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 記憶の引き出しを開ける。何段目を開けるべきかは既に見当がついていた。
「……俺が女に生まれていたら、里佐と名付けられる予定だった……」
 父の名は里志で、母の名は佐恵子。一人目の子どもには二人の名を半分ずつ与えようと、子が生まれる前から決めていたらしい。いつのことだったか、小学校の道徳の授業のために話を聞いた。随分昔の話だ。
「どういうことだよ……」
 心の内で思っていることがいつの間にか口から零れ出ていた。混乱しているせいか、思考は定まるどころか寧ろ拡散していく。これは偶然か、あるいはこの女が芝居をしているだけなのか。
「……ごめんなさい、困らせたわね」
 白々しくも聞こえる口調に、「全くだ」と俺は返した。
「鎌をかけるのは止めにして、私が考えたことを話すわ。貴方が眠っている間に考えたことよ」
 一息置いた後、ここは多分、貴方がいたのとは別の世界よ。彼女はそう言った。それから何も言わずに口をつぐむ。俺も声を発さなかった。二人の人間が対峙したままただ徒に時間だけが流れる。やがて彼女は諦めたように再び口を開いた。
「信じられないだろうし、信じてもらえるとも思ってないけれど……貴方、踏切を渡ったでしょう。渡ったというか、踏切に閉じ込められたというべきか」
「……それが、何に」
「そこで貴方は世界と一度遮断されたのよ。そして隣にあった別の世界に滑り込んだ……」
「────、」
 あまりにも現実離れした話のせいで頭が全くついていかなかった。既に脳は容量オーバーを起こしている。仮想メモリ最小値が低すぎます、とコンピュータのメッセージのようなテロップが頭のどこかで流れた。
「……冗談にも程があるだろう……」
 半信半疑、いやそれこそ全てを疑ってかかっているような口調で俺は問うた。我ながら誰かが「エイプリルフール!」と叫んでくれるのを待っているようでもあった。今は何月だったろうか。
「……それ、」
「その世界って話、本当だったとして、元の場所へは帰れるのか?」
 俺の言葉に、彼女は口を開き、しかし言葉を紡ぐことなく空気だけを呑み込んだ。じっと彼女の次の言葉を待つ。彼女は視線をさ迷わせた後に、そんなに睨むことないじゃない、と拗ねた子どものように呟いた。俺にはそんな軽口に付き合う余裕はなく、その余談を許さない雰囲気に圧されたのか、ようやく彼女は話し始めた。
「ええ、大丈夫よ、きっと。私が思うに、世界って無数にあるんじゃないかしら。例えば私は今紅茶を飲んでいるけれど、五分前にコーヒーを飲むことを選択した私がいる世界もあるのよ。それから世界って、人一人が行き来した位で揺らぐものではないみたい。一度繋がった世界と世界はそのままであるはずだから、踏切で同じことをすれば帰れるはずよ」
「……保障は」
「私自身の経験に基づく話よ」
 彼女は俺を見据え、今度こそ一分のふざけも含まない口調で断言した。はああ、と俺は大げさなまでに息を吐き、そして吸った。深呼吸には実際に人を落ち着かせる作用があると聞いたことがある。
「じゃあ」
 冷めてしまった紅茶を一口含み、舌の上で転がす。
「色々迷惑かけまくった上にこんなこと言うのも悪いけど、そこの踏切まで付き合ってくれないか」
 言うと、彼女は「お安い御用よ」といともあっさりと返し腰を上げた。
 それから十分も経たないうちに俺と彼女は踏切の前まで辿りつき、そこを渡るわけでもなくただ佇んでいた。あまり電車の通らない、通ったとしても鈍行の多いこの踏切は遮断機の降りる機会がそう多くはない。俺はいつ点滅が始まるかと電光板を見つめる。彼女はと言うと線路の向こう側に電車が姿を見せるのをひたすらに待っているようだった。お互いに別々の方角を向いているというそんな奇妙な状態のまま、俺と彼女は話をした。
「私の話、信じてくれたの」
 ぽつりと呟くように彼女が問う。
「……信じるも何も、『自分』が言うことなんだ、そうしないわけにいかないだろう」
 くすりと、隣で笑う声が聞こえた。
「何がおかしいんだよ」
「いいえ」
 笑い続ける彼女の方に体を向けると、手元でビニール袋が音を立てた。すっかり忘れていたが、そもそもコンビニエンスストアでちょっとした買い物をするために家を出たのだった。思い立って袋の中に手を差し入れる。
「これ」
 中から箱を取り出す。先ほど購入したチョコレートだ。
「本日の講義料代わり。こんなのじゃ足りないかもしれないけど……あんたならこういうの嫌いじゃないだろ」
 差し出すと、彼女は目を丸くしながらも受け取った。もし彼女と俺の嗜好が完全に一致しているのならば、こういったチョコレートは寧ろ好きの類に入るはずである。
「……ありがとう」
 未だ戸惑った様子ながら彼女は礼を述べ、
「あの、」
 何かを言いかけたところでその声は警報音にかき消された。
「やっと来たか」
 俺は嘆息して踏切へと一歩足を踏み出す。かん高い警報音に合わせて赤いライトが明滅し、一二拍置いて遮断機がゆっくりと下り始める。
「じゃあ俺は行くから。色々……本当助かった。ありがとう」
 改まって軽く頭を下げ、遮断機が下り切る前に踏切に駆け寄る。ぎりぎりで中に滑り込み、敷かれたタイル独特の感触を足裏に覚えた。
「……また話ができたら嬉しいのだけれど」
 後方から声が飛んでくる。
「もしかして、もしかしたらな」
 俺は振り向かず、ただ声だけを後ろに放った。それから渡る足を速める。もたついているわけにはいかない。自分は今遮断機が下りた踏切を渡っているのであり、それは電車に引かれても撥ねられても何も文句を言うことができないということである。自殺志願者にとられてもおかしくない光景だ。
 見た目よりも重い遮断機を押し上げて、俺は踏切を渡りきった。二三歩進んだところで電車の警笛が耳に届く。間を置かずして電車が駆け抜けていき、俺の髪やら衣服やらをさらった。そう何両もない電車だったらしい、車両が小刻みに立てる音はすぐに遠ざかっていった。電車が過ぎ去ったのを確認してから首だけで振り返る。
 そこには誰も居らず、俺は自分の家があるはずの方角へと足を向けた。


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