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「……絶対、おかしい」
 アークは本日何度目かの台詞を呟いた。
 もたれるようにして幹に肩を預け、息を吐く。そこは決して、居心地が良いとは言えなかったけれど、他に寄りかかれるものもないので仕方がない。木に寄りかかり、森の中、アークは一人空を仰いだ。
 ある程度の間隔をもって地に根付いている木々は、盛夏を過ぎて今なお葉を茂らせている。そのおかげというべきか、太陽が今どこにあるのかは分からない。ただ、葉と葉の隙間から橙色の光が差し込んできていることから、陽が沈みつつあることは見てとれる。もう少しで、陽は完全に沈んでしまうだろう。そして、月の光がろくに届かないこの森では何も見えなくなって、足を一歩踏み出すことさえできなくなってしまう。
 そうなってしまうと困るのは自分だ。アークは手の中、この森に入り込んだ目的を見る。
 右腕にぶら下がっている籠の中には、小さな玉のようなものがいくつも詰め込まれていた。ソルベの実だ。先ほどもいだばかりの果実は、紫色の光沢を放っている。
 夏から秋へと移り変わるこの時期に、ソルベは実を実らせる。籠の中の実は、まだ若干堅いかもしれない。わざと、完全に熟れてしまう前に収穫した。果実は熟すと甘い香りを辺りに撒く。そのために、小鳥を呼び、彼らが実をすべてついばんでしまう。その前に、せめて果実酒にする分だけでも採っておきたかったのだ。
 アークは黒髪をかきあげ、次いで金色の瞳を足元に落とす。地面には、小枝が奇妙な角度で刺さっていた。
「これが刺さってるってことは、つまりは、さっきと同じ場所ってことだよなあ……」
 少年に見つめ続けられても、小枝は動じず、依然としてそこにあった。もともと、時間の経過によって倒れてしまうほど浅く土に埋められたわけでもないし、風も強くは吹いてはいない。全く吹いていない、といっても良いくらいである。
 この小枝はつい先刻まで、地面にただ転がっていたものだ。随分前に折れてしまったのだろう、乾いた色をしていて、葉の一枚もついていない。どこも同じような場所に思える森の中、ここを通ったと示すために、アークが自分で立てた。そしてその後また歩き出したのだが……どういうわけか、今また目の前に、同じ小枝があった。
 この森には、中心で森を東西に分断するかのように、一本の道が敷かれている。どれほど昔からあるのかは定かではないけれど、地面には小石が撒かれており、よく整備されている道だ。アークも近くの村人達とともに、雑草を取り払う作業に参加したことがあった。あれは去年の夏だっただろうか。
 しかしその道とは対照的に、ひとたび木々の中へと入り込んでしまうと、そこは人間が簡単には手を出せない場所となる。木々が葉を茂らせ、その下で小さな植物達が勢力争いを広げる。果実や花が鳥を呼び、小さいとはいえ獣達が、道を刻んでいく。人間にほとんど手をつけられていない森は、動物、植物達の世界で、彼らなりの規律をもとに成り立っている。人間、ましてや知識も経験もろくにないアークが入りこんで、思ったように進めるような甘い世界ではなかった。
 ソルベの実は、太い木に巻きついた蔓に生る。人間によって整備された道から見る限りは発見できなかったので、アークはより深くに入り込んでしまった。ソルベを収穫するという目的は果たしたものの、一体今自分はどこにいるのか、アークにはさっぱり分からない。辺りを歩き回ってはみたけれど、どこも同じような景色が続いているように思える。
「絶対、宿はこっちの方角だと思ったんだけどな……。枝刺した場所に、戻ってきちゃったし」
 独り言が増えてきているのを自覚しながら、アークは右斜め後方に目をやる。自分が森をうろつく過程で踏み潰してしまった植物が、首を垂らしている。不意に申し訳なさを感じ、目を逸らす。それと同時に、『鈴蘭の音色』のことを思い出した。自分の叔母が経営する、宿、そして月に一度酒場となる場所のことだ。
 今日は満月の夜だろうか。だとしたら、きっと宴が開かれる。自分と叔母、二人で料理や酒類を回すのも大変であるほど忙しくなる。どちらか片方が欠けてしまえば、なおのことだ。そう考えて、アークは嘆息した。……ああ、ティアナ姉さん、怒ってるんだろうな。
 浮かんできたのは、困っているというよりは、どちらかというと怒りに満ちた叔母の姿だった。ティアナは普段こそ明るく快活だが、怒らせると怖い。いや、一度怒ると、そのことをいつまでも覚えているから怖いのだ。
 アークは肘で幹を押し、立ち直した。ここにずっと留まっているわけにはいかない。歩き出して、もと居た場所に戻ってきてしまったならば、今度は違う方向へ向かえばいいだけのこと。
 再び歩き出すことを決心して、アークはソルベの実を一つ取り出し、齧ってみた。やはり、実はまだ堅かった。甘酸っぱさが口の中に広がる。
「うん、行こうか」
 先ほどは右へ進んだ。だから今度は、左に向かって。
 ふと顔を上げると、木々と木々の隙間から、白煙が細く立ち上っているのが見えた。

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