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幕間一 片隅の蝶々



 いつ雨が降り出してきてもおかしくないような、暗い空だった。普段はムーア山脈を柔らかく照らす光も厚い雲に遮られている。
 そんな天気のせいか人々のささめきもどこか押さえられたものだったが、ムーア谷に近い宿「鈴蘭の音色」では、雨雲などに負けてはいられないと女亭主が声を張っていた。彼女の快活さに自然と客も明るい心持ちになり、やがて宿の一階は晴れの日と変わらない賑やかさを取り戻し始める。
「グラスもう一杯、頼む」
 喧騒の隙間を縫って、テーブルのどこからか声が飛んでくる。しかしちょうどその時、女亭主――名をティアナといった――は他の客の対応に追われており、その声を聞き逃した。カウンターを挟んで、奥の方で調理をしていたティアナは、自分の衣服の裾が何かに引かれた気がして首だけを後ろに回した。羽織っていたカーディガンがカウンターに引っ掛かったかと思ったのだ。そのカーディガンは、村の仕立屋の女性が作り上げてくれたばかりの下ろしたてで、こんなにもすぐほつれさせてしまうわけにはいかなかった。
「……あら、アーク? どうしたのよ」
 彼女は自分の衣服がどこにも引っ掛かっていないのを認めると同時に、視線の先に子どもを発見した。あどけない顔をした、五、六歳くらいの男の子である。黒髪がぴょんぴょんと跳ねているのが、まだ若さを感じさせるティアナの髪型と似ていた。
「ティアナ、ねえさん」
 つっかえながらも少年、アークはティアナの関心を引こうとする。ティアナはくるりとアークに向き直り、腰を曲げてかがんだ。
「どうしたの、何かあった? 嫌なこと?」
 ティアナの言葉にアークはふるふると頭を左右に振る。それから、言葉で伝えるよりも行動した方が早いと感じたのか、カウンターの向こう側を指差した。
「おさけ。一杯ほしいって、さっき言ってたよ」
 先程ティアナが聞き逃した言葉を、幼い少年はたどたどしく話す。
「ああ」
 ティアナは得心した顔をして、手早くグラスに酒を注いだ。
「ありがとう、アーク。ついでにこのグラスを、届けてきてもらえるかしら」
「わかった!」
 ティアナはアークにグラスを渡す。グラスはそう大きいものではないので、小さい子どもが持ってもふらつくようなことはない。念のため取っ手部分を掴ませ両手でしっかりと固定させて、ティアナはアークをカウンターから送り出した。
 真っすぐに注文をした客の方へと向かうアークを見、
「あの子は絶対、よく働くようになるわ……」
 私の将来は安泰ね。と、満足げに一人ごちる。カウンターで飲んでいた客が、それを聞いて「よく働くようにする、の間違いだろう」と笑った。
 アークは大きなグラスを、まるでそれが宝物であるかのように真剣な顔つきで運び終えた。
「坊主、ありがとよ」
 酒を注文した男に、頭をわしゃりと撫でられる。無骨ではあるが温かいその行動に、アークは困ったような嬉しいような表情を浮かべ、目線をあげた。
 カランカラン。アークがカウンターへと戻ろうとしたとき、宿の入口に下がる鈴が揺れた。誰か新しい客がやってきたことを告げる音だ。
 いつものように、アークは入口へと駆け寄る。ティアナの真似をして、「いらっしゃいませ」と声をかける。おそらくティアナは、アークが困った空気を出さない限り、応対を任せるだろうと思われた。
「いらっしゃいませ、泊まり、ですか?」
 アークは新たな客を見上げる。男だった。薄汚れた外套に身を包み、かなり憔悴した様子の、三十から四十歳位の男だった。
 男は一瞬、五歳ほどの子どもが出てきたことに驚きの表情を浮かべたが、それもすぐに疲れた色の中に隠れてしまった。
「……ああ」
 男は息を吐くように言う。
「一晩泊まりたいのだけれど……空いていますか」
 その問いに、アークは大きく頷いた。部屋は一番広い五人部屋から一人部屋まで、全て空いていた。宿屋の子どもとしては、それを歎かなくてはいけなかったのかもしれない。しかし、目の前のあまりにも疲労困憊した男を泊められるのならば、そんなことは些細な問題だった。
「あいてます、一人べやで、いいですか?」
 アークが尋ねると、男はゆっくりと頷こうとした。が、そのとき、男は不意にびくりと体を震わせて、視線をさ迷わせた。
「……あ、いえ、やっぱり、止めます。すみません。早く……レヅラシカに行きたいので……」
 落ち着かなさ気に言うや否や、男は踵を返して宿を出て行った。カランカラン。戸口の鈴が騒がしく揺れる。
 アークは半ば呆然として、去っていく男の背中を見つめていた。男は疲れた足をひきずりながら、森のある方角へと向かって行った。
 レヅラシカ? 聞いたことがない。アークは首を傾ける。宿の近くの森を抜けてあるのは小さな村だけで、それもレヅラシカという名とは似ても似つかないものである。レヅラシカという言葉が地名を指すならば、だいぶ遠くにある場所だろう。もうすぐ夜が来るというのに、今からそんな遠い土地を目指して歩き続けるというのか。
 アークは踵を返し、カウンターへと向かう。
「そうそう、何の話をしてたっけな? あれだ、テセルキィアから軍人が入り込んでるらしいぜ」
「軍人? 何でまた」
「さァ、一介の旅人の俺にゃあ分かんねぇな」
「ああ、俺が風の噂で聞いたところによると、逃走中の罪人を追ってるらしいぞ」
「お前の言う風の噂は当てにならんからなあ」
 客たちの間で繰り広げられる雑談をすり抜けて、アークはティアナに声をかえた。
「おば……ねえさん!」
 うっかりしそうになった失言に、叔母が目を剥きかける。
「なぁに、アーク?」
 妙にゆったりと尋ねられ、アークは幼心に二度とこの叔母の呼び名を間違えないようにしようと誓った。
「あの、今きたひと……やっぱりいそぐからって行っちゃったんだけど、ひきとめた方がよかった、かなあ?」
 アークのその言葉に、やはり客がすぐ去ってしまったことを気にしていたのだろう、ティアナが考え込むようにする。
「ううん、急いでいたのなら、あえて引き止めることもないわ。大丈夫よ」
 アークの小さな頭に手を置く。アークは気恥ずかしそうに目を細め、しかしそのあと躊躇いがちに口を開き、閉じた。
 この小さな甥が時折こういった遠慮を見せることを、ティアナは知っていた。いっそのこと自分のことを「姉さん」ではなく「お母さん」と呼ぶように育てた方が良かったかと、思ったことも一度ではない。けれどそんな嘘を言っても、宿近くの村人は真実を知っているし、何より、アークを産むために腹を痛めた「母親」が別にいることを、きちんと知っていてもらいたい。そう思ったのだ。
 そんなことをぼんやりと考えながら、ティアナはアークの名を呼ぶ。
「その人は、どっちへ向かったの?」
「……あ、えっと、森の方だよ」
「そう」
 短い返事とともに、カウンターの上の籠を二つ引き寄せる。一つの籠の上には畳まれた布がかけられており、ティアナはそれをカウンターの上に広げた。その上に、二つの籠の中に入っていた果物とパンを載せ、布の端を結ぶ。
「今から急げば、間に合うかもしれないわね。これを届けてあげなさい」
「……っ、うん」
 宿泊を諦め去っていった客がよっぽど気がかりだったのか、ティアナの提案にアークは顔を綻ばせる。
「ただし、森の入り口まで行ってもその人に出会わなかったら戻ってくること! もうすぐ日も暮れるし、早く帰ってこなきゃだめよ」
「うん!」
 アークはティアナから包みを受け取り、それをしっかり両手で抱え込むと踵を返した。


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