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巡る昼夜の物語



ふじこさま主宰の企画 [物語は須く喪失である] に寄稿したものです。



 ばららららら。
 ぴんと張った幕に雨が降りしきるような音がする。と同時に、下ろした瞼の裏が少しずつ明るくなっていくのを感じて、彼女は身じろぎをした。
 黒一色、目を開けていても閉じていても何ら変わらないほど暗かった世界が、遠くの方から白んでいく。下から上へ、向こうからこちらへ。階調がだんだんと曖昧になり、 やがて鮮やかな色彩を取り戻していく。
「……おはよう」
 彼女は立ち上がり、衣服の裾を払った。続けて、髪や顔に手を当てる。この場に鏡がないので目では見られないが、みっともない見目にはなっていないようだ。最低限の確認を終え、くるりと回れば衣服の裾が膨らんだ。
 真っ暗な世界が白み、やがて色を取り戻していく。この時間を、彼女たちは朝と呼ぶ。
 朝の生まれる方向へ、彼女は走り出す。


 ざあっと視界が開けた。
 彼女は川辺の土手へ辿りついていた。木陰で、彼女と同じ年頃の少女が本を広げている。彼女はその傍らへしゃがみこんだ。
 風がそよぐ中、そうしてしばらく待つ。
 少女が本をぱらぱらと捲る音だけが響く。少女は──彼女の姉≠ヘ、温かな日差しの下で楽しそうに読書をしていた。つられるようにして、彼女は時おり姉の本を覗く。 本の中身は文字ばかりで、挿絵の一枚も載っていなかった。
(面白くないわ)
 彼女は強く、念じるがごとく思いを強くして、いかにも飽き飽きだという表情を浮かべた。あくびを噛み殺す。眠たくて仕方がなかった。
 そこへ唐突に現れたのは、真っ白なウサギだった。
「遅刻だ、遅刻だ!」
 赤い目にチョッキを着たウサギは、二本足で彼女の前を駆け抜けていく。そうして不意に立ち止まり、せかせかと、チョッキから懐中時計を取り出した。
 彼女はそれまでウサギの様子をぼんやりと眺めていたのだが、ウサギがまじまじと時刻を確認するのを見てはっとした。
(こんなウサギ見たことない!)
 話して、まるで人間みたいにチョッキを着ていて、そのうえ時計を取り出す。がぜん気になって、彼女はウサギを追いかけた。服の裾をひるがえして野原を走る。やっと後ろ姿を捉えたと思えば、ウサギは大きな穴へと消えていくところだった。彼女でも入れるほどに大きな穴だ。
 彼女は──アリス≠ヘ、ためらいなくウサギの後を追った。


 長い長い穴を、下へ下へと。眠くなるほどに長い時間をかけて穴を落ち、ウサギを追いかけてふと気がつけば、彼女は天井の低い大広間にいた。壁にはぐるりと、いくつも のドアが並んでいる。ドアノブを回してみてもどれも鍵がかかっていた。
 どうやったら外に出られるだろう。困った様子で広間をうろつけば、そこにはガラスのテーブル、そして金色の鍵があった。その鍵はカーテンの裏に潜んでいた小さなドアにぴったりと合う。扉の向こう側は、ネズミ穴と同じくらいの小さな覗き口、今まで見たこともないほど綺麗な庭。遠くにそれは美しい花々と涼やかな泉が見えた。あの庭は さぞ心地よいに違いない。そちらへ向かいたい衝動が湧き上がるものの、彼女の大きさ──あるいは、その扉の小ささ──ではどう足掻いても通れなかった。せっかく鍵を見 つけたというのにこれでは意味がない。
 一喜一憂しながら、彼女はテーブルへと引き返す。そこで、あら、と彼女は片眉を上げた。
「さっきまで絶対なかったわ、こんなの」
 テーブルの上には小瓶が置かれていた。小瓶には紙切れがついており、それにはDRINK ME≠フ文字。飲んで。その提案を彼女は鵜呑みにせず、小瓶を矯めつ眇めつ眺めた 。危険な瓶には毒の印がある。この瓶には毒の印はない。ならば飲んでも大丈夫。まずは味見をしようと彼女は小瓶を開けて、瓶の口へ──

 ばららららら。

 その音は不意に降って来た。
「ま、」
 彼女の口から音が零れた。叫ぼうとした口を両手で塞ぐ。瓶が床へ転がり、中の液体を勢いよく零れさせた。
 ──その台詞は今、許されていない。
 戒めが脳裏でひらめく。
 照明がばつりと落とされたかのごとく、世界は急に暗転した。広間も小瓶も消え失せて、すべてが闇の中に塗り込められて見えなくなる。足元にぽっかりと穴が空いたよう になって、何もない空間へ彼女は送り込まれた。先ほどウサギを追って飛び込んだ穴とは随分趣が異なっている。
「……待ってよ……」
 言えなかった言葉が、唇の端から飛び出して転がっていく。それに対する応答はない。
 ああ、また夜だ。
 彼女は嘆息し、膝を抱え込んだ。
 世界は急速に夜を迎えてしまった。待って、と思わず叫びそうになるほどに短い朝昼だった。ここまで短い昼間も久しぶりではないだろうか。
「まさかあそこで夜にされるとは思わなかったわ」
 あれ、不思議な味だけどわりと美味しいのに。DRINK ME≠フ小瓶を思い返しながら皮肉気味に呟く。彼女の眼差しは先ほどまでの、純真な少女のそれとは打って変わって 、闇に溶け込みそうな暗さを湛えていた。
 と、そこで、カラン。小気味よい音とともに、暗闇に小さく明かりが灯る。明かりはゆらゆらと揺れながら、その輪郭をだんだんに大きくして近づいてきた。
「やあアリス。ご機嫌いかがかな」
 カンテラを掲げて現れたのは、先ほどまで散々追いかけていたウサギだった。
「こんばんは白ウサギ。良い夜ね」
 膝を抱えたまま彼女も挨拶する。
「実に良い夜だ」
 ウサギはそう相槌を打って彼女の前に座り込んだ。二人の言葉はその実、かなり皮肉めいた調子を帯びていた。「良い夜」だなんて微塵も思っていないそれだ。
「遅れたわ、失礼」
 と、どこからともなく少女が現れて場に加わる。彼女とよく似た服装をした少女。姉≠セった。脇に本を抱えて持ってきている。
 カンテラが三人──正確には二人と一羽──の真ん中に置かれて、あたかも焚き火を囲んで団欒するかのような空間が生まれた。
 明かりに照らし出された互いの顔を見て、姉が声を上げる。
「あらアリス、あなた随分昏い目をしてるわよ。ますますオンとオフの差が激しくなったんじゃない?」
 好奇心旺盛で愛らしい少女、が嘘みたいよ。それに対して彼女はぶっきらぼうに、
「これに関しては放っておいて」
 と返した。たしかに今の彼女は、年相応の眩さとは、表情と興味の対象を目まぐるしく変えていく、先ほどまでの少女らしさとは程遠かった。
 肩をすくめる姉を横目に、ウサギが姿勢を正した。
「ではやろうか、反省会を。今回は第一章≠フ後半までだった。さて、我々はどこで間違った?」


 また朝が訪れ、夜の帳が下り、朝を迎え、夜を受け止めた。
 朝はいつも唐突で、夜はあまりにも長かった。太陽が仕事をする時間はあまりにも短く、昼と夜の関係は対等ではなかった。陽の光をようやく浴びることができたと思ったら何の前触れもなくばつりと夜に切り替えられる、そんな日々が、一体どれくらい続いたのか分からないほど長く続いた。
 そうしてついに彼女は切れてしまった。
 怒りが頂点に達した、という意味ではない。彼女の「昼間」もまた、ぴんと張り詰めて保っていたピアノ線が崩れるように、限界が来てしまったのだ。
 そのとき、周りはまだ昼に居続けていた。つまり、明るい世界の中で、生き生きとした目をして振舞っていた。しかし彼女だけが急に動きを止めて、相槌を打つこともしなくなった。それは身体が機能を停止した訳ではなくて、彼女の意思によって採られた姿勢だった。
 木の下のテーブルで開かれていたお茶会。三月ウサギ≠ニ帽子屋=Aその間にヤマネ≠ェ挟まって、お茶会に乱入した彼女と話しているところだった。
「──で、それからずっと、時間のやつったらバラバラにされたのを根にもって、おれの頼みをいっこうに聞いてくれやしないのさ。だから今じゃずうっと六時のままだ」
 帽子屋が言って、お手上げといった手振りをする。その大げさな動作に対して、
「じゃあそれで、お茶の道具がこんなに出てるのね?」
 彼女はテーブルを見回して、きっとこう言うはずだった。けれど実際は彼らの想定に反して、彼女は黙りこくったままだった。帽子屋は不審に思いつつも繰り返す。
「だから今じゃずうっと六時のまま。いつでもお茶の時間さ!」
 帽子屋の台詞が聞こえていないはずはなかった。それでも彼女は沈黙を保っている。先ほどまで浮かべていた「何なのこのおかしなお茶会は、もううんざり」といった表情すら立ち消えていた。痺れを切らした帽子屋は再度重ねる。
「だから──」
「……アリス?」
 眠っていたはずのヤマネが薄目を開けて囁く。
「アリス、まだ読書中≠セよ。どうしたの?」
 ヤマネの心配にも我関せず、といった彼女の態度に、沈黙だけが流れた。気まずい静寂。
 やがて雫が滴るような音がしたかと思えば、間髪入れず、ばらららららという音が一体に響いた。
 また世界に夜が訪れる音。
 そうして、頁が閉じられていく音だ。
 辺りが暗くなっていく。至極残念そうな顔で三月ウサギが天を仰ぐ。
 こうも真っ暗になってはさすがにお茶会もお開きである。解散、後いつもの「反省会」へと至る前に、帽子屋がライターを鳴らした。
「アリス、お前最近変だぞ。読書≠放棄するなんてどうかしてる」
「どうかしてる。そう、イカレ帽子屋≠ノどうかしてるって言われるなんて光栄だわ」
「そりゃあ重畳。……分かってるのか、下手すりゃあ俺たちは乱丁落丁#F定されて火あぶりだぞ」
 楽しめない物語≠ヘ要らない。帽子屋は苛立ちまじりにライターの火を揺らした。その怒気に、三月ウサギとヤマネがおろおろと視線をさ迷わせる。
「……真面目にやったところで、いつも私たちは捨てられるじゃない」
「捨てられることに怯えるばかりに、始めから何もしないのか?」
 彼女たちは物語≠ナある。捲られる頁にあわせて踊り、舞い、物語る。頁を繰る手が、彼女たちにとっての太陽となる。閉じられた本の中で、彼女たちはただひたすらに 次の読み手を待つしかない。
 そうして、しばしば、彼女たちは飽きられる。つまらない。挿絵がない。何だかおかしい。ついていけない。実際どのような思いゆえに読み手が離れていくのか、彼女たちには知りようがない。
 物語は須く喪失である。
 朝が来て、踊って、飽きられて、失って、失望する。これまでずっとその繰り返しだった。その間隔は、ひとえに読み手に委ねられている。彼女たちに決定権はない。
「私は主人公じゃないのよ」
 だって実際は何にもできないんだもの。彼女は嘆く。何度も何度もこの世界を渡り歩いて、そのたび不思議に驚くことはできる。それでも読み手の手を引く、あるいは去り行く後ろ姿に追いすがることは叶わない。
「お前は主人公じゃない。でも、主役だ」
 帽子屋はカチリとライターを鳴らす。
「主役は舞台を降りられない。これを不幸ととるのか幸福ととるのかは、お前次第なんだぞ」
 彼女の瞳の中で、炎がひときわ強く揺らめいた。
「おれたちはもう何十年も踊り続けてる。燃やされて灰と化すことなく、埃に埋ずもれることなく、何十年も。これはひとえに不幸か?」
 彼女は躊躇いがちに唇を開いた。何と答えたら良いのだろう。
 彼女たちは、図書館に置いてある物語≠フひとつだった。ある時には小学生の課題図書として、ある時には映画と照らし合わせるために、ある時にはかの有名な作品を 一度は読むべきかという興味から、彼女たちは棚から抜き去られた。そうしてまたすぐに戻されることもあれば、借り出されることも、館内で読み進まれることもあった。
 多くの読み手に触れる機会があり、その分多くの喪失があった。積み重なる喪失感に慣れるなんてことは決してなかった。立ち直ったつもりになっても結局また傷ついてし まうのだ。
「……分かったわ」
 彼女はしぶしぶといった調子で頷いた。
「次に踊るときは、今までで一番の踊りをしてみせる。それで駄目だったら、私たちの物語≠ヘ終わりよ。今度は私がイカレ帽子屋≠やるから、あなたがアリス≠ やってちょうだい」
 彼女の発言に、「何だって!?」帽子屋がライターを取り落としそうになる。慌てて両手に収めたライターは蓋が戻って、火が消えてしまった。
 光源は失われたはずなのだが、辺りが闇に閉ざされることはなかった。三月ウサギとヤマネが不思議そうに空を仰ぎ、
「……朝だ」
 呟いた。
「アリス、朝だ!」
 三月ウサギが跳ねる。たしかに世界は白み始めていた。言われなくとも分かってるわ、と言いたげに立ち上がった彼女を、今度はヤマネが制した。早く第一章へ、川辺の姉のもとへ行かなければならないのに、と彼女は怪訝な表情を浮かべる。
「ちがう、始めからじゃない。ここ≠ゥらだ」
「続きからだ!」
 場が沸く。帽子屋はライターを仕舞いこんだ。
「アリス、台詞の続きは覚えてるな? だから今じゃずうっと六時のままだ」
「じゃあそれで、お茶の道具がこんなに出てるのね?」
 彼女は言葉がつい弾んでしまうのを感じながら台詞を確認する。飽きられるのには、勝手に期待して勝手に失望するのには、もう疲れた。それでも読み進められるとき、本を手にとってもらえるとき、心が高揚するのをたしかに感じるのだ。どれだけ小さな灯火であっても、感じるその熱を誤魔化すことはできない。
 彼女はティーカップを手に持った。三月ウサギはお茶を引っくり返す準備をし、帽子屋は肘の下にヤマネを押し込んだ。ヤマネは両目を閉じる。「イカレたお茶会」を演出する準備を整える。
 読まれることは、すべて、別れと同じ。
 けれど、別れがなければ出会いもない。
 物語の台詞のように陳腐な意見だけれど、彼女は──アリスは、それを噛み締めていた。
 ばららららら。
 ぴんと張った幕に雨が降りしきるような音がする。頁が開かれる音だ。
 また、物語に朝が訪れる。


巡る昼夜の物語=A了


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