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非相互的9分間



 九階建てのマンションのベランダ、その欄干に少女がもたれかかっていた。耳に当てた白い携帯電話が、夜の中で妙に浮き立っている。からり、ストラップが風に揺れた。
「月が綺麗ですね」
 少女は遠く市街地を見渡しながら、小さく呟くように言う。周りに人はいない、携帯電話の向こう側の相手に話しかけたのだろう。
『月? ああ、そっちは晴れてるのか。生憎とこっちは今雨降っててさ、月なんか全然見えないんだよ』
 低く、ややくぐもった声が隙間から漏れる。
「……そうなんですか」
 相槌を打ちながら、両腕を伸ばして彼女は空を仰ぐ。そのまま二、三秒顔を上に向けた後、体を引き寄せて直立の姿勢に戻る。携帯電話を握る右手に左手を添えた。
「先輩、東京の大学、どうですか?」
『楽しいよ。色んなとこから色んな奴が来てるから、面白い。たまに考え違いすぎてぶつかるけどさ』
 間髪入れず、電話口で相手が笑う。彼女は安堵の表情を浮かべ、口元を緩めた。やがて、それもすぐ意を決したものへと切り替わる。
「ええと、学校で、そろそろ進路固めないといけないんですけど……地元の大学にするか、それとも東京まで出ていくか、どうしようかなって迷ってて」
 たどたどしく話し、最後に「先輩にお聞きしたいと思ってて」と付け加える。しばらく間があり、
『市橋ならしっかりしてるし、一人暮らしでも心配なさそうだな。……東京。京都とかでもいいんじゃないか? 俺が修学旅行で京都行ったとき羨ましがってたし、京都好きなんだろ?』
「京都……」
 少女のことを親身になって考えてくれているのだろう、真剣な声が返され、彼女もその言葉を反芻した。
『ちなみに学部はどこ志望?』
「文学部です」
 文学部かあ、俺は古典も現文も全くできない理系だからなあ。真面目なのかふざけているのかよく分からないその口調に、少女は思わず笑みを零した。けれど、それもすぐに鳴りを潜める。
『まあ、市橋の気に入ったところを受ければいいさ。それが一番良い。やっぱ、大して行きたくもない、やる気の起きないところを受けても意味がないよ。金だけ無駄にかかるし』
「……はい」
『それにしても、文学部かあ。文学部……市橋、本読むの好きって言ってたっけか。どんなの読むんだ?』
「色々読みます。少し古いのもわりと……森鴎外だとか、あと夏目漱石」
『ああ、そこら辺は俺も読んだ。舞姫、こころ……坊ちゃんも読んだな』
「ほんとですか!?」
『先輩を疑うなよ……いやでも、読んだって言っても、それこそ授業で読んだよ』
「……ああ、そっか……。私の現代文の教科書にも載ってますよ」
 弾んでいた会話が、やや失速した。
『教科書ってさ、使う生徒は変わっても、中身はほとんど変わらないんだよなあ』
 それには気付かなかったのか、電話口の相手は言葉を返す。少女は頷いて、それから何か口にした。心なしか声量が小さくなったような、外からは聞き取りにくい声だった。
 いくつもの風が耳元を撫で、通り過ぎていった。
「じゃあそろそろ……先輩、ありがとうございました」
 何度か言葉がやり取りされ、見計らって少女が切り出す。
『うん。市橋、頭良いから大丈夫だって。応援するから頑張れ』
 少女は笑って、けれどそれはどこか泣き出しそうな表情だった。
 携帯電話を耳元から話して、並ぶボタンのうちの一つを押す。通話時間とかかった料金が画面に浮かんだ。それもまた、少女はボタンを押してすぐに消した。現れた待受画面を、表情の読み取れない目で見つめる。
「いつまでも電話してないの。お風呂とっくに沸いてるわよ」
 後方、部屋の中から声が飛んできた。女性特有の高い、こちらを気遣った声だ。
 少女は首だけを回し、部屋の入口に母親の姿を認める。今行く、と答えて彼女は踵を返した。
 パタパタと、サンダルの音だけが残される。
 空は曇っていて、何も見えなかった。




 *月が綺麗ですね


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