられる。その紙袋の僅かに開いた口から中を垣間見ると、そこには熟れた林檎のような赤色や装飾品のように澄んだ黄色や青色が入っていた。いずれも目の前の老人、飴細工師によって作られた食べられる宝石である。
 光を内包しているようにすら見えるそれらにいつものことながら見とれつつ、ユーレカは購入するものを選んでいく。できるだけ色合いの異なるものを買った方が、見るものとしても楽しいだろうと計八種類の飴を選択した。ロアンはそれを受け、透明な瓶に少しずつ飴を注ぎ込んでいく。
「しかしこんなに選んどいて、金はあるんだろうな、小娘?」
 相も変わらずユーレカの方は見ないまま、老人は言う。
「あてがないのならばこんなところには来ないですよ」
「ここに来てそんなことを言う若者もお前くらいだろう」
 ロアンの声音はぞんざいなそれではあったが、しかし棘を含んではいなかった。対してユーレカは屈託のない笑みを絶やさない。
 老人と少女のこのやり取りは過去にも何度か交わされたことがあった。飴の原料となる砂糖は高価で、この辺りで手に入れようと思っても簡単に手に入るものではない。ましてやそれを加工した飴など、腹を満たすことができるわけでもないのになおさらだ。綺羅綺羅しく宝石のように見えることも相まって、飴は庶民からは憧れの対象とされると同時に疎遠にもされていた。例外は年に一度の祭りのときで、このときはロアンも通りに出店を構えて、普段よりも安く飴を売る。輝きに魅了された子どもが店の前で親に飴をせがむ光景は毎年恒例だ。しかし庶民に疎遠にされているとは言っても、彼らが回す余裕のない金銭はしっかりと別のところで回っているものである。ロアンがこんな裏通りの小さな店で飴売りを生業としてやっていけているのは、甘く贅沢な砂糖菓子を日常的に口にする時間的、金銭的余裕をもつ階層が存在するからだ。華やかなドレスで着飾った娘たちは、衣服にこだわるに留まらず、お喋りの合間に口にするものにまで煌びやかさを求めるらしい。よって彼女たちの召使は、すぐには見つけづらい場所にあるロアンの店を探して迷い歩くことになるのだ。
「……量はこのくらいか」
 八色の飴を数粒ずつ、全て瓶に入れ終え、ロアンはそれをユーレカの前にかざした。鮮やかな輝きが瞳に映り込む。そんなもんですね、とユーレカが頷くとロアンは少女から身を引き、体を回して天井から吊られていた天秤に向き直った。皿の一つに飴の入った瓶を置き、もう片方に、さいころのように四角く切り出した木片を載せていく。手馴れた手つきで木片の数は調整され、二つの皿はすぐに平行になった。大きい木片一個、小さい木片二個分に相当する飴の値段をロアンは告げる。娯楽品への出費としてはそれは決して安い部類の金額ではなかった。が、ユーレカはあっさりと財布を開いた。
「子どもたちも喜ぶですよ」
 ユーレカは財布を仕舞い込み、手を伸ばす。しかしロアンは瓶を抱えたまま、ひたと目の前の少女を見据えた。
「お前さん、まだあの仕事をやっておるのだろう」
 その言葉にユーレカは静かに一度、瞼を開閉させる。
 仕事とは勿論、彼女のやっている情報屋の真似事を指すのだろう。どう読み間違えても、日中通っている学院のことではなさそうだ。
 果たして今まで、彼に情報屋のことを教えたことがあっただろうか。
 そんな疑問がほどけた毛糸球のようにゆるゆると広がっていくが、その辺りは老人の長年の人生で培われてきた勘というものによるのかもしれない。
「まだ、とはどういう意味ですか、ロアンさん?」
 肯定もせず、否定もせず。こういうところは情報を引き出すために他人と接触してきたことで、自分に染み付いてしまった習性である。自覚はしている。これも一種の処世術なのだと、自分に言い聞かせてきた。
「危ない橋も渡っているのではないのか」
 ロアンは質問というよりも確認をするように問うた。ユーレカはロアンの目を見つめ返すが、そこに彼女を咎める色はなくほっとする。寧ろ孫娘を心配するかのようなそれだった。
 ならば彼は祖父だというのか。祖父。自分の親の、さらに親である。字面からの想像は薄っすらとつくものの現実感が伴わない。
「危ない橋だなんて、そんなことレカにはできないですよ」
 改めて、ゆっくりと、ユーレカは笑む。老人を落ち着かせようとするかのようなその笑みに、彼もようやく表情を緩めた。あるいはそうすることで無意識のうちに、老人の心配を跳ね除けようとしていたように見えた。
「では、またしばらくしたら来るです」
 ロアン爺の飴、って子どもたちが騒ぎ出した頃に。今度こそ商品をしっかりと受け取って、ユーレカは立ち上がった。
「ああ当分来んでいい、この収入だけは高い小娘が」
 ユーレカはくすりと、純粋な笑みを零す。外へと繋がる扉を押すときいと軋んだ。
「……そういえばお前さん、今いくつだ」
 扉を潜り抜ける背中に声が放られ、
「次の三月で、十九になるですよ」
 少女の感情を含まない返事だけを残して扉は閉まった。


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