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踏切の向う側



 幼い頃から線路というものが好きだった。「線路は続くよどこまでも」というあの歌ではないけれど、物心つくどころか小学校中学年位まで線路には終わりがないと思っていた。果てることなく、どこまでもどこまでも繋がっているものだと。
 電車が好きな人は沢山いて、休日ともなると家の近くの踏切には本格的なカメラを抱えた大人が立っていたが、純粋に線路を好む人というのは中々いないらしかった。
 線路を見るためだけに駅の改札をくぐることは許されなかったから、私はよく近所の踏切へと通ったものだった。等間隔に横たわる枕木も線路をぴったり見守るようにして伸びる架線も、微妙に色合いの異なる敷石も、線路を構成する大切な一部分でなくてはならないものだった。何時までいても飽きなかった。
 いつもは踏切を外から眺めるに留めていたのだけれど、その日に限って私は中に入り、あたかも自分が線路と線路を繋いでいるかのような感覚に浸っていた。塩化銅水溶液よりも透明な空に線路と脇に立つ木々がよく映えていた。その時間帯は電車の運行がとりわけ少ない時間帯で、だから中に入っていても大丈夫なのだという思いが私を一層自分の中に沈み込ませていた。
 気づいたときには、警報音発生器が電子音を響かせていた。次いでギギ、という軋んだ音とともに遮断機が下り始める。黄色と黒のコントラストに相まって、網膜に焼きつくように赤色灯の光が点滅し、散っていった。
「……あっ、え」
 焦りに背中を蹴られるようにして、遮断機に向かって走る。そう遠くはない距離、いつも親しみを持って通過するその距離が、その日に限って途方もないものに感じられた。足がもつれる。
 遮断機が地面と平行線を描く。そして私は、踏切の向う側を見た。

 ***

 シャープペンシルを机の上に転がして、俺は深く息を吐いた。緩慢な時の流れる昼下がり。どれだけの間机に向かっていただろうか。
 椅子の背もたれにより体重をかけると、大分年季の入ってきたそれは鈍い音を立てた。その耐久性に些か不安を覚えたのですぐさま背中を浮かし、机の上のペットボトルに手を伸ばす。青色のキャップを捻ったが、そこで中身は空であることに気がついた。
はあ、と思わず息を吐く。
「飲み物やら補充しに行くか……」
 作業はそこまで切羽詰っているわけでもないし。そう呟いて俺は椅子を回した。立ち上がり、ベッドの上に投げていたパーカーを掴む。そのポケットに必要最低限の物を押し込んで部屋を出た。
 玄関できつく結びすぎた靴紐を緩め直していると、
「兄貴、コンビニ行くの?」
 こういうときにだけ妙に鋭い妹が居間から顔を覗かせる。
「ああ、飲み物とかだけ買いに行ってくる」
 そう返すと妹はふうん、と含みのある言葉をこちらに放り、
「ねえ、じゃああのチョコ買ってきてよ。こないだCMでやってた新商品のやつ」
「は、何で俺が」
「いいじゃんそれくらい。お金は後でちゃんと渡すから。お願い」
 字面の割に大した誠意の篭っていない口調で都合の良いことを言う。適当にあしらって俺は玄関を出た。後方から妹の不満げな声が聞こえたような気がしたが厚い扉に遮られてほとんど届かない。気のせいだということにしておこう。
 家と家に挟まれた細い道路を歩き、家から〇・五キロメートルと離れていないコンビニエンスストアに向かう。直訳して「便利な店」とはあまりにも安直で捻りのない名前だとは思うが、現にこうやって自分は週に幾度となくそこを利用しているわけで、自分という人間もつくづく都合の良いものを好んでいると思う。
 などとどうでも良いことを考えながら、右手に抱えたペットボトルの上にチョコレートの箱を載せる。中からは軽い音がした。いかにも女子に好まれそうな華やかなパッケージだった。肝心の食品の方は男女ともに喜ばれそうな類のもののようだ。俺もこういったチョコレートは好きだけれど、かと言ってこれを妹に渡さず自身が食べてしまっては後で何を言われるか分からない。
 五〇〇ミリリットルのペットボトルと五九グラムのチョコレート、その二つをレジに持って行って流れるように会計を済ませた。自動ドアの滑る音と「またお越しくださいませー」と緩い声音の店員に見送られて、早々にコンビニエンスストアを出る。
 空は分厚い雲に覆われていて、日差しは弱かったが風もそう強くないので寒くはなかった。せいぜいが手元のビニール袋を揺らす程度のものだ。そんな風の悪戯を多少楽しみながら来た道を戻る。コンビニエンスストアから家までは、何も起こらなければ三分程度で着く。何も起こらなければと言ったのはその道半ばに踏切があるからだ。これに引っかかるとなかなか厄介で、一、二分またはそれ以上のタイムロスは覚悟しなければならない。コンビニエンスストアにちょっと行くくらいの用事で出かけたならば良いが、遅刻しそうで急いでいるときなどにはとても煩わしいものである。現に俺は時間までに辿り着かなければいけない場所があるときに踏切に引っかかり、しかもそれが貨物列車ときたものだから痛い目を見たことが何度かある。
「やばいな……」
 そういうわけだから俺が警報音を鳴らし始めた直後の踏切へと駆け込んだのは当然といえば当然のことだった。物質的に急ぐべき要因はどこにも見つからなかったのだが、これに引っかかりたくないという気持ちがそうさせた。俺は車道と線路を隔てる遮断機が下りてくる前に踏切の中に入り込む。しかし急いだ足でも機械に統制された遮断機には敵わず、二本目を越える前に遮断機は下りきった。警報を無視したことに罪悪感を感じながら、俺は遮断機を押して踏切から出る。
 そのまま道に沿って歩いていくと、しばらくして後方を電車が渡っていった。貨物列車だ。載せられたコンテナの数は目で追っていては数えにくく、一体いくつあるのか検討もつかない。その貨物列車はしばらくの間道を塞いでいて、無理やりながら先ほど踏切を渡ったことを良かったと思えた。
 貨物列車が全て通過しきった頃、俺は道を折れる。
「……は」
 そこにあるべきはずの自宅はなく、代わりに寂れた印象のアパートが構えていた。


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