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*2

 授業の終了を告げるチャイムとともに生徒達は一斉に息を漏らした。いつ何時も同じ音程、調子であるにも関わらず、一日の最後に鳴るそれは祝福の鐘のように聞こえるというのだから不思議なものである。そしてその後のホームルームをやり過ごせば、生徒は機械的な音色に囲われた時間区分から解放される。それからは部活へと駆ける者、校門を目指す者、友人と談笑する者などそれぞれ思い思いに、枠に囚われないで過ごし始める。
 散り散りになっていくクラスメイトを横目に、鞄に教科書を放り入れていく。予習が必須の英語と数学は最早鞄の中が定位置だ。加えて今日は宿題の出された化学も相席している。忘れ物がないか一冊ずつ確かめるように重ねていると、
「ニ倉」
 名前を呼ぶ声に肩を叩かれた。振り返ればクラスメイトの平崎が戸口に立っていた。掃除当番であるのか回転箒に両肘を突き、頬杖をついてバランスをとっている。あまり熱心に働いてはいないらしい、同じ班の女子達から定期的に非難めいた視線を送られていた。
「ニ倉、竹さんが呼んでる」
 平崎が顎で示す先に目を遣る。そこには竹さんという愛称で親しまれている、隣のクラスの担任がいた。鞄を机の上に置いたまま、彼、竹内先生の元に向かう。竹内先生はいつもの通りくたびれた白衣とフレームの細い眼鏡に身を包んでいた。
「いつもすみません」
 彼はこちらを認めると、普段と変わらぬ丁寧な口調とともに数枚の紙を差し出す。
「これ、今週のプリントなんですが……また渡してもらえますか」
 あと、学習計画表は きちんと記入するよう伝えてもらいたいんですが。そう言ってもともと細い目を更に細めた。
 渡されたプリントには一つ一つ、右上に三桁の出席番号、並びに「橋本」という名前が書かれていた。橋本瑛、あの引きこもりのことである。ぱらぱらと端をめくって中身を見ると、保護者宛の手紙から授業で使った演習問題まで様々だった。資源の無駄遣いではないかと危惧するほど大きな紙が使われている学習計画表は、生徒の勉強への意識向上を促すためのものだ。
「分かりました、伝えておきます」
 この計画表の提出日は明後日だったろうか、と自身の計画表が白紙であることを思い返しながら頷く。明後日までに何とかして埋めなければならない。
「頼みます。……それで、橋本の様子はどうですか 」
 竹内先生は眉尻を下げ、心なしか声を潜めるようにした。しばしの検討の後、「元気そうです」と無難に答えることを選択する。相変わらずプリントを片っ端から紙飛行機にしてます、などとは流石に言えなかった。
「先生は彼女さんとはどうですか」
「そうですね、この間の休みに久々に遠出しまして……って何を言わせるんですか」
 竹さんに優しそうな彼女ができた、という噂は本当だったらしい。この噂はとある生徒の目撃情報から瞬く間に広がった。プライバシーも何もあったものではないが、大目に見てやってほしい、学生は型に嵌まった日常に少しのスパイスを求めるものだ。竹内先生は軽く咳払いをした。
「本当は私が直接渡せればいいんですけどなかなか難しくて……毎回申し訳ないです」
 一転、頭すら下げかねない雰囲気を醸し出す竹内先生に、
「これがあってもなくても、どちらにせよ瑛のところには行ってますから」
 紙の束をばさばさと振ってみせると、ようやく彼は表情を緩めた。
 それではよろしくお願いします。再び念を押し、竹内先生は生徒の合間を縫って職員室へと帰っていった。ややくすんだ白衣に覆われた背中を見届けてから、自らの鞄のもとへ戻る。掃除は終了したようで、教室で自習をする予定の生徒が数名残っているばかりになっていた。
「二倉あ、それって何? 二組の……何だっけ、橋本? に届けるプリント?」
 回転箒を用具箱に無理矢理押し込めた平崎が、こちらにやって来て尋ねる。掃除に貢献しなかった咎で女子による非難を相当受けていたはずだが、奴に堪えた様子は全くない。
「そう。竹さんから請け負ってるから」
 鞄から分厚いクリアファイルを取り出し、一番手前に先程のプリントを入れる。
「二倉も毎回毎回よくやるなあ。俺なんか橋本を見かけたこともない……確か一学期半ばから一回も学校来てないって話だよな。二倉と橋本って仲良いの、いや、付き合ってるんだっけ?」
 平崎は人の机に両手の平を突き、身を乗り出す。相変わらず一人でよく喋る奴だ。最後の質問は「違う」と一蹴すると、あからさまに残念そうな顔をした。どういう意味だ。
「うちの親と瑛の親が従兄弟(いとこ)同士。だから瑛はただの再従兄弟(はとこ)
 クリアファイルを仕舞い、鞄のファスナーを引く。
「と言っても瑛が高校あがるまで橋本家は本州の方に住んでたから、それまではほとんど会ったことなかったけど」
 せいぜいが親戚の結婚式くらいのもので、しかしそれも幼かったためかろくに記憶にない。話を聞くに従姉妹である母たちは久しぶりの再会に大いに盛り上がっていたようだが、小さい頃から非社交性の片鱗を見せていた瑛と自分に母たちの真似ごとはできなかったらしい。
 ふうん、と、平崎は興味があるのかないのか曖昧な相槌を打って口をつぐんだ。しかしその口は大人しく閉じられていることを許さず、すぐに再び開かれる。
「橋本ってさあ、いつ学校来んの?」
 あまりにも歯に衣着せぬ物言いだったが、口調に比してそこに他意は感じられなかった。純粋な疑問の目を向けてくる平崎に、何か言う代わりに肩を竦めてみせる。そんなこと、寧ろこっちが聞きたいくらいだ。
 話が一度収束したのを機に、鞄を肩にかけ馴染ませる。すると平崎は時計を見遣った。その動きに釣られてそちらに顔を向ける。秒針のない時計が音もなく、しかし確実に時を紡いでいる。現在時刻は四時ニ一分。
「二倉、帰るのか」
「や、これから部活」
「俺も帰ろっかなあ……」
「そういえば平崎、生物のレポート提出した? 今日までのやつ」
「いやまだ……って」
 平崎は時計を改めて確認し、勢い良く振り返ってこちらを凝視する。
「今日まで。今日の四時厳守」
「いや時間過ぎてるし!」
 叫ぶようにそう言って、平崎は自らの鞄へと飛びついた。完璧明日だと思ってた、まだ全部埋めてないんだけど、などと嘆きながら中を探る。あの焦りよう、大方今日の生物の授業は睡眠学習と洒落込んでいたのだろう。
「二倉、後生だからレポート見して」
 席に座りがたがたと教科書やら筆箱やらを取り出す平崎に、
「悪いけどもう提出したから手元にはない」
 取りつく島もなく返すと、平崎は一層激しく呻いた。何でもっと早く教えてくれなかったんだ、と他力本願にも程がある台詞すら吐いている始末である。
「どっちにしろ提出期限過ぎてる時点で怒られるんだから、素直に謝ってきなよ」
「嫌だ行きたくない、怒れる女教師ほど恐いものはない……課題とか追加されるに決まってる」
 精一杯の助言だったが、平崎からは灰の燻っているような声しか返ってこなかった。気の毒だとは思うが長々と構ってもいられず、同情の視線だけを向けて教室の扉をくぐる。
「それじゃあ部活行くから。……頑張れ」
「……橋本によろしく」
 教室の中から飛んできた声に肩を叩かれて、その弱々しい声音に思わず苦笑する。首だけを後ろに回して返事を放る。
 人のいない廊下は普段より一層長く感じられる。上靴の擦れる音はぼんやりと拡散し、部活動に励む生徒たちの喧騒が外から内へ染み入るようだった。


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