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 茜色が街を染める夕暮れ時、今日も市庁の鐘が響き渡る。短く二回、余韻を町中に潜ませるようにゆっくりと五回。その鐘は日に二回、どこか懐かしい音色とともに人々に一日の始まりと終わりを告げる。午後五時丁度に鳴るそれは活動時間終了が近づいていることを示し、市で働く人々にとっては店仕舞いの、外で遊ぶ子ども達にとっては帰宅を促す鐘だ。そして街の教会に隣接する孤児院に住む子ども達にとっては、門限が近いことを告げる合図でもある。
 鐘が鳴り終わる直前に、ユーレカは孤児院へと滑りこんだ。
「レカ、お帰りなさい」
「ただいまです」
 ぱたぱたと忙しげに行き交う修道女達と挨拶を交わしながら、真っすぐに食堂へと向かう。予定よりも帰るのが遅くなってしまった。夕食の準備を手伝わなければいけないのに、もうこんな時間だ。今朝は今朝で起きる時間が遅かったし、今日は締まりのない一日であったような気がする。ソフィは怒るだろうか。一抹の不安を抱きつつ、ユーレカは食堂を覗き込む。
 部屋の中央にテーブルがいくつもあり、それぞれの端と端がくっついて大きな長方形を描いていた。そこに添えるように椅子が等間隔で並ぶ。テーブルには真っ白なテーブルクロスが引かれ、その上に食器や料理などが次々と運ばれていく。
 食堂には孤児院で暮らす子ども達が一堂に会していて、誰もが皆手に食器の類を持っていた。小柄な男の子が見栄を張ったのか、料理の載った大きな皿を必死に運んでいる。しかし彼の手に負えそうにないのは見るからに明らかで、案の定足を縺れさせてぐらりとよろめいた。
「リャン」
 ユーレカは咄嗟に飛び出し、その男の子の肩を支える。リャンは皿を何とかテーブルに置くと、顔を綻ばせた。
「……レカお姉ちゃん!」
 その弾んだ声に他の子供たちが視線を集め、同様に歓声をあげる。
「お姉ちゃん」
「おかえりなさい」
「どこ行ってたの?」
「おみやげは?」
 子供たちに一斉に囲まれ、ユーレカは騒ぎ立てる彼らを宥める。
「そういう話はご飯の時に。ほら、ご飯の準備をぱっとしないと、ソフィさんが怒ってご飯が食べられなくなるかもしれないですよ」
 実際、怒られるのは自分である可能性の方が高いけれど。自らのことは棚にあげて脅かすようにそう言うと、いんちょうせんせいがおこる、ごはんがなくなる、と子供たちは叫んで散り散りに台所へと走っていった。言葉とは裏腹に、彼らの顔はとても楽しげだったが。先ほど購入した飴の入った袋を椅子に置き、彼らの後を追うようにして、ユーレカも台所に向かう。
 湯気の立ち上る台所の中に入ると、丁度ソフィが皿を手にこちらに向かってくるところだった。
「あら、ユーレカ、お帰りなさい」
 ソフィがユーレカを認めて言う。その声音に刺はなく、怒られるだろうかと考えていたのは杞憂だったかとユーレカは胸を撫で下ろした。
「ただいまです、ソフィさん」
 多少の申し訳なさと安堵を滲ませながら応え、子ども達と同様に台に置いてある料理を運ぼうとする。小さな子ども達には運びづらそうな大きめの皿を手にとり、踵を返そうとしたところで再び名を呼ばれた。
「ユーレカ」
 ソフィの声に、そういえば自分の名を略称ではなく本名で呼ぶのはソフィくらいのものだとぼんやりと思う。立ち止まり、ユーレカはソフィの顔を見つめた。
「話したいことがあるのよ。夕食のあとユーレカの部屋へ行ってもいいかしら」
 静かにそう言うソフィに、夕食の時では駄目ですか、子ども達には秘密の話ですかと茶化して言いたくなる。しかしそんなふざけを口にするのが憚られるほどソフィの目は真剣な色を帯びていて、ユーレカは口をつぐんだ。何か喋ろうとして口を開き、適切な言葉が何も浮かんでこないことに気づく。ソフィが真剣に言うからには大事な話があるのだろうと、それは容易に想像がつく。だからこそ、余計にふざけてしまいたかった。
「……分かったです」
 ユーレカはそれだけ返して、口角を上げてみせる。あの日以来、どんな状況でも笑みだけは作ることができると自負していた。
「ええ、お願いね」
 ソフィも穏やかに微笑みを返した。

 夕食を取り子ども達にお土産の飴を配り終えて、ユーレカは自室へと落ちついた。カーテンを閉めようと窓に近づく。ちょうど陽が沈んだところで、空は薄紫色がだんだんと薄れていくばかりになっていた。
 市庁の位置する街の中心の方角を見つめる。そこから街の外へと伸びる大通りに面して店が立ち並んでおり、その軒先には働き盛りや観光客を狙った露店が開かれている。大通りから裏路地に入り街の西側へ行くと職人の工房が多く、東側は居住地ばかりだ。情報屋ギルドやロアンの店はどこにあるのか、入り組む建物に埋もれて分からない。
 ぼんやりと景色を眺めていると後方で扉を叩く音がして、
「どうぞ」
 とユーレカが声をかけるとソフィが姿を見せた。ユーレカは彼女を招き入れ、椅子を引き出して彼女に勧めた。自身はベッドに腰をかける。
「ありがとう、ユーレカ」
 ソフィは修道衣の裾を抑えながら座った。
「今回も飴のお土産、あんなに買ってきて大丈夫だったの? 私たちも頂いてしまったし」
 ソフィの言葉には笑顔と首肯を返し、ユーレカはただ、ソフィの次の言葉を待つ。
「そう、子供たちも喜んでいたし、それなら良いんだけれど」
 ソフィはそう間を置いて、
「本題に入るわね」
 目を一度伏せ、それから意を決したようにユーレカを見据えた。それでもやはり言い難そうに、ソフィはゆっくりと口を開く。
「……次の三月で、ユーレカも十九歳になるでしょう」
「はい」
「ここの孤児院には今十八人の子どもたちが居て、手が回らない人数だと言う訳ではないの。修道女たちもこの活動には積極的だし」
 子ども好きな人が多いから。ソフィはそう言って、修道衣の裾を直した。ユーレカは簡単な相槌を返す。
「ただ、孤児院を開くというこの活動は街からお金を貰って成り立っていることだから、最低限は議会で定められた規則に従わなければいけないのよ」
 例えば、児童が夜遅くまで街を徘徊するようなことがないように。そういった規則を元に、孤児院側では市庁の鐘が鳴る頃までに帰宅するという決まりを作った。
「だからこれは……決められたことで……貴方は子どもたちにとても慕われているし、私を含め修道女たちも皆貴方のことを好きだから、本当はこんなこと、本当に言いたくないのだけれど」
 孤児院に隣接する教会の修道女たちを束ねる存在としても、孤児院の院長としても常に落ち着いて周りを諭してきたソフィが、こんなにも言い澱むことは珍しかった。
「……はい」
 ユーレカは改めてソフィを見つめる。
「……貴方には二十歳になるまでにここから出てもらって、それ以降は自立した生活を送ってもらわなければいけないの」
 勿論、新しい家を探したりは私達も手伝うし、学院もそれまでどおり通えるわ。説明というよりも言い訳をするような口調でソフィはそう話し、口をつぐんだ。
 ユーレカは今回は返事をせず、ただソフィの言葉をゆっくりと咀嚼する。
 こうやって院長の口から告げられることは、事前知識として知っていたことだ。当時九歳であったユーレカが孤児院に引き取られたのは、孤児院という施設が教会の横に建てられてから半年も経っていない頃だった。その頃はまだ入所している子ども達の数も少なく、ユーレカは飛び抜けて最年長だった。事態の変化を理解できず泣く幼子達を、ユーレカは修道女達に混ざってあやしたものだ。その構図は今に至るまで変わらず、ユーレカは孤児院という一つの家族の長女として暮らしてきた。学院の入学試験で首席を得て、貧しい子どものための奨学金制度を作るという道も切り開いてみせた。
 そうやって進学の許された学院で、興味本意で開いた本で見つけのが孤児院に関する規則だった。孤児院で暮らす子どもは満二十歳になる前にそこを出ていかなければならない。
 また捨てられる、という風には思わなかった。そのように思えるほどユーレカとこの孤児院、子ども達、修道女達との絆は浅くなかった。
「……はい。知ってたです」
 ユーレカがぽつりと呟くように言うと、ソフィは悲しみの中に埋もれかけた驚きを引き上げた。一瞬目を丸くした後に、
「ああ、だから貴方は……休日も削って、学院の合間に仕事なんてしていたのね」
 妙に感慨深げにそう口にした。
 ユーレカが学院のない日に働くと言ったとき、感心する修道女達に対して、珍しく反論したのがソフィだった。貴方はもう少し遊んでもいいのよ、と。最終的に賛成はしてくれたが、そのときのことを彼女も思い出したらしい。
「ある程度の貯金が欲しかったんです。ここから出るってなったときに、皆をあまり心配させないように済むように。……それに、そんな悪い仕事でもないですよ? 店長さんも親切ですし、辛いこともやらないですし」
 ユーレカはソフィに向かって笑ってみせる。
「そう」
 ソフィもようやく、柔らかい表情を見せた。
「それなら良かったわ。ユーレカの収入があまりにも高いものだから、若い娘が一体何を、って皆で心配していたのよ」
 その台詞にユーレカは声を立てて笑う。修道女達の中には心配者が多く、それが集まって話をするものだから事実に輪をかけてひどい脱線に陥ることがよくあるのだ。何を言われていたのか分かったものではない。
「大丈夫です。何かあったら相談するです」
 そう、ここには母親が沢山いるのだから。孤児院を出るのだって、母親の元から巣立つというただそれだけ。困ったときには帰ってくればきっと暖かく迎えてくれる。
「ありがとうです、ソフィさん」
 ユーレカは微笑む。ソフィとユーレカの間には、まるで血の通い合った母子のように柔らかく穏やかな空気が流れていた。


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