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「──……ごめん、ね……ごめんなさい……」
 一人の女性の悲痛な声で、それは始まる。
(ああ、またか──)
 止めどなく涙を流す女性を前に、少女は思う。
 酷く、冷めていた。女性は地面にしゃがみこみ、もとは綺麗であっただろうその髪を振り乱し、ただひたすらに謝り続ける。その姿に体面も何もあったものではない。
 けれど、そんな姿を目にしても、女性に対しては怒りも悲しみも、同情の念すら湧いてこなかった。 
「……ごめんな……」
 男性の震える声が、それに加わる。
 少女は答えない。自分がこんなにも冷静でいることは、動揺すらしないことは、おかしいことだと自分でも分かっていた。分かっていながらそれでもなお、この一組の男女に温かい言葉をかけることはできずにいた。耳が捉えるこの謝罪の二重奏は、鼓膜を振るわせることはあっても少女の心に響くことはない。
(嘘)
 少女の唇が動き、単語を形作る。 
(だって、私は言ったもの。二人が迷っているのを、知ってしまったときに。二人が困っているのを、知ってしまったときに。わたし、頑張るから。勉強も、お手伝いも今までより、もっともっと、ちゃんとするから。……ねえ、知ってた? わたし、配達のお仕事、できるんだよ。パン屋さんのお手伝いもしていいって言ってもらえたし……いっぱいいっぱい働いて、二人を助けるから──)
(──だから、置いていかないで)
「……さよならの、時間だ」
 男性が言い、
「立派な大人になるのよ」
 女性は涙ぐんだ。
 二人は踵を返して歩き出した。その背中がだんだん小さくなっていくのを、少女は見つめ続けていた。女性は何度も何度も少女を振り返った。そのたびに涙を零すのを、男性がなぐさめているようだった。女性は最後に、少女に小さく手を振った。
 少女は振り返さなかった。

 ***

 閉じた瞼に日の光を感じながら、ユーレカはゆっくりと体を起こした。
 昨晩一つに結った髪は、眠っているうちに解けてしまったらしい。周りからは羨ましがられるこの金色の髪は、長く伸びてしまうと首にまとわりついて、うざったくて仕方がない。加えて、眠っているうちに汗でもかいたのだろうか、上着も背中に張り付いて気持ちが悪かった。
 頭が重い。
 ユーレカは一人、ふるふると首を横に振った。
 こんなに寝覚めが悪いのは、きっと、悪い夢でも見たからだろう。そう検討をつける。けれど、その夢の内容が思い出せなかった。記憶を辿ろうとしても、その道筋は雲を掴もうとするかのように曖昧だ。ただ不快な夢、というその印象だけが、鈍く纏わりついて離れない。
 時計を見ると、午前七時になるかというところだった。秒針が忙しげに走っている。何をそんなに急ぐ必要があるのだろう。
 細めていた目を閉じて、ユーレカは布団に倒れこんだ。その反動で、枕が抵抗するかのようにはねる。
 今日は学院はない、出かける予定もない。だから寝ていても大丈夫。
 誰にともなく呟いて、ユーレカは意識を手放す決断をした。今度こそは寝覚めの良い夢を見ようと、ぼんやりと思いながら。


*有刺鉄線



「ユーレカ? 起きてるかしら?」
 階下から女性の声が飛んできた。一拍遅れて、階段を上ってくる音。タン、タン、タン、タン。靴が規則的に階段を蹴る。一、二、三、四……その数を数えて、十二になったところでユーレカは起き上がった。
「失礼するわ」
 扉が開いて、柔和な顔つきの女性が顔を見せた。四十、五十くらいの歳に見える。修道衣を纏う彼女は、ユーレカが起きているのを認めると目を細めた。
「おはよう、ユーレカ。ごめんなさいね、勝手に部屋に入ってしまって。貴女が起きてくるまで待とうと思ったのだけれど、子ども達が待ちきれないみたいで。今日の朝ごはんは、パンケーキだから」
 女性は喋りながら部屋の中に入り、窓際に近づいてカーテンを開けた。光が先ほどまでより強く、部屋に入ってくる。
「……おはようです、ソフィさん」
 ユーレカは掛け布団を半分に折りたたみ、足を床に落とした。目をこすりながら、彼女の話を聞く。
 ああそうか、今日の朝食はパンケーキだって、昨日の夜にソフィさんが言ってたっけ。子ども達は皆あれが大好きだから、楽しみで楽しみで待ちきれなくて、早起きまでしたのだろう。全員が揃わないと朝食にすることはできないし、それでソフィさんが起こしに来たのか。
 普段よりもゆっくりと考えながら、ユーレカは立ち上がりクローゼットへと向かう。右手を伸ばしたがそれは取っ手には届かず、見かねたソフィが苦笑しながら開けてくれる。
「ユーレカ、じゃあ私は子ども達に、貴女が起きたって伝えてくるから、顔を洗ったら降りてきてちょうだいね。もう八時半だから、そろそろ我慢の限界みたい。ジェイクなんか六時半から起きてるんだから」
 ソフィはくすりと笑って、ユーレカの肩に手を置いた。その八時半という言葉に、ユーレカは目を見開く。一気に目が覚める思いで、ユーレカは時計を振り返った。確かに、そろそろ八時半になる頃だ。
 いくら今日は予定がないからといって、これは寝すぎだった。ソフィが起こしにくるのも当たり前のことだろう。ユーレカはクローゼットから服を適当に引っ張り出し、慌ててソフィの後を追いかけた。


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