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 右手に下げたビニール袋が揺れる。俺はしばらくの間身動きもせず、ただ突っ立っていた。
 網膜に景色は映ってはいたものの、それは脳まで届かずにただ俺を呆けさせていた。いつの間にか空からは大量の雫が落ちてきていて、絶え間なくアスファルトを叩き始める。水が衣服に染み込んで肌に張り付く。額や髪に沈んで収束したものは頬を伝い、首筋に沿って流れていく。気持ちが悪い。
「何だよ、これ、……」
 目を瞬たたかせるが、視界に飛び込んでくるものは変わらなかった。
 これは夢だろうか。きっとそうだ、そうであってほしい。とても不謹慎な話ではあるが例えば帰ったら家が火災に遭っていただとか、そういうことならばまだ納得の仕様がある。しかし家を取り壊して更地にし、アパートを立てて且つそれに築十数年の哀愁を与えることが、どうして三十分の間に出来るだろうか。
 ああそうだ夢に違いないと、取り乱した思考を帰着させようとする俺の周りで、雨が存在を主張する。衣服をずっしりと重くし、体を芯から冷やしていく。水に浸った衣服など、本来の役割を何も果たさない。
 吐き気が胃の辺りで渦巻いて、食道をせり上がって来ようとする。俺は灰色の塀に縋るようにしてずるずるとしゃがみこんだ。酸っぱさを伴った唾液を飲み下す。喉の表層が焼けるかのような感覚。
 これは本当に夢なのか? じわじわと体を痺れさせる雨の冷たさも、収まる予感のない吐き気も、あまりにも現実味を帯びすぎていた。
 人間は都合の良いようにできていて、嫌なことだとか信じられないこと、許容範囲外の事態に直面したときは自身を守るように出来ているそうだ。それがたとえ傍からはどれだけ幼稚で馬鹿らしいものに見えても、その根底には防衛意識がある。保健体育の授業で習ったのだが、逃避だとか退行と言っただろうか。それらに身を委ねるようにして俺はうずくまり、瞼を下げた。
 ……一拍後、あるいはもっと時が過ぎ去った後か。
「大丈夫ですか」
 頭上から声が降ってきて、のろのろと首だけを上に向ける。そこには若い女が一人、様子を伺うようにしてこちらを覗きこんでいた。
「…………」
 気分が悪いだけなんで、大丈夫です、放っておいてください。そう返そうとしたものの、口を開けば昼食に再びお目にかかる羽目になりそうだった。俺は目線だけで訴える。それは伝わったのかどうか、ただ彼女は一瞬目を見開き、それから何か思案するように細めた。
「大丈夫じゃなさそうね、ちょっとついてきて」
 俺の言葉は何も伝わらなかったらしい。彼女は直立の姿勢に戻るとアパートの敷地内へと入った。俺はその背中を目線で追う。
「何してるの。アパートの入口でしゃがみこまれてる方が迷惑だから」
 彼女は振り返り、催促を重ねた。

 ベッドにもなる簡素な形のソファの上で目を覚ましたとき、吐き気はほとんど収まっていた。胃にもう何も残っていないのもあるだろうが、乾いた衣服に身を包んで横になれたというのも大きいだろう。俺は上体を起こさぬまま、ぼんやりと辺りを眺める。
 アパートの一室、彼女が一人で暮らしているらしい部屋だった。決して広くはなく、家具も多くはない。小物が収納しきれずに至るところに散らばっている。この位の歳の一人暮らしなどどこもそんなものだろう。
 起き上がる気力もないままに横になっていると、台所らしき奥の小さな空間から彼女が顔を見せた。
「ああ、起きたのね。何か飲む」
 俺の返事を待たず、彼女は踵を返す。その背中をどこかで見たことがあるような気がした。
「コーヒーは重いだろうから、ミルクティー……ああ、こういうときはストレートに砂糖一杯、だったかしら」
 回顧しているかのような彼女の声。俺は思わず目を見開く。こういうとき――気分が悪いとき、頭の中に散らばった嫌な感情を振り払いたいとき。俺はよく紅茶をストレートで、砂糖をスプーン一杯分だけ入れて飲む。偶然とは言え、思いがけず彼女に心の引き出しを開けられたような感覚を覚えた。
 程なくして、両手に一つずつマグカップを持った彼女が戻ってくる。その頃には俺ももう起き上がっていて、手持ちぶさたであったのとせめてもの感謝の気持ちを示すために、掛け布団を丁寧に畳み直していた。
「どうぞ」
 差し出されたカップに礼を言い、紅茶を口に含む。熱すぎない適切な温度、舌を掠めていく甘味。変わらないいつもの味。
 俺は顔を上げる。彼女は俺とテーブル一つを挟んで座り、カップから立ち上る湯気に包まれていた。女子にしては背の高く、髪を首の横で緩くまとめている。服装はゆったりとしたシンプルなものだ。既視感が募る。
「俺、あんたとどこかであったこと……あり、ますか」
「タメでいいわよ、同い年だろうから」
 彼女は紅茶を一口飲み下し、
「早川里佐よ。里に佐藤の佐で、里佐。前に会ったのが貴方であるかは分からないけれど――とりあえず初めまして、早川恵志さん。恵みに志す、だったかしら」
 唇で三日月を描く。
 俺は微笑み返すことができなかった。
「……早川?」
 同じ苗字である。いや、それはいい。早川という苗字は特別珍しくはないから、苗字が同じだったからと言っておかしなことではない。それよりも気になるのは、彼女が俺の名前を知っていたことだ。
 俺が眠っている間に所持品を見られたのだろうか? 無断で見るなど悪趣味極まりなくはあるが、見ず知らずの人間である俺を部屋にあげ横にならせることまでしてくれた以上、こちらはそんなことを言える立場ではないのかもしれない。と言っても、コンビニエンスストアに行くだけだった俺が持っていたものなど高が知れている。手にしていたのはコンビニエンスストアの袋と携帯電話。あとは定期入れの中に定期券と鍵くらいのものだ。携帯電話には自身の個人情報は登録していない。定期券には名前は載っている……が、これも個人情報保護のためか名前はカタカナ表記されているはずである。
「そう。同じ早川……それよりも、里佐と聞いて思い出すことはないかしら」
 彼女は俺とは対照的に、楽しんでいるかのような様子だった。
 里佐……どこかで聞いたことのあるような、ないような。どうやらその時代の流行りだったようで、りさと振り仮名を振る名前ならば同世代には沢山いる。それこそ少ない名前ではない。
「それじゃあヒントをあげましょうか」
 一拍置いて、彼女は口を開いた。
「私が男に生まれていたら、恵志と名付けられていたらしいわ」
 ああ、これヒントじゃなくて答えになってしまったかもしれないわね。さらりと受け流すように彼女は言って、しかし俺はそう簡単に飲み込むことができなかった。


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