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 煙は、暗くなってきた森の中ではとても際立って見えた。一本の筋となって、絶え間なく立ち上っている。つまりそれは、焚き火があるということだ。焚き火があるならば、そこには人がいる。その人は村への帰り方、あるいは方角を知っているかもしれない。
 とりあえずの目標として、アークはその焚き火のところまで行ってみることにした。草の間をかき分け、幹に手をつきながら進んでいく。陽は完全に沈んでしまって、辺りは真っ暗である。そのうえ人間のことなどおかまいなしに根が張られているために、非常に歩きにくい。様々な太さの枝も落ちている。幸いだったのはアークの視力がそう悪くはなかったことで、目をこらしつつ歩いていると暗闇にも少しずつ目が慣れてきた。
 こんな森の中に、こんな時間に人がいるなんて何でだろう。
 自分のことは棚に上げながら、アークは考える。
 テセルキィアから入ってきた人だろうか。こっちに入ってくる時間が遅くなって、『鈴蘭の音色』までたどり着けなかった。それで今晩は野宿をしようと思って、思わず森に入ってしまったとか……。
 アークの思いついた可能性は、そうありえない話ではなかった。この国フィリアは、隣国テセルキィアと谷で繋がっている。その谷は国と国を繋いでいるにも関わらず、関門も何もないために、いつそこを行き来するのも自由だ。遅い時間に谷に入り、真夜中を過ぎる頃にフィリア国に入って、『鈴蘭の音色』を訪れる者も時折いた。
 木と木の間を、ただ白煙を目指してアークはすり抜けて行った。やはり火を焚いているのだろう。目的地に近づくにつれて、葉や草などの植物が赤く染まり、その影がより一層暗くなってきていることが分かる。
 炎が見えそうで見えない位置まで来て、アークは歩調を緩めた。極力音を立てないように、少しずつ近づいて様子を伺う。
 焚き火のそばに、人がいる気配があった。もしそれが隣国など外から来た者であるならば、不用意に出て行くのは、アークにとっても向こうにとっても危険だった。どんな者でも、見知らぬ場所で過ごすときには知らずのうちに警戒心が高まっているものだ。この森のことをよく知らない者に、森に潜む獣が現れたと思われて、剣でも向けられたら大変である。
 兎にも角にも、人がいて良かった。アークは安堵の胸を撫で下ろす。と同時に幾許かの疲労感が襲ってきて、今さらながら森の中を歩き回っていたことを実感した。ここ数日間、確実に疲れが蓄積されてきていることも原因なのかもしれない……頭を振って、逸れかけた思考を中断する。アークは明るい方へと首を伸ばした。
「わざわざ谷を越えてまできた隣国だ……この谷のすぐ近くに村があるってのは本当なんだろうな?」
 不意に声が飛んできて、アークは思わず身を震わせた。
 低く、やや粗暴さの感じられる声だ。
「そりゃ間違いないさ。何たって、商品として店に並ぶ前の地図をかっさらってきたんだからな!」
 先ほどとは別の声。男だとは判断できるのだが、それにしては高めで、若さと同時に軽薄さも感じられる。
「ああ、あの店は良かった。俺から見りゃガラクタ以外の何物でもなかったが……質商達が盗品だってことも忘れて高値出したくらいだ」
 また別の声が相槌を打った。
「あれは凄かったよな! なあ、戻るときにもう一回あの店に行こうぜ。また、楽に大金稼げるだろ!」
「確かに質商達は買い取りに乗り気になるだろうが……。一度財産を失った奴がそう簡単にまた店を出すと思うか? 少しは頭を働かせろ」
 最初の声が低く切り返す。明らかに相手を馬鹿にしていると分かる口調に、もう一方が応戦しようとする。俄かに場は騒がしくなったが、
「お前ら、あまり騒ぐな。万一誰かに聞かれたらどうなるか、分かってない訳じゃあないだろう。口止めにも限界がある」
 四人目の声がそれを制した。
「……分かってるさ、それくらい」
 二番目の声の主が拗ねた子供のように言って、けれどそれきり声はぼそぼそと、何を話しているのか聞き取れないほどに小さくなった。
 訪れた静けさとは対照的に、アークの心拍はより大きく、早鐘のように強くなってきていた。それを自覚しながら、息を吐くことすら出来ないまま手近にあった幹に身を寄せる。どこを見るともなしに視線をさまよわせ、足元に目を落とす。
 頭の中で、今しがた聞いたばかりの単語が渦巻いていた。隣国、村、盗品、大金、口止め……。一つ一つの名詞の意味は分かる。が、それらを上手く繋げることができない。ボタンは規則正しく布地に並んでいるのに、それをかけ違えているかのようだ。かけ違えていることは分かるのに、どこをどう間違っているのかは見つけられない。頭が、中心から外側に向かってじわじわと痺れていくような感覚が広がっていく。
 落ち着け、ちゃんと考えろ。
 自分に言い聞かせ、深呼吸して思考を成り立たせようとする。もともとアークは頭の回転の鈍い方ではなかったし、また特別そうではなくともこの結論には至っただろう、すぐに答は導き出された。
 声から推測して、焚き火の辺りにいるのはおそらく四人。発言していない者はいないと仮定する。こちらからは姿が見えないので、それより多くとも確認のしようがない。全員男で、皆成人しているようだ。しかし、性格や年齢にはばらつきが見られる。……そして何より、彼らの共通点は、金のために、躊躇いもなく窃盗をするということだった。
 心臓が一つ音を立てた。
 窃盗団。あるいは盗賊、と言ってもいいかもしれない。彼らは地図を盗ってきた、と言った。地図ならば大抵の雑貨屋ででも手に入る。裕福な家を狙うでもなく、財宝が眠っているかもしれない遺跡を狙うでもなく、どこにでもあるような店から商品を盗る。その対象に拘りのない、なりふり構わない窃盗行為。
 そして同時に、彼らの言葉をもう一つ、反芻する──この谷のすぐ近くに村があるってのは本当なんだろうな?
 考えるまでもなかった。この谷のすぐ近くにある村といったら一つしかない。アークの暮らす宿「鈴蘭の音色」から、少し離れた座標に位置するムーア村。アークの知り合い、顔見知りも多く住んでいる。顔を合わせれば挨拶も雑談もするし、宴のときには一緒に笑いあう。大人たちはアークによく目をかけてくれているし、子どもたちは慕ってくれている。素朴で人の良い村民たち。
 この盗賊達は危険だ。性格や年齢はばらばらで、一致団結しているようにも思えない。だからこそ、危険だ。とても危うい。綿密に計画を立ててから実行する集団よりも、なりふり構わない寄せ集めの方が害をなす場合もある。何をしでかすか分からないからだ。
 それでもまだ気を保っていられたのは、盗賊たちが今日のうちには動き出さないだろうという結論が導き出されたからだった。さすがに白昼堂々襲ってくるとも考えにくいため、明日の昼間の可能性も薄い。まだ間に合う。猶予は残されている。村の男たちで自警団を組めば、盗賊にも十分に対抗しうるだろう。
 心拍は今だ落ち着かず、いつのまにか手の平に汗を握り締めていたけれど、大丈夫だと思うことができた。何とかしてこの森を抜けて、村の誰かに伝えればいい。盗賊が来るから、向かい打たなければならないと。やるべきことは非常に単純だ。単純すぎて、痛いくらいにしっかりと刻み込まれた。
 右手の中の籠に目をやり、アークは動き出す決心をした。すう、と息を吸って、静かに吐いて肩を落とす。完全に夜の帳が下りた森の中、アークは足を踏み出した。
 ──ぱきり。足元で、小枝が砕けて音を立てた。


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