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眠れぬ夜は紙飛行機を放る



*1

 つい先刻手渡したばかりの紙束は、瞬くばかりに何機もの紙飛行機と化した。地面に散らばるそれらの一つを拾いあげ、指先で両翼をつと広げる。内容は教師たちが珠玉のメッセージを込めた学年通信。「一歩一歩前進を」。明朝体の見出しが先頭の文章を飾っている。しかしこうも折り目が幾重にも重なってしまっては、読みにくいことこの上ない。山や谷に妨害されつつも本文を解読しようと格闘していると、
(ゆう)、眉間に皺寄ってる」
 学年通信の向こう側から、妙に弾んだ声が放られた。目線をあげて声の主を視界に捉えると、相手はますます楽しげに口角を上げる。
「……(あきら) 。紙なら何でもかんでも紙飛行機に折っちゃう癖、何とかならないの」
 ベッドの上で膝を立てた体勢のまま、瑛は無理だよ、と肩を竦めた。やめようと思って挑戦したこともあったけど、一日経たないうちに挫折。気がついたら手にしてた紙を折っちゃってた。そう言って、声をたてて笑う。そこに反省の色は全くない。
 瑛のそこにある紙を紙飛行機にしてしまうという癖は、もはや無意識の領域にまで辿りついたらしい。高校受験のときに記入する前の願書を折ってしまったという話すらあるのだから恐ろしい。その事件の真偽の程は定かではないが、要するに瑛はそういう人間なのだ。内心で溜め息。
「あ、侑、それ貸してくれる?」
 手の中の紙を示され、小さな丸テーブルを回りこんで手渡す。瑛はそれを付けられていた折り目のまま畳み直し、勢いをつけて宙に放った。
 紙飛行機は、さして広くはない瑛の部屋を飛ぶ。高さを変えぬまま空気を切って、そしてクローゼットに当たった。先端が潰れ、重力に逆らわずぽとんと落ちる。
流石(さすが)、先生たちが丁寧に作ってるだけあるね。奇麗にすっと飛ぶ」
 悪びれる風もなく、学年通信に称賛を贈る瑛。紙飛行機とその向こうの先生方に同情を送り、ふと窓の外を見る。ガラスに水滴が付いている。
 雨が降り始めたようだった。雨粒自体は捉えられないものの、アスファルトが次第に黒く塗り潰されていくのが見てとれる。遠い空の雲は厚く真っ黒で、あの雲がこちらにまで流れてきたら途端に土砂降りになるだろう。鞄の中に折りたたみ傘はない。確か一昨日雨が降ったときに友人に貸したはずだ。雨が酷くなる前に帰らなくては。
 視線を戻すと、瑛は先程の楽しげな様子から一転、壁にもたれかかって船を漕いでいた。まだ完璧に夢の世界には落ちていないようだったので、沈み込まれる前に引き戻す。
「瑛」
 瑛は重そうな瞼を上げた。いや、完全に上げきってはいなかったが、少なくとも目を開こうと試みたようではあった。
「……んー、うん、薬の副作用で眠いだけ」
「今寝たらまた夜眠れなくなるよ」
「……うん、分かってる……」
 鈍くぼやけた声に苦笑して、雨が酷くなる前に帰る旨を伝える。返事も曖昧なものだったが主旨だけはどうやら伝わったようで、ひらひらと手を振られた。別れの挨拶を口にし、重たい鞄を肩にかけて瑛の部屋を出る。
 腕時計を確認すると五時四十二分を示していて、この時間であれば瑛の母が仕事から帰ってきているだろうと居間を覗きこむ。案の定彼女は台所にいて、夕食の支度をしていた。
「侑ちゃん、帰るの?」
 水に濡れた手をエプロンで拭きながら、彼女は小首を傾げる。
「はい、雨が酷くなる前に」
 お邪魔しました、というこちらの挨拶を掻き消すようにして彼女は冷蔵庫に駆け寄った。ぱたぱたとスリッパが騒がしげに音を立てる。彼女は白い匡体の中から何かを取り出し、それをビニール袋の中に入れた。
「ちょっと待って侑ちゃん、これ、(より)ちゃんに渡してくれる? 良かったら食べて」
 頼というのは母、頼子のことだ。我が母と瑛の母は物心つく前からの付き合いらしく、高校生の子を持つ親となった今でも仲が良い。渡されたビニール袋の中を覗きこむと、白い蓋のタッパーに見つめ返された。中身は分からないが母が喜ぶことは間違いない。
「いただいていきます、ありがとうございます」
「こちらこそ、いつも来てくれてありがとう。部活とかも大変でしょう。こんな頻繁に来てくれて、大丈夫なの? 私と瑛としては嬉しいんだけど」
 彼女は右手を勢い良く振る。声のトーンを変えたり眉を下げたり、感情表現の豊かな人だ。一つ一つに相槌を打ち、改めて礼を述べて玄関へと向かう。傘を貸すという彼女の申し出を断って、ノブを捻った。
 自動ドアをくぐり、一歩マンションの外に出る。針のように細い雨が刺さり、髪に制服に染み込んでいく。瑛の母に渡されたビニール袋には水滴が纏わりつき、がさり、大袈裟なまでに音を立てた。
「……帰ろう」
  左肩に沈む鞄と右手のビニール袋で釣り合いをとりつつ、雨の中をくぐって帰路を急いだ。既に路面には濡れていない部分がなくなっていて、それが元の色であったかのような錯覚すら覚えさせた。


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