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「…………っ!」
 思わず息を呑んだ。
 やばい、やばい、やばい、やばい。頭の中で警報音が鳴り響く。妙に強く意識される脈拍と相成って、それは思考を痺れさせる。
「……なあ、今何か聞こえなかったか?」
 盗賊のうちの一人がそう口にするのが聞こえて、弾かれたようにアークは身を翻した。
 走る。ただひたすらに足を運び、あの盗賊たちから離れようとする。音を立てないように気をつけることすら忘れていた。茂みの中に飛び込み、そこかしこで枯れ枝を踏み、草や葉を踏みつけて痕跡を置き去りにしていく。盗賊に存在を悟られないように静かに進む、そんな余裕は既にアークには残されていなかった。見つかってしまっては意味がない。とにかく逃げなければ、という思いだけが強迫観念のように心を支配していた。
「枝の音だろう、鼠か何かじゃないのか」
「いや、鼠にしては大きすぎる……それにほら、走っていく音がする」
「俺たちの話を、影で聞いてた奴がいるってのか!?」
「……そういうことになるな。村の連中にこっちのことを伝えられたら厄介だ」
 男たちの間でこんな会話が交わされたことも、アークは知らない。ただ走り続けた。追っ手が出されているのかどうかも分からないままに、それしか知らない赤ん坊のように、走り続けた。
 密着した木々の間を通る際に枝がはじかれて、アークの腕を打っていった。しかしアークは迂回せず、またしても細い隙間を潜り抜けていく。多少の痛みは感じるものの、早く逃げられることに比べたら枝が腕を打つことなど些細な問題だった。
 体が酸素を求めて、自然と呼吸も速くなる。どれだけ走ったのかは分からなかったが、体の各所が限界を訴え始め、アークは歩調を緩めた。やがて速度は歩くほどとなり、いつしかアークは立ち止まっていた。
 衣服が汗で肌に引っ付いて気持ちが悪かった。腕には何箇所か擦り傷ができていたし、服もどこかに引っ掛けたのだろう、ほつれていた。呼吸は荒く、喉が焼けつくように痛い。普段なら絶対にそのまま飲みたいとは思わない谷川の冷たい水を、グラス一杯分流し込みたいと思った。
 アークは深呼吸を繰り返す。頭を振ると、髪にからまっていた葉がはらりと振ってきた。その葉の行き先を見届ける。そのうちに、動悸も収まり、ようやく冷静さも戻ってきた。
 大丈夫だ、さっきも自分で考えたじゃないか。地の利はこちらにある、村まで辿りつけさえすればいい。
 加えて、周囲が静かであることも、今のアークを支えていた。今や風もなく、しんとして、自分の息遣い以外には何も聞こえない。動物も植物も寝静まっているようだ。夜特有の静けさが、近くには盗賊は居ないということを裏付けていた。近くにいるとしたら、その話し声や動いている音がこっちにも伝わってくるはずだ。この森の中で、音を出さず移動することは不可能に近い。
 もしかしたら向こうは、アークという人間が彼らの傍にいたことなど、今だ気づいていないのかもしれない。現に追いかけてきている様子はないのだから、存外焦る必要はないのかもしれなかった。
 そう思うと、張っていた気が抜けた。
「……は」
 不意に視界がぼやける。ぐらり、体がよろめき、思わず手近にあった幹に手をつく。
 額から伝う汗を意識しながら、アークは強く目を瞑った。
「今は、出てくるな……」
 小さく呟き、目を開ける。けれど、その望みは聞き遂げられなかったようだった。アークの顔が悔しげに歪む。
 辺り一体に浮かぶそれは、文字。
 フィリア国含むローシャーン大陸で一般的に使われているものから、今現在使う人はいないと思われるもの、文字であるか疑わしいものまで。古今東西、ありとあらゆる場所、時代のものが浮かんでいた。大きさもソルベの実程度の小さなものからアークの両手でやっと包み込めそうなものまで様々である。
 それらは半透明で、さらに一つ一つ、異なる色を放っていた。ローシャーン語で「始まり」を示す文字は朱色に、共通数字の「九」を表す文字は空色にといった具合だ。夜に沈む森の中で、その色はとても際立っていた。おかげで辺りは明るい。足元に転がる小石も認められるほどだ。明るさを振りまきながら、文字はそれぞれの呼吸で明滅していた。
 宙に浮遊する文字を、瞬きもせずにアークは見つめる。風に流れて、あるいは自発的になのか、文字は漂っていた。しかしアークの周囲から離れていくことはなく、拡散もしない。アークを中心として一帯を取り巻いているようだ。
 睨みつけるような調子で、アークは文字を見た。見たところで文字が浮かんでいるという事実は何も変わらなかったが、それでもそうしたかった。文字を振り切るようにして、アークは再び歩き出そうとする。
 しかし、幹についた手も虚しく、体は傾いていった。瞼もゆっくりと落ちていく。樹皮で手の平を擦る痛みも、意識を取り戻すための何の助けにもならなかった。
「ああ、最近、よく眠れてなかったから……」
 ……だから、こんなときに。
 意識が埋没していくのを感じながら、同時に滲んだものは後悔だった。

 第一章、了


 
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