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第五章



 暗闇の中にぽつりと声が浮かぶ。
「……当面御前には役に立ってもらう」
 感情の読み取れない低い声だった。それは発せられるそばから空間にただ霧散していく。
「それがよばれた理由で、わたしがここにいる理由?」
 対して、異様に高い声が宙に疑問符を描いた。子どものような女性のような、無邪気な様相である。
 空気の流れさえ感じとれない無意味な時間がしばらく流れた後、
「……そう言う事にして置け。自由に解釈すれば良い」
 低い声が吐き捨てるように言った。
「そう、ならそれがわたしの理由」
 高い声が歌うように返し、間髪入れず一陣の風が辺りを駆け抜ける。風は渦を描き、そして一人の男の輪郭をなぞった。

***

 一日の仕事を終えたアークは自室に戻り、ほうと息を吐いた。ベッドに腰をかけて天井を見上げる。
 今日も宿泊客の食事を作ったり部屋を整えたりと、やったことは普段と変わらなかった。特筆すべきことといえばソレイユとともに、彼女たちの馬の毛を梳いてやったことくらいか。
「……何にも、言ってこなかったなあ……」
 ぽつりと呟く。
 日中何度も顔を合わせ雑談こそしたものの、カーライルたちはあの話に一度も触れてこなかった。
 あの話――アークが彼らに教えた、とある本の訳に関する話である。
 やっぱ信じてもらえなかったかな、とアークは首を傾ける。一抹の寂しさを感じると同時に、無理もない、と思う。何しろ初めて見る文字を読めたということは、アーク自身にすら信じ難いのだから。
 カーライルに渡された紙に書かれていた文章は、全く見覚えのない文字で書かれていた。しかしアークがそれを手にとった瞬間に、空気中に形をもって溢れ出ようとしてきたのだ。
 自身の回りに時折現れる文字は本当に存在しているのか、あるいは幻覚を見ているのか。それは当事者であるところのアークにも定かではない。
 ただその文字は、アークが物心ついたときから時折、彼の目の前に姿を見せ、そしてその間隔は、だんだんと短くなってきていた。
 アークは視線だけを壁に送る。壁を覆うようにして立っている本棚には、もともと父親の所持品であった本が詰まっている。
「お伽話みたいに、祝福されたとか呪いをかけられただとか、それくらいはっきりしててもいいのに」
 不平を漏らすように言う。もっとも、祝福ならまだしも呪いなどお断りだけれど。アークが幼い頃に読んだ童話の中に、世界一美しいと称される姫が、それを妬んだ魔女に呪いをかけられて、世界一醜いと言われる容姿になってしまうという話があった。姫は心の支えとなっていた動物たちや王子の尽力のおかげで、最終的にその美貌を取り戻すのだが、呪いをかけられた姿の挿絵が衝撃的すぎて、アークにとってその童話は未だにただ恐ろしい話となってしまっている。
 しかし言ってみたところで、祝福も呪いも、生まれてからこの宿を出たことのないアークにはありえなさそうな話だ。結局疑問は疑問のままで、自分の中で氷解しないままに終わるのだろう。
「……もう寝よう」
 寝るときに着る軽い衣服に着替えようと、アークはベッドの下の箱に手を伸ばす。それに手が触れないうちに、遠慮がちな音が扉を叩くのが聞こえた。
「はい、どうぞ?」
 言いながらアークは扉に近づく。アークの部屋の扉が叩かれることなど滅多にない。誰だろうか、と不思議に思いながら取っ手を捻る。ティアナであることは絶対にないと確信していた。彼女であれば、ノックもなしに勢い良く扉を開けてくるだろう。
「やあ、アーク」
 そこに立っていたのはカーライルだった。
「カーライル……どうしたの」
 無意識のうちにカーライルから目を逸らしながら、アークは問う。
「うん、アークに話をしようと思ってね……昨日のことなんだけれど。疲れているところ大丈夫かい?」
「ああうん、そのことなら、大丈夫」
 アークの返事にカーライルは満足げに微笑む。
「ここじゃあなんだから、私たちの部屋に来てもらいたいんだけれど、いいかな」
 そう言う声について、アークは三階へと階段を上った。向かうはこの宿で一番広い、五人用の部屋である。
「お、アーク、よく来たな!」
「よく来たなって……ここはアーク君の家なんだから、何を我が物顔に言ってるのよ」
「お前は頭硬いな、ここが今のオレらの家みたいなもんだろ」
「頭が硬い!? シュウにだけは言われたくない台詞だわ」
「……アーク君、好きなところに座ってくださいですよ。ただし仲睦まじく喧嘩をしてるソレイユとシュウの間だけはおすすめしないです」
「誰が仲睦まじいですって!?」
「誰が仲睦まじいだって!?」
「証拠だ、それが」
 綺麗に揃った二つの声に、ファスが最後にぼそりと漏らす。
「はいはい、話を始めるよ」
 部屋に並ぶベッドに思い思いに座っている四人を、カーライルがなだめるようにする。それから空いていたベッドに腰をかけ、アークにその向かい側を勧めた。ユーレカとファスがカーライルの居る向きに合わせて座り直した。ソレイユとシュウは視線をぶつけ合ったあと、観念したようにどちらからともなくそれを外す。
 カーライルは場にいる全員を見渡して口を開いた。
「いきなり本題に入らせてもらうけれど、私はアークが教えてくれたもの――観察官見聞録という本が存在することを、信じてみることにしたよ」
 一同の注目が自然と自分に集まるのを、アークは意識する。カーライルは続けた。
「正直なところ、そんな本の名前は聞いたことがなかったし、国の資料室でも見たことがない。けれどアークには嘘をつくことで得る利益がないし、何よりいたずらにそんな嘘をつくような子ではないことを、私は知っている。――だから今後はこの本を手に入れてそれを解読していくことで、現在に繋がるものを調べていこうと思う。歴史家らしくね。これが私が夜通し考えて出した結論だ」
 おかげで隈ができたよ、というカーライルの台詞には誰も突っ込まなかった。
 四人は、「観察官見聞録」という本自体を探す、という彼の話にも反論しなかった。そうは見えなくともカーライルと彼らは上司と部下の関係であるようだから、当然と言えば当然なのかもしれなかったが。
「……分かったわ」
 ソレイユが四人を代表するように答える。
「手詰まりになっていたところだものね。この宿にも随分といたことだし」
「やっと活動再開って感じですね」
「ああ、そうと決まれば早くホロスコープを迎えに行ってやらなくちゃな」
 口々に言う彼らにカーライルは頷き、アークに向き直った。
「アーク、振り回してしまったようで申し訳ないけれど……助かった、と言わせてもらうよ。ありがとう。さっきソレイユが言っていたように、実際手詰まりな状態だったんだ。どこかに情報がないかとあの紙を持って首都を出て、途中で私とソレイユ、ファスとシュウとユーレカの二組に分かれたものの……ろくな収穫を得られなくてね」
 再び礼を口にして、カーライルは頭を下げる。
「あ、いや、カーライル」
 そんな大したことはしてないし、とアークは慌ててカーライルの頭を上げさせる。顔を上げたカーライルと目が合った。
「アーク?」
「何でもないよ。それよりほらカーライル、カーライルがいないと話が進まないじゃないか」
 アークは笑い、カーライルの腕を引っ張って彼の部下たちの方に向ける。ソレイユたちは新たな目的に向けて話を始めていた。


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