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 「もう遅い……宿まで送っていってあげたいのですが……私は戻ることができません。君には感謝しています」
 頭上は木の葉に覆われており、疾うに別れを告げた太陽はもはや僅かな光も森の中へ届けてはくれなかった。薄闇を潜り抜けて今のうちに森の外へ出ることを考えなくては、明かりも持たない子どものアークでは身動きがとれなくなってしまいそうだ。
「おじさんはこれから、どこへ行くの?」
 この男が宿に泊まってくれればいいのにと、名残惜しい気持ちを抱えながらアークは尋ねる。見るからに疲れきったこの男は、重たい足を引きずって夜通し歩き続けるというのだろうか。
「……レヅラシカへ」
 男は先ほど、宿で口にしたのと同じ言葉を呟いた。アークは首を傾けるが、男はそれ以上を語らない。
「じゃあ、さいごに、おじさんの名前は?」
 ぼくはアークっていうんだ。男の名前を聞いたら帰ろうと決めて、アークは最後の質問を投げる。
「イシュメルと、いいます」
「イシュメル」
「そう、故郷の言葉で、意味は──」
 そのとき、いくつもの、地面を叩くような音が耳に届いた。アークは驚きに目を瞠り、そして男は大きく肩を震わせる。その震えはその後も小刻みに、止まる気配がなかった。
 断続的に、だんだんと大きく聞こえてくる音は、まるで強い雨が近づいてくるようだった。馬の蹄の音に似た、しかし風を切るというよりは地を這うような、いくつもの低音がアークと男の鼓膜を揺らす。
「えっ、なに、これ」
「行きなさい!」
 戸惑い、答を求めて男に視線を遣ったアークに、男が叫んだ。
「早く……できるだけ早く!」
 男の突然の大声にアークはうろたえる。しかし男が説明を重ねることはなかった。男の周りの蝶々も、何かを警告するかのように集まって形を作る。
「え、おじさんは、どうするの」
「私は……私はもう走ることができません。ほら、早く!」
 ようやく落ち着いて穏やかさを見せてくれた男がなぜこうも一転してしまったのか、どうして今すぐここを立ち去らなければならないのか。分からないことは沢山あった。ニの足を踏むアークに、男がもう一度声を張る。
「アーク!」
「……っ」
 名を呼ばれ、弾かれたようにアークは踵を返した。事情はさっぱり分からなかったが、ただあまりにも焦燥感を滲ませて男が自身を呼ぶので、それに押されるようにして走り出した。
 後方から、何かが地面を蹴る音が迫ってくる。まるでアークを急かしているようだった。アークは懸命に足を運ぶ。既に尽きた体力をさらに搾り出そうとするような苦行に四肢が悲鳴をあげる。
 背中から遥か遠くで声がした気がした。それでも立ち止まらず走り続ける。いつの間にか地面を叩く音は聞こえなくなっていた。
 男は──イシュメルはどうしたのだろうか。
 疑問が再び浮上すると、自然と足を動かす速度が遅くなり、やがて止まる。森の入り口はすぐそこにあった。
「はっ……」
 唇の隙間から息が漏れる。今来た道を振り返り、夜の帳の下で目を凝らす。
 そしてアークは薄闇の中に、空気を切り裂く鈍色と、鮮やかにたなびく青い蝶々を見た。

「イシュメル・ジスタだな」
 森の中の一本道で動かないイシュメルを前に、その男は威圧的に言った。その隣にももう一人、がたいの良い男がイシュメルを見下ろしていた。
 二人の男はそれぞれ巨体のヤクに跨っていた。額に二本の角を生やした四足の生物であるが、フィリア国内で牧畜用に見られるそれとは違う、角も含め全ての大きな種類だった。何より動きが俊敏で、大の男を乗せて駆けることもできるのである。
「まさか隣国まで逃げてくるとは。フィリアへの入国許可は得られたものの、滞在期間の短さからヤクに乗らざるを得なかった」
「しかし、谷を抜けてすぐ森に入ったかと先に森を探しに行き、戻るところであったのに、こうして出向いてくれるとは……ご足労感謝するよ」
 イシュメルは応えず、ただあまり音を立てぬようにして後ろに下がる。しかし男たちはすぐにそれを察知し、ヤクから降りてイシュメルとの距離を詰めた。
「ああ、また逃げたりして手間をかけさせないでくれ」
 字面だけは親しげに思える、実際は冷淡さしか含んでいない口調とともに、男たちはイシュメルに近づいていく。イシュメルは額に汗を浮かべながら後退したものの、度重なる疲労に限界が来たのだろう、がくりと足を折ってそのまま地面に膝をついた。両目に恐怖の色が浮かぶ。
 男の一人が、イシュメルの周囲で飛ぶ蝶々を見てあからさまに嫌悪を示した。それが特にイシュメルの右手の平の周辺に、まるで円を描くように集中しているのに気がつくと尚のこと声を荒げる。
「その蝶で何かするつもりか! この魔女め!」
 魔女、という単語にイシュメルは強く目を瞑った。脳裏でその単語が引き起こしてきた数々の悲劇が再生される。
「抵抗しない方が賢明だ。抵抗が見られる場合は、多少痛めつけてもよいとの許可が下りている」
「お前という魔女一人を捕らえるためだけに軍から俺たち二人が派遣され、テセルキィアから追ってきたんだ。気が立ってるから加減ができないかもしれないな」
 イシュメルは声にならない声をあげた。目の前の男が腰に下げた鞘から剣を抜き、刀身をイシュメルに見せつけるように掲げる。黄色や橙色の蝶々が剣とイシュメルの間に割って入り、壁を作ろうとする。が、間髪入れず、男が剣を振った。地面に、つい一瞬前まで優美に羽ばたいていたものの残滓が散る。
「……あ、」
 イシュメルの口から音が零れ出る。おそらく彼自身は意識すらしていないだろう、言葉にさえなっていない感情が森に響く。
 二人の男が同情に眉を下げることはない。男は先ほど横に振った剣を両手で構え、切っ先を地面に垂直に向けたままそれを振り上げた。
 朦朧とした意識の中で、事態を俯瞰しているかのように、イシュメルは蝶々がどこを舞っているかを感覚的に理解していた。空よりも青い蝶々が自分の背中の辺りを羽ばたいているのが顔を向けなくても分かった。
 いっそこのままの方が、レヅラシカ──安息の地には辿りつけるかもしれない。青い蝶が砂のように空気に散っていくのを感じながら、イシュメルは重い瞼を閉じた。


幕間一、了


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