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I see.


「眼鏡を置くときはレンズを下にしたら駄目だって、一体何度言ったら分かるのよ」
 僕の立てたかたりという音に、彼女は即座に反応してそう窘めた。
「そんなことをしていたら眼鏡だってすぐ壊れてしまうわ。眼鏡のレンズって丈夫なようで案外繊細なのよ」
 自分自身は眼鏡もコンタクトもしたことがないくせに、したり顔で彼女はそんなことを言う。いつも彼女は、あたかも僕の姉か母であるかのような言動をする。視界の問題に関しては、「レンズを下向きにして眼鏡を置かない」ことと「真っ暗な部屋の中で携帯をいじらない」こと。これらは彼女の中で同じ棚に並べられるべき事柄であり、同時に一刻も早く僕に辞めさせようと画策している問題でもある。全く、結局は他人のことだというのにどこまで真面目なんだか。…ついでに言うと僕はそんな彼女が嫌いではない。
「そういえば、貴方のご両親って二人とも眼鏡だったかしら」
「うん? どうしたんだ急に」
「貴方の視力がここ最近低下してきているのは、遺伝のせいもあるのかと思って……。今まで眼鏡もかけずにいたのが信じられないくらいだわ」
「ああ、母さんはかなり視力悪くて眼鏡なしじゃ生活していけないレベルだけど、父さんは裸眼だよ。しかも両目一.五」
 その返事に彼女は不思議そうな顔を見せる。確かにこの場合、子には一体どちらが遺伝するのだろう。同性である父の方か、この世に生まれ落ちるときまで繋がっていた母の方か。仮にそれらが長所と短所で打ち消しあったとするならば、僕の視力はプラスマイナスゼロになるはずで、しかしそのゼロが原点として実際どんな数値を弾き出すのかは分からない。……まあ、そんなことを考えていても拉致があかないので、それ以上の考察は辞めにした。
 膝の上に鞄を載せ、それを開けて本を彼女に手渡す。先程ここに来る前に寄った図書館で借りてきたものだ。彼女は一転頬を紅潮させ、両の腕でその本を抱いた。
「そんなに厚い本、読むのに疲れないのか」
 表紙一枚とっても厚い、ハードカバーのその本を指差す。
「あら、大丈夫よ。作家とタイトルを聞いてから、ずっと待ち侘びていた本だもの」
 彼女は言葉通り、慈しむように本の表紙をなぞる。僕にはその感覚は分からない。本は勉強のために読むものではあっても娯楽となるものではない。
「一日で読み切るなよ、勿体ないからさ」
「そうしたら返却日まで何度も繰り返し読むわ」
 彼女は本当に上機嫌で、僕の忠告にも揺るがない。普段だったら必ず何か切り返してくるのだが。
 それから彼女は口をつぐんだので、てっきりその愛しの本を読み出すのかと思ったがそうではなかった。彼女は腕を伸ばし、本をテーブルの上に置く。そこに両手を添え、僕をひたと見据えた。
「……やっぱり、私は」
 僕は彼女の傍らの丸椅子に座ったまま、それを少しずらす。ず、と、床と椅子の足が摩擦を起こす音。
「貴方は貴方自身をもっと大切にすべきだと思うわ」
 そう言って彼女は静かに微笑む。例えば先にあげた今後僕の一部となるであろう眼鏡のことだとか、暗所での目の酷使のことなどを言っているのだろう。
 僕は答えない。口を開くものの言葉が喉を滑っていかない。
 君はそう言うけれど、それでも、この世の中には見なくても良いものが、見ない方が良いものが沢山あると思うんだよ。対して目の保養になるものが一体全体いくつある? 沈みゆく太陽が見せる橙と紫のコントラストも、昼間の海の宝石が溶けているのではないかと思うほどの輝きも、僕には目に沁みて痛いだけだ。
「……うん」
 それでも頷く。その方がきっと彼女は喜ぶ。そう思って一拍の間の後に肯定したが、けれどそんな打算的な考えは彼女には通じなかったようで、
「最近、私、声色で貴方の嘘が見抜けるようになってきたのよ」
 彼女は穏やかな表情を変えぬままそう言った。そして続ける。
「じゃあこう言ってもいいかしら。私には貴方が見つけられないから、貴方は今のままでいて、どこにいても私を見つけだして頂戴」
 その言葉に、僕は思わず目を見開く。しかしその驚きは彼女には届かない。
 彼女には見えない。
 彼女のベッドのすぐ傍にいて、その顔を真っすぐに見つめる僕の顔を見てとることができない。
 ああそうか、僕が君を捉えられなくなったなら、二人は互いに一方通行になって、すれ違うことこそあろうものの、道が交わることなんて二度となくなるのか。そんな考えが、妙な感慨を伴って訪れる。
「分かった、かければいいんだろ」
 僕はテーブルの上の眼鏡を手にとった。
「分かってくれて嬉しいわ」
 きっと貴方は眼鏡が似合うと思うの。彼女の言葉に顔を上げると、彼女は約束事はこれで終わりと判断したのか、既に空想の世界へと入り込んでいた。僕には全く読めないその本を、丁寧な手つきでなぞっていく。
 こちらには目もくれなくなった彼女を視界に捉えながら、慣れない眼鏡を耳に通す。曖昧だった境界線がすっとクリアになる。レンズ一つでこうも変わるものなのか、と何度目かの驚嘆を味わう。ずり落ちそうになるレンズを押し上げて、彼女の唇が三日月を描いていたことに、そこで初めて気がついた。


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