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「新鮮なラスの実はどうだい! 食後に口をさっぱりさせたり、果実酒にしてもいいぞ!」
「そこのお兄さん、彼女と喧嘩でもしたんじゃないかい? 今なら私がこの水晶で道を指し示してあげるけれど」
「何だ、高すぎるって? 馬鹿言わないでくれ、これ以上まけたら破綻しちまうよ」
 その日は丁度市場に多くの人々が行商に来る日で、市場は賑わいを見せていた。道行く人を引き込もうと高く張り上げられる声の中をすり抜けて、ユーレカは目的の場所へと向かう。
 市場の片隅に佇む建物の軒先に、いくつものテーブルと椅子が置かれていた。普段は店内でしか料理を提供しない店が、市場が開かれる日は客が増えることを見越して、外にも席を設けるのである。実際その席は、特に晴れた穏やかな日に埋まっていることが多い。市場の賑やかさを背景に、ゆったりと過ごしたい人は存外多いようだ。
 それらのテーブルや椅子の脇に置かれた看板を見て、ユーレカはそこにある店名と記憶の中の情報を照合する。情報屋ギルドを実質的に管轄するラクが、交渉の場としてユーレカに指定してきたのがここだった。
 何人かの客が席について、お茶や軽食を楽しんでいる。本や新聞を広げゆっくりと眺めている人が多い。
 ユーレカは一番奥のテーブルに目を留めた。男性が一人で座っている。
「中年の男性、茶髪、背は高くない、落ち着いた物腰……彼ですね」
 事前に得た情報に当てはまりそうな人物は、一人しかいなかった。何ともなしに呟いて、市庁のある方角をちらりと仰ぎ見る。午前十時の鐘はまだ鳴っていなかった。約束の時間は午前十時、鐘が十回鳴る頃である。ユーレカの感覚では、鐘が鳴るまで今しばらくの時間があるはずだった。
 ユーレカは情報屋として仕事の打ち合わせをするときはいつも、相手よりも早く行かないようにしている。流石に待ち合わせに遅刻していくようなことはしないが、依頼人がどのような性格か、少し早めに待ち合わせ場所に行き、しかし姿を現さないことで、観察するのである。時間より早く来るのかぎりぎりに来るのか、はたまた遅れて来るのか。焦って早足で来るのか、悠々とした足取りで来るのか。待ち時間に何をするのか。そういった行動の節々を、依頼人の情報の一つとして覚えておくのだ。
 ユーレカが依頼人だと推定した男は、お茶の入ったカップを片手に読書をしていた。本の背表紙がこちらからも見て取れる。紺色の装丁のしっかりした分厚い本で、おそらく題だろうが、銀色の刺繍で何か書かれていた。見慣れない文字だった。
「あれは確か……ローシャーンの文字だったでしょうか」
 学院で学んだことを思い返す。ユーレカの暮らすこのカタリナ大陸では一般的に用いられてはいない、ローシャーン大陸の文字のはずだ。さすがに意味を読み取ることまではできなかったが、あの流れるような形は見たことがあった。
 男は一人でテーブルに座っていた。ということはつまり、あの男は、母国語でない言語の本を読めるほど外国語に精通したカタリナ人か、出身国の本を持ってカタリナ大陸まで渡ってきたローシャーン人のどちらかである可能性が高い。実際はどうなのだろうか。
 市庁の鐘が鳴った。一度、音が長く響き渡り、その後時刻を告げる短い鐘が重ねられる。
 ユーレカはテーブルとテーブルの隙間をすり抜けながら、その男の座るテーブルに近づいて行った。
「依頼人≠ウん」
 小さく声を漏らす。案の定、男が顔をあげてユーレカを見据えた。そこにいきなり声をかけられた驚きはあっても、見知らぬ人物に心当たりもなく話しかけられた困惑は見受けられない。この男が依頼人で間違いないようだ。
「初めまして、情報屋ギルドより参った者です」
 男は頷いて、手元の本をぱたりと閉じた。空いている椅子に置いていた鞄にそれを仕舞い入れる。それからユーレカを見つめた。
 ユーレカは情報屋として依頼人に会うにあたって、金色に波打つ髪を後ろで一本に結い、それをつばのついた帽子の中に隠していた。服装もゆったりとした上衣に、下はカーゴパンツである。遠目には少年のようにも見える。
 男は居住まいを正し、口を開いた。
「初めまして。……ええと」
 口よどむ男に、ユーレカは笑みを浮かべる。
「有刺鉄線≠フ呼び名で通っているけれど、お好きにどうぞ。貴方も名乗らなくて結構です」
 その笑みは、依頼人と情報屋の関係以上には馴れ合わないという意志表示を含んだ、拒絶を示すものだった。一見可愛らしいのだが、相手の追及を先回りして潰すような、有無を言わせない類のもの。ユーレカが無意識のうちに体得した、得意な表情である。
 男に一言断って、ユーレカは彼の向かいに座った。
 男は先ほどのユーレカのにべもない返答に目を白黒させたが、
「ああ、君があのギルドの案内係の人が言っていた……こんな可愛らしいお嬢さんの呼び名が有刺鉄線≠セなんて夢にも思わなかったよ」
 すぐに平静を取り戻してくすくすと笑った。さすがに少年だと勘違いしてもらうことはできなかったようだ。
「似合わない、とはよく言われるですよ」
 ユーレカも笑う。
 男がユーレカの言葉にすぐに対応し、すぐに笑みを返してきたことに、少し驚いていた。ギルドで仕事仲間たちがこの依頼人を評していたことが分かったような気がした。
 男がお茶のお代わりを頼みたいと言ったので、ユーレカは店員を呼び止めた。男と自分の分のお茶を注文する。会計は別々にしてもらうよう、事前に店員に言っておく。金は信用ならないものだが、あるに越したことはない。自分の興味の対象外にまで金を注ぎ込む必要はなく、ユーレカに、男に茶を奢るという考えも趣味もなかった。
 注文したお茶が届くのを待ってから、ユーレカは口を開く。
「それで、提供してほしい情報は直接会ってから、という話でしたが……その前にこちらから、条件を提示させていただくです」
「条件?」
 男が首を傾げる。
「ええ。貴方と相対するような形になるのですが、簡単でも依頼内容を教えていただけなければ、依頼を受諾するかどうかお返事できないです。内容を聞いたうえで、こちらからお断りさせていただく場合もあるです。それでも良ければ」
 金を貰う立場でありながら客を選り好みする、ともすれば生意気だと激昂されそうな発言だった。依頼人に圧倒的な話であるのはユーレカ本人も重々承知している。不満ならば別の情報屋をあたってもらっても構わない。こちらから条件を示している以上、客をとられたなどと言うつもりは毛頭ない。
 ただ、自分でも危ないと思える橋はあって、それを渡ってしまったら対岸へは帰ってこられないだろうと、思うときがあった。背中が粟立つような感覚を覚えるときだ。その橋を完全に渡りきるつもりはなかった。自分は情報屋の有刺鉄線≠ナある以上に、孤児院で暮らし学院に通うユーレカ≠ネのであり、それだけはおざなりにしてはいけないと感じていた。
「どうでしょうか?」
 再び笑む。笑み以外の表情を、相手には見せない。
 茶髪の男はしばらく考え込むようにしていた。それはそうだろう、とユーレカは内心頷き、黙ってその姿を見つめる。
 もともとこの依頼人は、情報の提供を依頼するかどうかは情報屋本人に会ってから決めることにしていたようだ。それは、「情報を欲していること」自体が知られたくない、隠匿すべき事態であることをおそらく意味している。どこの誰が何とかという物事について知りたがっているという、その前提さえもが金銭の取引の場にあげられることすらあるのだ。
 しかし、その情報屋であるユーレカが、依頼内容を聞いた上で、仕事を受けるかどうか決めるという形をとっている。つまりはお互いが、どちらが先に出るかを争っている状態になっているわけだった。
 ようやく男が口を開いた頃、ユーレカはすぐさまここを立ち去り学院の図書館に寄った後、夕食の時間まで子どもたちの勉強を見てあげるという計画を練っていた。それほど、男がユーレカの条件を諾とするとは思えなかったのだ。
「それじゃあ」
 男が言い、ユーレカはお茶を流し込んだ。カップの中を空にする。
「お嬢さん、貴方に依頼をしたいと思うので、良ければ内容を話させてもらうよ」
 穏やかにそう口にした男に、驚きは表さず、ユーレカは笑みを返した。


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