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*3

 翌日の放課後、瑛の家へプリントを届けに行った。玄関口でプリントを渡してすぐに帰るつもりが、瑛の母に開口一番夕食に誘われる。家に連絡したところ母は止めるどころか寧ろ大喜びで、料理上手な瑛母の技を盗んできなさいとまで大真面目な調子で言われた。
 そういう訳で橋本家で夕食をご馳走になる。瑛の父は帰宅が遅いので瑛と瑛母と三人で食卓を囲む。並ぶ料理は豪勢で彩り良く、また瑛の母がくるくるとよく喋るので三人といえど賑やかな夕食だった。平日の夕食にこうやって誰かと食事するのも久しぶりだ。
 食器を片し、瑛について部屋へと向かう。
「瑛の母さんは相変わらずよく喋るな……」
「佑が来ると尚更だよ」
 瑛は正面を向いたまま笑い、部屋のドアノブを回す。 開かれた扉の奥には暗闇と静寂がぽっかりと何かが抜けた場所を埋めるように横たわっていた。ぱちりと明かりを点けるとそれもすぐに鳴りを潜める。
 瑛は迷うことなく定位置のベッドにあがり、壁に背中をもたれかけさせた。
 部屋の隅に置いた鞄に視線を移して、今日ここに来た目的を思い出す。
「瑛、先生からプリント預かってきたから渡す」
 鞄を開けてファイルを取り上げ、プリントを引き出す。こうして改めて見ると結構枚数があるものだ。
「ああ、佑に渡したって竹内先生が電話で言ってた……」
 瑛はベッドから猫のように体を伸ばしプリントを受け取って、一枚一枚目を通し始めた。目線が左から右へと流れ、また左へと戻っていく。
「学習計画表はしっかり記入しろってさ 」
 集中している瑛に、届いているかどうかは分からないが言っておく。案の定返事はない。
 さて、伝言を届ける義務も果たしたことだしどうしようか。帰ってもいいけれど、瑛がプリントを読み終えて質問などがあったときのために残っていた方が良いだろう。
 瑛の部屋を見渡して、壁面を一つ埋めている本棚に目をつける。収まっている本はもともと瑛の父親の物で、そこに瑛が買い足した物が加わり日本文学から洋書、専門書、ガイドブックまで一貫性のない様々なジャンルの本が収まっていた。タイトルを眺め、馴染みのある本を一冊引き出す。本文よりも写真の占める割合の方が大きい、雑学書寄りの天体の本だ。表紙を開き、写真に添えられた文章をなぞっていく。何度も読んだことのある記述だったので流し読み、知識を確認するようにページをめくった。忘れていた星の名前が脳の片隅に再び刻みつけられる。ホマルハウト、アルデバラン、カペラ。
「──佑」
 しばらくして声がかけられ、顔を上げると瑛と視線が噛み合った。プリントは傍らに裏返されていた。どうやら質問はないらしい。
「この紙飛行機、」
 瑛は再び口を開き、手の中を示す。
「作ってから気付いたけど、佑のプリントじゃない?」
 そこには何やら複雑に折られた機体が収まっていた。どうやって作ったらそんな形が出来るのか。少なくとも、保育士が園児にせがまれて作るような即席の類ではない。よっぽど怪訝な目で見ていたのか、瑛はカモメ型だよ、と注釈を添えた。それから紙飛行機の折り目を開き、印刷された面をこちらに向ける。印刷と自筆の黒の上で、赤色が鮮やかに踊っていた。
「ああ、この間の英語の小テストだ……追試になったやつ」
 思わず顔をしかめる。間違って瑛に渡すプリントの中に挟んでしまっていたらしいが、よりにもよって出来の悪い小テストとは。
「追試か……道理で」
 瑛は皮肉とも純粋な感嘆ともつかぬ声音でそう言い、
「捻くれた飛び方をするわけだ」
 畳み直したそれを放ってみせる。
 紙飛行機は重力に押し潰されたかのように、宙でつんのめって落下した。
 天体の本を棚に戻す。床に横たわる紙飛行機を掬いあげ、折り目を開いて手でアイロンをかける。どうやっても消えない線をそれでも消そうとするかのように、手の平で紙を押さえつけた。
「……ごめん、佑、折ってから気づいたから……今度から確認するように気をつけるから」
 怒っていると思ったのか、瑛が珍しく殊勝な口ぶりで言う。別に怒ってはいない、間違って瑛に自分のプリントを渡したのは自分だし、悲しいかな瑛の折り癖にはもう慣れた。当てつけるために紙を伸ばしているのではないことを示そうと瑛を見る。何か言葉にしようとして、そこで喉の渇きを感じた。炎天下で日差しを受けつづけた時のそれとは少し違う。長時間水分を摂取していないことに今しがた気づいたかのような、鈍くのしかかる渇き。
「……瑛」
 心の片隅で長いこと燻っていた感情が、先日の平崎の言葉と重なる。
「瑛は何で、学校行かないの」
 出来るだけ感情は織り交ぜないように、そう思ったが考慮する前に言葉がするりと流れ出た。
 瑛はきょとんとした風にこちらを見つめ返した。しばらく言葉を咀嚼するように視線をさ迷わせていたが、やがて口を開く。
「佑や竹内先生には失礼かもしれないけど、じゃあ逆に……佑は何のために学校に行くの?」
 首を傾げるようにするその様子に、思わず息を呑む。
「何のために、って」
「高校は義務教育じゃない。行くか行かないかは本来自由なはずなんだよ」
 そういう風に考える人は、あんまりいないけどさ。瑛は手元に置いたプリントを見遣る。
「それは、やっぱり、勉強をするため……学生の本分は勉強だ、ってよく言うし」
 自身の声が上擦ったように響くのを意識する。ふと小さい頃よく遊びに行った、祖父母の家の近くの海を思い出した。海水浴に来る人もろくにいない静かな海で、波打つ音も穏やかだった。だがそんな安らかさを見せながらも、満潮時には波は容赦なく押し寄せ、余すところなく浜辺を覆い尽くす。並べた貝殻や砂の城も流され、跡形もなくなってしまう。
 瑛は続ける。
「勉強は別に学校じゃなくても、その気さえあればどこでだって出来る。エジソンだって先生と馬が合わなくて、自宅で勉強してたって話だよ」
 そこでかの偉人を引き合いに出すか、と返しかけた言葉は我ながら、話題を逸らすためだけの口上に感じられて飲み下した。
「……学校で勉強するのと、一人で勉強するのは違うよ」
「図書館で勉強するのと予備校で勉強するのも?」
「それは、」
「侑、独りが嫌いでしょう」
「……一人が嫌いじゃない人なんている?」
 自身の応えは半ば反語的なそれで、反抗するかのように瑛を見つめる。しかし瑛は曖昧に微笑んだだけで、降伏を認めはしなかった。
「本当の意味での『独り』に堪えられる人は、いないだろうね」
 瑛は静かにそう言って、再びすうと息を取り込んだ。
「高校に行く理由って何なんだろうって、時々考えるんだ。大学に行くため? じゃあ大学に行く理由は? この就職難の時代に、良い企業に就職するため?」
 何も返さなかったし、瑛もそれ以上何も言わなかった。いや、返さなかった、ではなく返せなかった、が正しいのかもしれなかった。瑛の問いの答に首を縦に振れないことくらいは分かる。それが全てではないと、そのためだけに高校生は毎日学校に通っているわけではないと、声を張って反論したかった。例えば、一見時間を潰しているようにしか思えない友人との他愛のない会話だとか、部活や行事で感じるクラスメイトとの一体感だとか、思いがけず問題が解けたときの達成感だとか。もっと色々、大切なことがあるはずで、勉強するのだってただ単に次のステージに移るための手段などでは決してない。そう思う。そう言葉にすべきだと分かっていたし、なぜ学校に来ないのかと瑛に問いかけたときもきっと、自分はきっとこんな感じのことを言おうとしていたのだと思う。
 けれどそう感じると同時に、瑛の考えに同調したいと思う自分がいた。学校が嫌いな訳では決してない。寧ろ好きなのだと思うし、だからこそ瑛を問い質したのだろう。ただ、訳もなく何かに追われているような焦燥感や圧迫感といった柵(しがらみ)を、気にすることのない場所に辿り着きたかった。決められた枠に囲われているだけではなく、自分で引いた線を基準に進みたかった。瑛が学校に行かない理由は知らない。友人関係でトラブルがあったのか学校生活がつまらないと感じたのか、その辺りを匂わせるような話題は耳にしたことがない。現に今も瑛にははぐらかされているし、今後聞くこともないだろう。
 瑛と話していると、自分が気にしていたことが実は全く大したことではなかったのではないかと、時々はっと気づかされる。瑛が、肩にのしかかる出来事を笑い飛ばし、深刻に捉えていることもあっさりと流してみせるからだ。そんなことがある度に奔放なこの再従兄弟を賞賛したい気分になり、そしてなぜか、泣きたいような気分になる。瑛のその自由さはまるで瑛の作る紙飛行機のようで、それは自分と瑛の属する世界が異なっていることを示すと同時に、瑛が強さを有していることの表れでもあるのだと、そう思う。多分、自分は瑛のことが、
「――侑が羨ましい」
 瑛は唐突にそんなことを言 った。
 喉を上りかかっていた言葉は中途半端につっかえて、一瞬呼吸ができなくなった。酸素の供給とともに全ての機能が一時停止したような感覚に襲われる。
「……何で、そんな」
 その台詞は、瑛から出るべきものではない。どんな紙でも気にせず紙飛行機にしてしまう瑛には全く似合わない。
「理由は多分、侑が一番よく分かってるよ」
 瑛は今度こそ明らかに、唇で三日月を描いた。それから腰を上げ、机に向き直る。小学校入学以来使っているという瑛の机は存外奇麗で目立った傷もない。瑛は二段目の引き出しを開け、中から薄い冊子を取り出した。
「侑、」
 瑛はその冊子の表紙を上にめくる。そこには幾つもの線が等間隔に並んでいた。瑛はその一枚目を拾いあげ、右に引く。 ぴりりと軽い音とともに紙は分離した。
 瑛に差し出されたそれは便箋で、背景には沢山の星が散りばめられていた。誰かに手紙を書く予定などない。疑問符を浮かべながら瑛を見遣ると、
「その紙に、何でもいいから何か書いてよ。悩みでも目標でも、実現不可能に思える夢でも何でもいい。紙飛行機にして飛ばしてあげるから」
 瑛は屈託のない笑みとともにそう言った。
「……カモメ型で?」
「カモメ型でもスペースシャトル型でも、ご要望に応じて」
「それは楽しみにしてるよ」
 強張った筋肉を解すように口角を上げる。そうすれば気持ちも解れるような気がした。


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