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リビング・デッドの八畳間



 インターホンを鳴らす。
 音が返ってくるばかりで、部屋の向こうから応答はない。おかしいな、中にいるはずなのだけれど。首を傾げつつもう一度指先を伸ばした。
 静寂。平日の昼間だからか、マンションの廊下にいるにも関わらずどこからも生活音は聞こえてこない。お隣さんはともかくとして、私がインターホンを鳴らしているこの部屋には人が在室しているはずだ。
 しばしの逡巡のあと、私は携帯電話を取り出した。キーを下方向にカコカコと鳴らして、電話帳に登録した最新の情報を取り上げる。そこに載っていた電話番号に電話をかけた。
 コール音が繰り返されるばかりで一向に出る気配がない。留守番電話サービスにも繋がらなかった。
「……なんなの」
 我ながら短気かとも思いながら、少しの苛立ちを覚えてしまった。今日行くということはあらかじめ伝えてあったし、相手も了承済みだったはずだ。約束の十四時ちょうどにインターホンを鳴らして、それから何回か繰り返した。これだけ待ったのだからシャワーやトイレに入っている訳でもなさそうだ。
 どうしようか。肩口で一つ結びにしていた髪を解く。休日で時間があるとは言え、マンションの廊下でひたすらにインターホンを鳴らす趣味はない。帰るか、せめて近くのカフェにでもいるか。
 踵を返しかけたとき、携帯が震えた。着信だ。相手を確認して電話に出る。
「おばさん」
『みっちゃん! 今そこに弘二いる?』
 通話が始まるなり朗らかに尋ねてきたのは伯母だった。私が目の前で立ち尽くしているアーバンフラット四○一号室の家主、橙野弘二の母親でもある。
『今リビングにいるのかしら? 私も一、二回行っただけなんだけれど、案外広いでしょう。生意気よねえ。それで、弘二に代わって──』
「おばさん」
 マシンガンのごとく話し続ける伯母に一度ストップをかける。
「こう……弘二くん、いないみたいなんですけど」
 私がいかにも困りました、という口調で口を挟むと、伯母もまた、えぇ? と戸惑いの声をあげた。
『だって、電話で口を酸っぱくして言っておいたのよ。六日の十四時にみっちゃんが行くわよって。じゃあ何、みっちゃん、今部屋の前にいるの?』
「そうです」
「あら……ごめんね、家にはいるはずなのよ。ちょっとみっちゃん、郵便受けの中から青い封筒出して。その中に鍵が入ってるから、開けて入ってちょうだい」
 今度は私が戸惑う番だった。いくら伯母の許可があるとは言え、人の家を勝手に開けて勝手に入るのには抵抗がある。
「ドア開けて、玄関に靴がなかったら、いないってことだから。そうしたらまた鍵を戻しておいてくれる」
 そう言われて、不在なのか否かを確認するくらいであれば良いかという思いが首をもたげた。頷いて一度電話を切る。ドアについた郵便受け、薄い隙間の中へ手のひらを入れる。比較的手が小さい女の私でも結構ぎりぎりだ。手に当たった紙を引っ張り出すと、A4サイズの封筒だった。伯母が言っていたのはこれだろう。中を探れば、書類と書類の間に、何のキーホルダーもついていない無骨な鍵を見つけた。
 実家に暮らしていた頃は、いざというときのために植木鉢の下や物置の中に鍵を隠していたものだけれど、マンションでこれとは、不用心な。思わず周りに人影がないか目を走らせる。相も変わらず、他に人はいなかった。
 もう一度インターホンを鳴らしてから、かちゃり、銀色の鍵を回した。
 小さな玄関にはスニーカーが一足置かれていた。向きの揃っていない雑然とした感じはいかにも脱ぎ捨てたままといった感じだ。どうやら出かけてはいない、らしい。耳を澄ましてみるがテレビやシャワーの音なんかも聞こえない。
「あの、三笠ですけど。お邪魔しますよ……?」
 廊下から続く部屋の扉は閉ざされていた。声が届くとは思わないが、無言で入るのもまるで空き巣のようで気が引ける。恐る恐る名乗りながらスニーカーの横にパンプスを並べた。ついでに二つともきちんと揃えておく。
 フローリングの細い廊下を真っ直ぐ行く。左右にある扉は洗面所やトイレへ続くものだろう。部屋に繋がる扉へ手をかけ、ノブをゆっくりと回した。
「弘二くん?」
 小声で従兄弟の名を呼ぶ。ドアから顔を覗かせれば、テレビの載ったローボード、テーブル、ソファが目に入った。それ以外には観葉植物の類もないシンプルな部屋だ。奥にもう一つ扉が見えた。そちらが寝室だろう。どうやらこの部屋、羨ましいことに1LDKらしい。
 ソファ良いなあ……などと横道に逸れたことを考えつつ一歩踏み出して。黒いソファの向こうに、思わぬ影を見つけた。絨毯の上に伸びている、あれは。
「……弘ちゃん?」
 思わず駆け寄って膝をついた。
 十数年ぶりに会う従兄弟、弘二がソファの裏で倒れこんでいた。Tシャツにジーンズという姿で、目を閉じて横たわっている。記憶の中の彼は小学生で、あの頃は身長もさほど高くなかった。それが顔はそのまま、背丈だけずるりと引き伸ばした感じに成長している。
「弘ちゃん、ちょっと」
 肩を揺さぶりつつ声をかけるが反応はない。脈を読もうと手首に親指をあてるものの、これで合っているのか自身がなかった。医療の知識が無いに等しいという事実が、恐怖を伴って喉元をせり上がってくる。心なしか掴んだ腕が冷たい、ような。
 弘二がただ眠っているだけなのか二日酔いなのか具合が悪いのか、救急車を呼んだ方が良いのかそれは大げさなのか、そんな判断もつけられなかった。伯母に今すぐ電話をすべきだろうか。
 名前を繰り返し呼ぶ。けれど、
「……返事がない」
「……ただの屍のようだ=H」
 どこかで聞いたことのあるようなフレーズが聞こえた。勿論、私の声ではない。脈を確認することにばかり意識を向けていたから顔をろくに見ていなかった。ばっと弘二の顔を見れば、薄く開けられた目と視線が噛み合った。
「あー、久しぶり、みっちゃん」
 三笠ではなくみっちゃんと、十数年前と同じように私の名を、ひどく気だるげに呼んで。それから弘二は再び、緩やかに瞼を下ろした。

   *

 かれこれ十年以上も会っていなかった従兄弟に、この歳になって会うことになったのはひとえに伯母のせい──いや、伯母のおかげだった。伯母と顔を合わせたのがちょうどひと月くらい前。伯母に会うこと自体久しぶりだった。
 ずっと入院していた祖父が亡くなって、その通夜でのことだ。私も含めた孫たちがすっかり成人して働いている今、結婚式やお葬式でもなければ一族が一同に会する機会はなかなかない。
 母や伯母、伯父がようやく落ち着いて(落ち着いて、と言っていいものか分からないけれど)席につき、私がゆっくりと話す時間を得たのは夜も更け、身内以外が帰ってからだった。
「弘二くん、来られなかったんですね。仕事、相当忙しいんですか?」
 伯母のために料理をよそいながら軽い気持ちで尋ねる。そう言えば従兄弟の弘二にはここ十年ほど会っていないし、何をしているかも知らない。中学校に上がるまでは半年か一年に一回、祖父母の家で会っては、久しぶりだということも男女の差も感じずに遊びまわっていたのに。ふと気がついて振ってみた話題だった。
「そうなのよ!」
 用意された寿司へ醤油をつけつつ伯母が頷く。
「いくら東京にいるからって……飛行機一本で来られるのにねえ、どうしても今の仕事を片付けなければならないんですって。みっちゃんも隆弘も、お休み貰って駆けつけてくれたって言うのに、まったく」
 元々口数の多い伯母がフルスロットルになってしまった。実父の死に直面して落ち着かない気分のところに、いくらでも喋れる話題を与えてしまったのだろう。あ、これ踏み込んじゃいけないところだったかも。そう気付いたときには遅く、ビールを注いで差し出すことしか出来なくなる。伯母はグラスを煽り、一瞬で飲み干して──即座に話を再開する。
「そう言えば、あなた異動になったんですって? どこに?」
「えっと、東京です」
「東京!」
 栄転じゃない、と伯母の目が輝いた。その煌めきが単純な祝いだけで構成されていないことにはすぐ気付けた。それを裏付けるように伯母が身を乗り出す。
「あのね、みっちゃん。弘二の様子を見てきてほしいのよ」
「……えぇ?」
「弘二ね、今回みたいに仕事が忙しいってそればっかりで、全然帰って来ないし、メールなんかも数回に一回しか返信しないし。弘二がちゃんと生活してるか見てきてもらって、私に報告するだけ。弘二もご飯くらいは奢ってくれると思うのよ。ね、お願い」
 手を合わせられる。弘二とはもう十四年も会っていないし、あの頃は気にしていなかったとは言え異性だし、そもそも一人暮らしを心配するような歳でもないし、奢りに心惑わされる学生の年代でもないし。考えが様々に頭の中を駆け巡ったが、断れる雰囲気ではなかった。伯母にはこれまで世話になっているし、互いに精神を消耗している。
 そうしておずおずと首を縦に振った結果。初七日が過ぎた頃には、東京、弘二の自宅の住所がメールで送られてきたのだった。

   *

 さて、これまでの経緯を思い出したところで。どうしたら良いのだろうと私は首を傾ける。現在時刻は十五時半。リモコンを拝借してテレビをつけてみたものの、目ぼしい番組もやっていなくてすぐに消してしまった。
 弘二が生きていることを確認したあと、何とか彼をソファへと引っ張り上げ、ブランケットをかけた。奥にある寝室へ運ぶよりは遥かに労力が少なくて済むと思ったからだ。すぐ脇のソファへ運ぶだけでも結構な重労働だった。
 どうして床で寝ていたのかは分からない。ただ相当疲れていたようで、今は私が多少物音を立ててもぴくりともしない様子で寝息を立てている。生きているのか死んでいるのかも不明な状態よりは精神によっぽど良いが、彼を放置したまま帰宅して良いか迷うところだ。
 伯母からは再度電話がかかってきた。寝ている、室内は綺麗だと報告したところ呆れた声が返ってくる。夕飯までには叩き起こしてしっかり奢ってもらいなさいとの言葉を賜った。
 それに素直に従っているという訳でもないけれど……特に何をするでもなく、初めて訪れた従兄弟の家で、ソファにもたれかかっている。
 東京に引っ越してきた二十代の女子(女子、とまだ言って許されると思いたい)が、せっかくの休日に美術館巡りをするでもショッピングをするでもなく、従兄弟の家で無為に時間を過ごすだけ。恋人の家ならまだ誇らしげに語れるとしても、従兄弟。「休みは何してたの?」と、悪気無く人のプライベートを尋ねる趣味のある先輩には上手く説明できそうにない。
 などと空想を巡らせながら、その実、困っている訳でも迷惑に思っている訳でもなかった。部屋の前で待ちぼうけを喰らっていたならば怒りも湧くものの、彼が意図的に眠っていたとは到底思えない。ただ床で寝落ちていただけかもしれないけれど、あれでは風邪を引いていただろうし体も強張っていたはずだ。
 ゆるりと立ち上がり、キッチンへと向かう。失礼、と聞いていない相手に侘びを入れてから冷蔵庫を開けた。
「うわ」
 その中を見て思いきり驚いてしまった。何もない。虚飾もなしに、何も入っていない。冷蔵庫がただ電気を流されて冷たい空気を生み出すだけの箱になっている。卵でもあれば弱っているらしい弘二に雑炊でも作ろうかと思ったのだけれど、卵どころか味噌も野菜の一つも入っていない。
 あらためてキッチンを見渡せば炊飯器も見つからないし調味料の類も見当たらなかった。戸棚の中に仕舞われているという可能性も勿論あるけれど、料理というものが為された形跡が全然見つけられないのだった。
 この人、どうやって生活してるんだ。思わずキッチンから顔を出してソファを見遣る。弘二は相変わらずすやすやと寝入っているようだった。いや、遠目にだけれど、先ほどよりも穏やかな寝顔に見える。
 まさか餓えに餓えてあのような有様だったのではという疑問が頭を過ぎるが、本人に聞いてみないことには分かりようもない。ひとまずは起きるのを待つことにした。私は鞄から手帳を取り出し、後ろについているメモのページを破りとる。それにペンで書置きをすると、財布と、郵便受けから拝借した鍵を持ってコンビニへと向かった。
 この家まで来る途中でコンビニがあるのを見つけていた。自動ドアを潜り抜け、パックのご飯やカット野菜、卵などを見つけ次第カゴへと放り込む。そうして一番大きなレジ袋を腕に提げて、私はまた弘二の家へと戻ってきた。
 こんなにも近くにコンビニがあるということで、弘二はコンビニ食生活をしていたのかもしれない。朝は食べない、昼は外食か社食、夜はコンビニ弁当。そんな生活をしている社会人は少なくないはずだ。決して推奨できるものではないけれど。
 帰宅……と言っていいのか分からない、弘二の家に戻ってきて、勝手に鍵を開け、勝手にキッチンを借りる。と言ってもやることはほとんどなく、白米を温めて、水とともに戸棚の奥から引っ張り出してきた小鍋へと放り込み、これまた見つけた醤油と卵を加えて、雑炊を作るくらい。カット野菜はさっと洗って小鉢に入れるだけ。あとは作りもののポテトサラダを器に移す。
 夕飯にはまだ少し早い時間だった。鍋に蓋をしておこう、そう思ったのに蓋が見つからず、やむを得ずそのままにする。そうしてリビングへと戻ったところで、もぞりと弘二が身動ぎした。
「……ん」
 起きそうな気配があったので、私は少し離れたところに座り込んだ。弘二はソファの上で思い切り伸びをし、
「あー、久々に、こんな寝た……」
 寝起きの低く掠れた声で一人ごちた。
「おはよう」
 控えめに声をかけてみる。すると、彼は古びたロボットのごとく軋んだ音を立ててこちらへ首を回した。
「え、……みっちゃん? ……何で?」
「何でって、行くっておばさんから連絡行ってなかった? 勝手にお邪魔してたのはごめん。おばさんの許可が出たから」
「えー、あー、今日、六日か……」
 弘二はソファから起き上がり、自身にかかっていたブランケットの存在に気がつくとおもむろにそれを畳んだ。ソファから降りて絨毯の上に正座する。
「……ごめん」
「いや、大丈夫だけど──寧ろそっちが大丈夫? 体調悪い?」
「体調、うん、いや、多分寝不足なだけ……」
 曖昧な言葉が返ってくる。あらためて不躾にならない程度を心がけつつ弘二を観察すれば、やはり昔遊んでいた頃とさほど変わっていないという印象を受けた。勿論身長は伸びているけれど、お世辞にも体格が良いとは言えず、ひょろりと引き伸ばしたといった感じだ。
 いや、顔立ちや雰囲気はたしかに同じなのだけれど、顎に薄く無精髭を生やしているところや目の奥に疲れた光を覗かせているところ、どこかぼんやりとしたところは記憶になかった。前に会ってから十年以上経っている。それだけの期間があれば人の性格だって百八十度だって変わりうるだろう。
 目の前の彼は私の知っている「弘ちゃん」なのだろうか、と思わずにはいられない。祖父母の家でかくれんぼをして遊んだり、連れ立って盆踊りに出かけたような。
 私の視線が刺さったのか、弘二が居心地悪そうに目線をさ迷わせる。
「シャワー浴びて、着替えて、きます」
 まるで他人の家に上がりこんでいるかのような口調でそう言って、若干ふらつきながらも彼は風呂場へと消えて行った。
 私は水の叩き付けられる音をしばらく聞く。髭を剃って新しいTシャツに着替えた彼が髪を乾かすのを待って、先ほどの雑炊とサラダをテーブルに出した。弘二は並べられた食事に目を丸くする。
「家にこんな器あったんだ……」
「驚くのはそこなの」
 テーブルに向かい合って座る。私は手を合わせ、いただきます、と口を動かした。次いでコンビニで貰ってきた割り箸を動かし始める。この家に二膳以上の箸があるはずもなく、コンビニでお願いしておいて良かったとしみじみ思った。
 弘二は私の真似をするかのようにぎこちない動作で両手を合わせ、雑炊を口に運ぶ。咀嚼のあとに呆けた様子でいる弘二を見て、もしや口に合わなかっただろうか、別に病気でもないのに雑炊にする必要はなかっただろうかと焦らされたけれども、彼の口から出てきたのは思いもよらぬ言葉だった。
「健康で文化的な生活……」
 何それ、と思わず言う私に弘二は「憲法第二十五条だよ」と呟く。健康で文化的な最低限度の生活。いや、それを訊いている訳ではなくて。パックご飯を温めて卵を放り込んだだけの雑炊と出来合いのサラダに対して、こんなにもしみじみと感動したような態度をとられるとは思わなかった。
「一体どんな生活を送ってるのよ」
 呆れた口調で問えば、
「死んだような、かな」
 何の皮肉も自嘲も感じさせない声色で、寧ろ目の前の食事に気をとられながら、そんな返事が寄こされた。

   *

 インターホンを鳴らす。
 叔母に、単身東京で暮らす息子──私にとっては従兄弟──の様子を見てきてほしいと頼まれて、電話口で「大丈夫」とは言ったものの、しかし。あれを大丈夫と称して良かったのだろうか。久しぶりに会う弘二の現状を問うてみれば、働き、一定の収入を得てはいるらしい。貧困に窮して床上でのたれ死にそうになっていたという訳ではないようだ。
 そもそも、彼の借りている部屋は、私のそれよりもだいぶ広かった。ソファテーブルテレビを置いてゆったりとした広さのあるダイニング(あれはリビングと言うのだろうか?)と、寝室にもう一室。駅からの距離もそう無いし、駅自体も複線通っているし、七畳もない1Kで暮らしている私にとっては羨ましいくらいの部屋だ。
 扉の向こうの室内に思いを馳せていると、ドアチェーンをがちゃがちゃと外す音がして、次いで扉が開かれた。弘二の顔が覗く。
「あ、起きてた」
「起きてたよ。おはよう、みっちゃん」
 苦笑いする弘二に迎え入れられ中へと入った。
「おはよう。お邪魔します」
 お早うとは挨拶するものの、時刻は既に十二時を回っている。私は指に提げたレジ袋を鳴らしてそのままキッチンへと向かった。買ってきた食材を冷蔵庫に放り込む。
「それ、いくらだった?」
 柱の影からこちらを覗き込みつつ尋ねられ、私はそれを適当にぼかして答えた。彼は毎回申し訳なさそうに言い、隙あらばお金を渡そうとしてくる。私の頭の中は、今日の晩御飯はグラタンにしようという一点で占められていた。
 週に二回ある休日のそのうち半日くらい、あるいは休日直前の夜を、私は弘二の家で過ごしていた。週に一度訪問するそうした生活が始まって大体一ヶ月くらいが経つ。一応携帯で事前に連絡を入れはするが、弘二はいつ行っても家にいるし、表には嫌な顔もせず玄関を開けてくれる。それこそ人に言えばあんたは母親かお手伝いさんか、と突っ込まれることだろう。その節は否めない。たしかに二回目家を訪れたときは、物理的に距離のある叔母の代わりにもう一度くらい偵察をしようという心持だった。それがそのまま繰り返されて、私が勝手に食材なんかも買っていくようになって一ヶ月になる。
 互いに二十代半ばを超えて「定期的に従兄弟の家へ遊びに行く」とは、どうかとも思うけれど。幼い頃のようにかくれんぼや鬼ごっこをしたり大きな公園まで遠出したり地元のお祭りに行ったり、そうしたことをする訳ではなく、ただ私がごはんを作ってそれを二人で食べる、借りてきたDVDを見るといったことをして、緩やかな時間を過ごしているのだった。
 東京に引っ越してきたと思ったら突然押しかけてきて、以来人の家で好きに振舞う従姉妹の存在を、弘二はどう思っているのだろうか。
「弘ちゃんさ」
 キッチンの中から声を放る。
「何?」
 弘二はリビングへと移動していた。ソファに埋もれているようだ。
「仕事って、何やってるの?」
 私が遊びに来るの迷惑じゃないの、おばさんはこのこと知ってるの。本当に聞きたいことをどうでもいいことで覆って仕舞いこんでしまうのは悪い癖だ。どうせまた気になって浮上してくるというのに。
「……言ってなかったっけ?」
 呆れたような声が返ってきた。
「CADオペレーター。打ち合わせで外出たり会社行くこともあるけど、基本的には在宅」
「C……何?」
「在宅ワーカーだって分かってくれてれば良いよ」
 馴染みのない言葉に聞き返すと弘二は笑って言った。そのあと見せてもらった寝室にはベッドとデスクトップパソコンだけが置かれていた。本はクローゼットに収まっているらしい。リビングも寝室もこれといった家具がなく、生活感が薄れて見える。基本的に物を持っていないから散らかることもないという。
 私はソファにもたれかかり本を読んで過ごす。弘二はパソコンを触ったりもする。そのときは寝室の扉を開けっぱなしにしていた。読書なんて自分の家でも出来ることだなと思いながらも、弘二と会話するでもなくただゆったりと時間を使う。無言を苦痛には感じない。
 その日は夕食にはグラタンを作った。バターで炒めた玉ねぎに小麦粉をまぶして、ホワイトソースから作るものだ。大学を出てからずっと一人暮らしをしているけれど、グラタンを作るなんて本当に久しぶりだった。

   *

 仕事終わりに何気なく携帯電話を開けば、メールが一通届いていた。広告なら開きもせずに放置しておくけれど、差出人は弘二で思わずその場で開く。弘二からメールが来たことなんてこれまで無かった。
「堤、何、彼氏?」
「違いますって! 彼氏できたら教えるって言ったじゃないですか」
 先輩の追及をかわしてメールを読む。そこには来週の木曜夜、空いているかという質問が記されていた。休日の前日だ。手帳を開いてみてふと気づいた。それが偶然かどうか。その日は私の誕生日だった。
 何も予定が入っていない旨を返すと、間髪入れずに電話がかかってくる。
『空いてる? ……良かった』
「ねえ、木曜日って」
『来週はみっちゃんの誕生日でしょ』
 こともなげに言われる。一緒に誕生日を祝ったのなんて、一体何年前だというのか。そもそも職場の人に誕生日を把握されてもいないので、ここ数年、学生以来の友人と会うようなことでもなければ誕生日は何の変哲もない一日となっていた。
「祝ってくれるの……ありがとう」
『うん。サプライズみたいなことはできないけどね』
 二言三言、言葉を交して電話を切る。それからは木曜日までを楽しみに過ごした。その前に一度弘二の家に行こうかと思っていたけれど、それはやめておいた。
 何かを楽しみに待つというのは仕事にもやる気が出るものだ。仕事が入っていた木曜日は絶対に残業をしないという気概で働いた。そのおかげか、いつもより早く出ることができた。地下鉄に乗って弘二の家に向かう。
 信号にもほとんど引っかかることなく、部屋の前までやって来ていつものようにインターホンを鳴らした。反応がない。二回、三回。次に鳴らすまでの間隔が短くなってきているのが分かる。伝えていたより早く着いてしまったからまだ出かけているのかもしれない。その可能性も頭を過ぎったけれど、なぜだか胸騒ぎがした。電話をかければ良いのに、鞄の中に仕舞ってある携帯を出すことさえもどかしかった。郵便入れに隠されている合鍵を取り出す。
 駆け込んだリビング、ソファに頭を預けるようにして弘二が倒れていた。以前のように絨毯へ全身を預けているという体勢ではないものの、ソファへ完全に横になっている訳でもなく。仮眠を取ろうとする姿勢ではない。どちらかと言えば力尽きたといった感じだ。
「弘ちゃん!」
 救急車を呼ぶべきか。ひとまず名前を呼びながら両肩を叩く。もしそれで意識がないようなら呼吸をしているか確認しなければならない。人が倒れた時はどうすれば良いか、あれから少しは調べたのだ。付け焼刃の知識を必死に思い返す。
 肩を叩けばぴくりと震えるのが分かった。私は明らさまにほっとした表情を浮かべていたことだろう。
 弘二の瞼がゆるりと上げられ、唇が薄く開く。
「三笠」
 口にされたのは私の名前だった。手の甲で顔が覆われる。
「あー、……死んでた……」
 死という単語にどきりとした。その響きに硬直してしまって咄嗟に言葉を返せなくなる。喉に引っかかるような感じを覚えながら「死んでたって……」と返すと、
「依存してる、とか思わせたくないけど……みっちゃんのいない時の普段の俺、死んでるようなものだなと……」
 ぼそりと自嘲めいた呟きが零される。
 聞くところによれば、弘二は仕事の納期が迫ってくると睡眠は削られるし変な時間に寝て昼夜逆転もするし、何より、食事を摂らなくなるという。料理をすることもないので冷蔵庫も当然空になる。健康で文化的な最低限度の生活。金銭的に困っている訳ではないのに、人間らしい生活が遠ざかっていく。
 俺のこれって、生きてるって言えるんだろうか。
 弘二が一度そう零しているのを聞いたことがある。たしか、そう、DVDを観ていたときだ。ゾンビ映画。全く怖がる様子もなく、こういうのってリビング・デッドとも言うんだよなと口にしていた。リビング・デッド。生ける屍。
 自身がきちんと生きているかどうか、あるいはきちんと生活していないことを、彼はひどく気にかけているようだった。
「今回は急に訳の分からん変更が……ほんと、でも、みっちゃんが来るまでには終わらせようと思って……いや、終わったから一回寝ようと思って……」
 私は弘二の手首を掴んだ。内側に親指をしっかりと当てると脈打っていることが感じられる。きちんと温かい。心臓が稼動して血液を供給している証。
 逆に弘二の方は冷たさを感じたのか、腕を目元から少しずらして、きょとんと瞬きをした。
「死んでるような、でも、あくまでような≠ナ、生きてるよ……」
 呟くように言った。自分の想像以上に弱々しい声音になる。
「弘ちゃん、おじいちゃんの葬式、来なかったでしょう。棺に入れられたおじいちゃんの手の冷たさとか、腕の細さとか、もう二度と開かないって痛感させる瞼とか、あれを」
 まだ四十九日も経っていない祖父の死を思い出す。棺の中へ花を差し入れたときの、自分の涙と祖父の体の温度差を思い出す。別に死ぬという言葉への忌避感、不謹慎だから口にするなということを主張したい訳ではない。
「あれを死んでるって言うんだよ」
 生命活動を停止したという意味のそれと弘二の言うそれの違いがあることは分かっている。それでも、彼が自身を「生きていない」と称するとき、何だか無性に悲しくなるのだ。
 二十代半ばにもなれば、身内が亡くなる経験はあれが初めてではない。それでも祖父の死は存外、私の中に昇華されないまま滞留していたらしい。
 しばしの沈黙のあと、弘二は体勢を直してこちらへと向かい合った。ずっと手首を掴んだままだった私の指を一本一本外し、両手をとって包み込む。体力的には私よりはるかに弱っているはずの弘二が、心配そうな眼差しでこちらを覗き込んできた。そこから目を逸らさないように。その思いを刻み付けるようにしながら口を開いた。
「規則正しい生活しよう。きちんと寝てきちんと食べて、それから出かけよう。何なら一緒に行く」
 小学生に言う夏休みの目標みたいなことを口走ってしまった。その勢いを留めることができなくてそのまま続けてしまう。
「で、生きてるって実感が欲しいなら献血でも行こう」
「献血?」
 弘二が吹き出した。
「何、献血って」
「え、だって自分に血が通ってることが分かるし、その血液が人の役には立つし、良いこと尽くめだよ?」
 献血ルームって雑誌もお菓子もあるし、などと重ねると弘二がさらに笑う。この流れで献血って、とひとしきり笑われた。楽しそうに笑う弘二には「生きているのか分からない」なんて言葉は到底似合わなかった。
 もしかしたらソファとテーブルとテレビしかない、この簡素なリビングを必要としていたのは私だったのかもしれない。
「……そういえば今日、私の誕生日で」
 ふと思い出して自己主張してみると、弘二ははっとした顔をする。
「ごめん。みっちゃんが来るまでに買い物行っておくはずだったんだけど」
 徹夜明けに倒れるように眠ってしまったということなのだろう。申し訳なさそうな表情とともに、子供の頃に遊びに誘われたときのように手を差し出される。
「一緒に食材を買いに行って、一緒に作ってくれますか」
 つられるようにして手を出せば、鈍色をした鍵が手のひらに載せられていた。


リビング・デッドの八畳間、了


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