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 両手に包みを抱えて、アークは懸命に森へと走った。目的の人物である男は随分と疲労していた様子だったから、たとえ五、六歳ほどの子どもの足といえどもすぐに追いつけるような気がしていた。
 先程宿に現れ、しかし宿泊を諦めて去ってしまった男。事情があって宿に泊まることができないのなら、せめて夕食の足しになるようなものを届けてあげたかった。男が宿を訪れたときの様子から察するに、彼は村で食料を補給したりもしていないはずだ。乾燥させた肉や果実ばかりの食事がひどく味気ないものであることは、旅人たちの嘆きをよく聞かされていたから知っている。
 息を切らしながら足を動かして、森の入口が見えてきた頃、アークは探していた背中を見つけ顔を綻ばせた。咄嗟にその男の名前を呼ぼうとするものの、名前も含め彼のことを何一つ知らないことに気付く。
「……っ、おじさん!」
 その逡巡のうちに男は森の中へと足を踏み入れていた。アークの声は森の入口で遮られ、草木の中に染み込んでしまう。
 焦って見つめる男の姿は疲れきったそれで、彼の動きは予想通りひどく緩慢なものだった。森の中に整備された一本道を彼が逸れる気配はない。
 ティアナには、時間も遅いから進むのは森の入口までにしておくように言われていた。彼に追いつくためには森の中まで入っていかなければならない。それはティアナとの約束を破ることになる。しかし、彼はもう追いつけそうな場所にいるのだ。ここまで来て、包みを渡さないで帰るのも悔やまれる。
 二つを天秤 にかけると、アークの心情も味方し、男を追いかけるという考えに簡単に軍配が上がった。叔母との約束を破ることになり多少心が痛むが、あとでティアナ姉さんに謝ろう、と気持ちを切り替える。
 大きく足音を響かせながら、森に入っていった。足元は薄暗かったが、切り開かれた道の先は雲の隙間から差し込む日の光が沁み込んで仄かに明るかった。酸素不足に一度立ち止まり、荒れた呼吸を整えるためにはあっと息を吐き、吸う。額に滲む汗を拭ったとき、傍らを何かが掠めていくのが見えた。アークはそちらに何気なく目を遣る。
 それは透き通るような青色をした蝶々だった。細い光を浴びて宝石のように、かつ優雅に舞う姿にアークは今の状況も忘れて魅入った。大きさは両手の平でやっとのこと包み込めるような程だ。手を伸ばしてこの場に留めてしまいたいような、同時に、どこまでも追いかけてひらひらと飛ぶ姿を眺めていたいような気がした。
「……あ」
 蝶々はアークの手をすり抜けるようにして森の奥の方へと飛んでいく。名残惜しそうに蝶々を見つめたアークは、我に返って自身も足を動かした。男の背中は先ほどより小さくなっている。
 森の中の一本道で、男、蝶々、アークが線で繋げられるような形になった。アークは、蝶々が男を追い、自分がその蝶々を追っているかのような不思議な感覚を覚える。
 だんだんと疲労を訴え始めた足を動かしていると、再び、ひらり、蝶々が傍らで踊る。いつの間にか先ほどの青い蝶々を追い越してしまっていたかと見ると、それは橙の羽を持つ、別の蝶々だった。
 花が咲き誇る季節ならいざ知らず、この時期に、しかも夜にここまで蝶々を見かけるものだろうか。視界に現れた橙の蝶々もまた森の奥の方へと向かっていた。
 ふと男の背中を注視すると、彼はどうやら立ち止まっているようだった。そのことに安堵するよりも、そこにまた鮮やかな色が散っていることに目が行った。黄色や水色の手の平大の大きさのものが、忍び寄る暗闇に負けず存在を主張している。何かに化かされているような思いを覚えながら、アークは男へ近づいていった。
「あの、こんばんは」
 男の背中に話しかけると、彼はびくりと体を震わせた。恐る恐るというようにして振り返るその様子に、何か悪いことをしたかと不安になる。
「泊まっていかないなら、せめてごはんだけでもと、思って」
 アークは慌てて、腕の中の包みを前に出した。
 男は依然として怪訝そうな表情のまま、たった五六歳ばかりの子どもであるアークを見つめていた。
「……ああ、君は、さっきの宿の……」
 ようやく得心したように男が答える。その間も彼の周りを数々の蝶々が囲んでいた。まるで彼を守っているかのようだった。
 アークが一歩男へと近づくと、彼は一瞬退くような素振りを見せたが、何羽もの蝶々を一瞥し肩の力を抜いた。
「すみません、ありがとうございます。とてもありがたいです」
 男は警戒を解いた様子で力なく笑った。
「このちょうちょは?」
 アークは男に包みを手渡し、その傍らで蝶々を見上げた。夜に見るそれらはやはり、魅力的であると同時に異様だった。
 男は辺りを見回しながら逡巡した後、ゆっくりと口を開いた。
「昔からなんです」
「むかし?」
 その昔というのが一体どれくらいを差すのか、アークには推測がつかなかった。ただ前を向いてひた走る子どもにとって、昔というのはお伽話の冒頭部分でしかお目にかかることのない言葉だった。
「いつもいつも、私の周りでは蝶々が飛んでいるんです。時折いなくなることもありますが、基本的に常に。薬師に見てもらったこともありますが、だめでした。この蝶々たちはまるで私が母親であるかのように、片時も側を離れないんです」
 男の口からは塞きを切ったかのように言葉が溢れ出した。男の故郷の訛りか聞き取りにくい部分もあり、アークがすぐに理解するのは難しかった。そんな様子のアークを見て、男は我に返ったように頭を振る。
「ああ、すみません……初対面の貴方に言うような話では……いえ、人に言うような話ではなかった」
 男は憔悴しきった様子で、アークの方を見ているようで、その実何も見ていないようだった。ただ彼の周りを何羽もの蝶々が飾っていた。
 何か言わなくては、とアークは口を開く。
「でも、でもきれいだと思います!」
「綺麗?」
「はい、とっても」
 開いた口から零れ出た言葉は偽りのない本音だった。アークは蝶々へと指先を伸ばすが、するりとかわされる。しかし蝶々たちは男のことを本当に好いているようで、ひらひらと舞いながらも男からの一定の距離を保っている。
「……ありがとう。そう言ってくれたのは、今まで出会った人の中で君が二人目です」
 男はその瞳に、初めて柔らかい色を映した。アークも笑みを返す。男はアークから包みを受け取り、改めて礼を言って頭上を仰いだ。


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