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インスタントラバーズ * A



「あの、すみません」
 人の波が穏やかに通り過ぎていく、日曜日の駅前。今日も仕事なのかスーツに身を包んだ男性、紙袋を手に下げた家族連れ、手を繋いでいる恋人たちなんかが、ここには溢れている。私は彼らを、耳に嵌めたイヤフォンから流れてくる音楽に集中している振りをしながら眺める。今目の前を足早に過ぎていった男の人は、白地に水色の有名な袋を持っていたから出張なんだろうなあとか(ついでに言うと、あの袋を持ち運んでいる制服があれば、十中八九修学旅行生だ)、たった今ベンチを立って信号を渡って行った女の子はようやく彼氏と会えたんだろうなあ、とか(彼女は随分間待っていたようだったから、彼氏はパフェでも奢るべきだ。日差しのもと紫外線を浴びさせたお詫びも兼ねて)。ぼんやりと考えるのはそんな他愛のないことだ。イヤフォンによって作られた結界(プライベート) の中から、公衆(パブリック) の往来を観察する。どこか矛盾しているようなその感覚は、ざわつく駅前で一人ベンチに座り、時間を潰している私には寧ろ心地好い。
「すみません。ちょっと良いですか」
 穏やかな声が私の思考に再び入りこんでくる。ああ、さっきのは私に話しかけていたのか。てっきり私の後ろを通り過ぎて行った人に話しかけたのかと。悠長にそんなことを思いながら、片耳からイヤフォンを落とす。
「何でしょう」
 私はこちらを覗き込んでいる相手を見つめ返した。改めて見ると相手は私と同じ歳くらいの男だった。彼は私の返事に柔和な、その穏やかな顔立ちを裏切らないくらいに柔らかい笑みを浮かべる。男の人なのに睫毛が長いなあ、睫毛が長い男子はなぜそれを女子に譲ってくれなかったんだろうか、などと私の頭はふざけたことを考え始める。私の思考回路は、どうも真面目なことを考えるようには出来ていないらしい。
 そんな私の意味不明な戯れ言を悟ったのかどうか、彼は一層笑みを深めて、
「三分間だけ、恋人になってもらえませんか?」
 そんな言葉をのたまった。
「……は?」
 「は」という一音は、見ず知らずの相手には失礼にあたるだろうし、可憐な女子の使う言葉にしては無作法であったかもしれない。けれどさすがの私でも完敗だ、と思った。真剣な顔で何を言うかと思えばまたそんなしょうもないことか、とよく友人に突っ込まれる私でも、この展開にはついていけなかった。
 これは切り口の新しいナンパだろうか? いやそもそも、ナンパなんてする人が実際にいたのか。あれは漫画やドラマの中だけの話だと思っていた。人通りの多い駅前にいたってそんな光景を見たことはなかったし、ましてや自分がされたことなんてない。されるとも思わない。
「人違いじゃないですか?」
 問いに問いで返したところ、彼は一瞬目を見開き、それから上半身を折り曲げて震え始めた。どうやら笑っているらしい。
「……っ、はは、そうくるとは思わなかった……! 人違いでそんなこと頼んだりしないよ、」
「いや、笑いの沸点低すぎでしょう」
 あるいは、笑いのツボが大抵の人とは違う場所にあるとか。
「……あー、腹筋痛い」
「もうちょっと筋トレしたらどうですか」
 ひとしきり笑って、彼はずりおちかけていた鞄を肩にかけ直した。私はベンチから彼を見上げたまま言葉を返す(我ながら律儀だと思う)。はは、とまた彼は唇で三日月を描いた。
 何だろうこの男、と私は思う。正直なところ訳が分からないけれど、不快な訳の分からなさではない。危ない類の人間では、まあ、今の時点ではなさそうだ。私はこういう自身の直感めいたものを信用している。母が父と知り合ったとき、父は言ってしまえば不審者以外の何者でもなかったそうだから、そこで父を信じた母の直感は私に遺伝しているのだと思う。うちの両親は今でも仲が大変よろしいので、ある程度信憑性のある話。
 目の前の彼も、こうやって話をする分には害はないだろう。こんな優男っぽい見た目をした彼に何かができるとは思えないし、ここは駅前だから離れない限りは人の目が守ってくれる。それから一番の判断基準は、彼の目に暗い光が覗いていなかったことだ。いくら優しそうで明るく振る舞っていても、その暗闇が見えた時点でその人からは離れなければいけない。
「それで、さっきの台詞はどういう意味ですか? 新手のキャッチセールスとかそういう」
 お断りします、と言葉を添える。
「いや、そんな怪しいものじゃなくて……今でも十分怪しいのか。ええと、端的に言えば、仮染めの彼女として紹介されてほしいのですが」
 目の前の男は危険そうではなかった。危険そうではなかったけれども、少し、いやかなり軸がずれているようだった。赤の他人にいきなりそんなことを頼むだろうか、常識的に考えて?
「そうすることによる私のメリットを答えてください。功利主義に即して、百字以内で」
 つまりはまあ、見知らぬ人物(それも男)の訳の分からぬ要求を聞くことで生じる幸福と、このままここに座って雑踏を眺めることによる平凡な幸福と、どちらが多いかという疑問。
「あ、質的功利主義でお願いします」
 文字数を数えているのか、指折りはじめた彼に付け加える。
「……サーティスリーのトリプルを献上します」
 十八字。三点リーダを含めれば二十字。随分とコンパクトにまとめてくれたものだ。
「……トリプル。スモール? レギュラー?」
 私の質問に、彼は少し眉を寄せた。
「……、レギュラーで」
「交渉成立ですね」
 私はベンチから弾むようにして立ち上がる。
 サーティスリーの三段アイスが嫌いな人はいない。もしかしたらいるかもしれないけれど、私はそれには当て嵌まらない。
 そんなひどく安易な考えに足を弾ませながら、私は彼のあとについて行った。


「ええと、改めて経緯を説明させてもらうと、友人のしつこい合コンの誘いを断るために彼女がいると嘘をついたら、じゃあちょっとでいいから顔を見せろと言われてしまって。この際一度彼女を紹介すれば、その友人も今後は誘ってくることもないだろうかと、……、あの、聞いてますか?」
 初対面でいきなり訳の分からないことを言ってきた彼は、ひとしきり語ってから困ったように首を傾げた。小説のような仕草が様になっている。見ようによっては可愛らしい仕草だ。細身だし顔は整っているし、神はなぜ彼を男としてこの世に生まれさせたのだろうか。
「聞いてますよ」
 一応の相槌を打って、私はスプーンでアイスクリームを掬った。
 まあ、正しく答えるならば、「聞いてはいるが聴いてはいない」といったところだ。そんなことよりも、今の私には三段アイスを食すことの方が大切だった。何しろドーム型に綺麗にくり貫かれたアイスが三つも重なっているのだから、もたもたしていては溶けてコーンが大変なことになってしまう。それを嫌ってコーンではなくカップを選ぶ人もいるが、私に言わせればカップで三段アイスを食べるなんて夢がない。幼い頃に子どもが夢見るアイスは皆、コーンの上に色とりどりのアイスが乗っているはずだ。
「知り合いに彼女の振りをしてもらうことも考えたんですが、それだとあとあと面倒なことになるかなあと、思ってしまったもので。こうして貴方に頼むことになったわけです」
 サーティスリーの店舗の横に並べられたテーブルの一つに向かい合って、彼の長い話を聞く。私が食べている間黙って見つめられるのも嫌だったし、こうしてただ喋られる分には問題はないのだけれど、あまり真面目に聞く気はない。そもそもがキャッチセールスのような出会いから始まっている。それに私は、友人曰く「黙っている分には良い」らしいから、その助言に従ってしばらく黙っていようと思う。
 そういうわけで黙々とアイスを口に運ぶ。
 その間も彼は、彼の友人がいかにしつこいかを切々と話していた。悪いやつじゃない、寧ろ友人としてはとても良いやつだが、中高と男子校に通っていたらしく、大学に進学したら彼女を作ろうと決めていたそうだ。そうして始まった婚活ならぬ恋活、なかなか上手くいかないらしい。それにより、彼は合コンに行こうどこに行こうだのという話につき合わされている、と。
 私はコーンの最後の一口を口に放り込んで、コーンを覆っていた円錐型の紙をくしゃりと潰した。テーブルにあった紙ナプキンで唇を拭い、それから手を合わせる。ごちそうさまでした。
 何がおかしかったのか、彼は私の方を見て僅かに目を丸くした。
「……さて」
 私は使用したナプキンとコーンの包み紙を手の平に握り込んだまま、口を開いた。
「私はどうしたらいいんですか?」
 ああ、と彼は頷いた。
「もうすぐその友人が、バイトに行くためにここを通るはずなんです。先ほど彼に、ここにいるとメールをしたので、数分間だけ顔をあわせることになると思いま……思うよ」
 何か思いついたように彼は言葉遣いを崩した。考えて見れば、それはそうだ。恋人同士に見せかけるのに、丁寧語で話し合っているなどありえない。
「そう。分かった。ところで、貴方のことは何て呼べば良い?」
 私もですます口調を止め、彼に微笑みかけた。恋人ごっこの対価は既に得てしまった。アイスクリームは全て私の胃の中だ。ならば、払われた分だけの仕事はしなければならないだろう。このふざけた遊びに、しばしの間付き合わなければ。
「あ、長谷川昭人っていうんだ。好きなように呼んで」
「杉浦千里。はせがわ……昭人って呼ぶから」
 アイスで冷えた口が回らなかった。昭人の方が呼びやすくていい。これきりの付き合いだし、苗字の方は忘れても構わないはずだ。
「わかった。じゃあ、千里、……よろしく」
「うん」
 それから必要最低限の情報、たとえば彼が現在大学二年生だとか、SF映画が好きだとかいう話を聞く。映画の話になったのは、彼の友人に出会ったら、これから映画を見に行くという話に持っていく予定だからだ。友人はバイトに向かわなければならないから、映画なら間違っても、その友人が同行するという事態にはなりえない。一応そのくらいのシナリオは描いてきたらしい。彼が私を紹介し、これから映画に行くという話をして、二人で人ごみの中に紛れて、任務完了。
「あとはアドリブで、適当にやってもらえると助かる」
「演劇は見るのは好きだから、まあ、泥舟に乗ったつもりでいて」
「……それ確実に沈むよ」
「昭人、冗談が通じないから困る」
 早速恋人のように、名前を呼び捨てて拗ねたように言ってみる。会ったばかりの相手に名前で呼ばれることをまだ受け入れられていないのか、彼がぴくりと驚いた反応を返す。少し面白かったので、予行演習を兼ねた茶番を続けてみることにした。
「昔っからそうだった。ノリツッコミができないよね、昭人」
 そんなんでどうやって私とやっていくつもりなの。からかいの色を滲ませながら、いかにも親しげに言ってみる。これで、傍目には仲良しカップルの完成だ。甘い雰囲気が出ているかは、知らない。
 そもそも私は、ありふれた言い方をすれば、年齢イコール恋人いない暦、の人間だ。普段は避けて通るような、いちゃついているカップルたちがどんな会話をしているのかなんて知っているわけがない。
 立ち上がって、サーティスリーの横にあったゴミ箱に紙くずを捨てる。テーブルに戻ってくるときにこちらに向かってくる一人の男がいないかと辺りを見回してみたけれど、それらしき人物は見当たらなかった。
「昭人の友達って、そろそろ来る?」
 携帯電話を握っている彼に尋ねる。ちょうどその時携帯が光って、彼はちらりとこちらを一瞥したあと携帯電話を開いた。
「あ、うん、今丁度駅の改札抜けたところだって。それじゃあ、よろしくお願いします。ええと、千里」
「昭人、表情硬いよ」
 彼は苦笑いを浮かべる。恋人の振りをしてほしいという随分無茶な提案を見ず知らずの人間にしてきたわりに、随分と演技がぎこちない。このままでは友人にばれてしまう可能性がある。せっかく協力するのに、それでは意味がないだろう。
「今までの彼女と同じように、接してくれればいいですよ。それに合わせますから」
 私は口調を始めのものに戻して、彼に伝えた。
 彼ならば高校時代、あるいはもっと遡って中学時代に、彼女の一人や二人や三人や四人いたことだろう。私は誰かと付き合ったことがないから、彼の演技に合わせた方がやりやすい。
「いないですよ、彼女なんて」
 困ったように、けれど即座に彼は返事を寄越した。
「いない?」
 嘘だ。彼のような人を女子たちが放っておくはずがない。奇妙なことを言い出す変人ではあるかもしれないが、女性の扱いは悪くないだろう。
 私の信じられないという表情に、
「本当ですよ。今まで一人も付き合った人はいません」
 別に珍しくもないですよ? 彼が続ける。
 私は言葉を返そうとして、ふと視界に入った携帯電話に、口調を改めた。
「嘘。昭人が女の子と二人で帰ってるとこ、私見たもの」
 虚飾を織り交ぜながら会話を続ける。そろそろ友人が来てしまうかもしれないということを彼も思い出したのか、あ、と言うように口を開き、それを閉じるとともに気さくな話し方に変えた。
「それは部活仲間との帰りがたまたま二人になっただけだって、前にも言ったじゃないか」
「向こうはそうは思ってなかったかもしれない」
「それはないって。だから、俺は、……千里の前に誰かと付き合ってたことはないんだよ」
「本当? 私は昭人が初めての彼氏だけれど、昭人のその台詞は信じられない」
「信用ないなあ」
「付き合い始めたばかりだもの。信用なんてこれから作っていくものじゃない」
 付き合い始めたばかり……厳密に言うなら、たった三分ほど前に。そしておそらく三分後には既に別れている、前代未聞のカップルがここにある。
 言外にそういった意味を含ませて、私は笑みを浮かべる。
「そうだね」
 それが通じたのか、彼はそれ以上の反論を諦めてすんなりと私の言葉を認めた。
「そもそも、千里との前に誰かと付き合ったりしていたなら、こんなことは頼んでないよ」
 こんなこと。つまりは、即席恋人ごっこのことだろう。たしかに、こんな回りくどいことをしなくても、本当に恋人を作ってしまえばいいのだ。そうすれば友人を騙す必要だってない。真実を語るだけなのだから。
「どうして? 昭人なら今まで沢山告白されたりしたんじゃないの?」
 問うと、彼は苦い顔をした。
「もしそうだったとしても、付き合うかどうかは別の話だよ……そもそも付き合いたくないから、千里にこんなことをお願いすることを選んだんだ」
「付き合いたくない?」
「うん。というか、付き合うっていうのがどういうことか分からない、が正しいかなあ……。付き合ってください、って言われても、付き合ってどうするの、って思う」
「ああ、それは」
 分かる気がする。
 例えば、デートに行くだとか手を繋ぐ権利を得るだとか二人きりで帰る権利を得るだとか、そういった様々なことをあげることができるのだろう。模範解答なら辺りのカップルに、ドラマに、小説に、少女漫画の中に沢山見つけられる。
 でも、求めているのはそんな答じゃない。
「私が思うのは、」
「長谷川!」
 口を開いたとき、どこからか低い声が聞こえてきた。彼とともに二人そろって声のした方に顔を向けると、同い年位の男がこちらに向かって手を上げていた。おそらく、彼の言っていた友人だ。
 体育会系らしいがっしりとした体格で、背も高い。明るい笑顔から人を楽しませるような性格だと想像できるけれど、如何せん、彼女に飢えた絶賛「恋活」中の人物だという先入観が、目の前の彼により植え付けられてしまっている。そんなちょっとしたフィルターを通して見るだけで、途端にその友人が残念な感じに思えてしまうのはなぜだろう。
 彼の友人は、真っすぐに私たちの座っているテーブルへと向かってきた。友人はまず私の方を向いて、「初めまして」と軽く首を曲げた。私も初めまして、と返す。
「長谷川、お前、本当に彼女いたんだなあ……! 俺はてっきり、苦し紛れな嘘を吐いたお前が、道行く女性に立ち会ってもらうなんてことになってるかと……」
 まあでも、ほんとにそんなことする奴いる訳ないよなあ。友人はそう言ってからからと笑った。
 友人の直感が一部の狂いもなく真実を射抜いていて、私と彼は苦しく笑うことしかできなかった。
 それから彼は友人の方に向き直る。
「いや、悪かったよ……。お前が彼女欲しいっていっつも言ってたから、言い出しにくくて」
 申し訳なさそうに、かつさらりと、彼は嘘を吐いた。それが友人に嘘を吐いていることによる罪悪感からくるのか、それとも本当にただ演技しているだけなのか、私には区別がつかなかった。区別はつかなかったけれど、ここで嘘を吐く必要はないんじゃあないかと感じた。友人は普通に良い人そうだったし、彼とも良好な人間関係を築いているように見える。軽口を叩き合っている彼らをぼんやりと眺めながら、私はそんなことを考える。
「こう見えて酔うとやたら面倒なんだよ」
 まるで私の気持ちを読み取ったかのように、隣で彼がぼそりと言う。
「あ、何か言ったか、長谷川?」
「いや何も」
 友人は時刻を確認し、名残惜しそうな顔をした。
「あー、俺これからバイトなんだよなあ。まあ、邪魔するのも悪いし、行くけどさあ」
「うん」
「邪魔は否定しないのな」
 このリア充め、と友人は、羨ましげな色を深く滲ませながら言った。さすがに本人たちを目の前にして「爆発しろ」とまでは言わなかったけれど。
 私だったら言っちゃうかもなあ、などと二人のやりとりを眺めながら考える。至極どうでも良いことを考えるのに、私の頭は非常に向いている。
「じゃあ、えっと」
 友人が私の方に向き直ったので、私も何事かと居住まいを正す。
「長谷川はこんなやつだけど、よろしく頼みます」
 友人はぺこりと頭を下げた。私も釣られて頭を下げる。
「頼まれました」
 それから嘘を吐いて、ごめんなさい。次に駅前で会っても私のことはスルーしてくださって全く問題ありません。
 後ろ三分の二は口の中で転がすだけだったけれど、そう応答すると傍らで彼が笑いを堪えていた。
 そうして友人は去っていき、さすがにずっとテーブルに座っているのも問題があるので、せめてと私たちは映画館へと向かうことにした。するすると上へ滑っていくエスカレーターの中で、私たちは目線を微妙に斜めに持っていきながら会話をする。
「ものすごく良い人じゃない」
 先ほどの友人のことを言うと、彼は神妙に頷いた。
「俺には勿体ないくらい良い友人だよ。……お酒さえ入らなければね」
「そんなに変わるもの?」
「アルコールが入ると変わる人って結構いるものだよ」
 体の向きを何度か変えて幾つものエスカレータを上りきり、映画館のあるフロアへと到着する。大型のスクリーンに流れる新作映画の予告を一通り見たものの、さすがに映画を見ようという話にはならなかった。
「えっと、それじゃあ本当に……ありがとう。よく考えるとものすごく不審な、」
 最後の言葉をつらつらと述べようとする彼を遮る。そうして私は一息吐いて、笑みを浮かべた。
「昭人、私たち、終わりにしましょう」
 彼はきょとんと瞬きをしたあと、
「……そうだね。俺、千里で良かったよ。今までありがとう」
 静かに笑いながらそう返してきた。
 私たちはまるで棒読みで、穏やかに笑いながら、別れ話を済ませた。最初から最後まで奇妙なカップルだったことだろう。
 もう少し話してみたかったかもしれない、と少しの名残惜しさを覚えながら、私は彼と別れてエスカレータを下る。そこら中に溢れる人に焦点を当ててはすぐ次の人に切り替えるということを繰り返しながら、道行くそこの人は一体何を考えているのだろうと、いつもとは視点の違うそんなことをぼんやりと考えた。


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