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はるかかなたの水中話



企画・場所アンソロ [arium] web版に寄稿したものです。 お題:aquarium



 暗い空間に、ぼうっと青が浮かび上がる。なみなみと湛えられた水の直方体の中で魚たちが揺らいでいた。
「……私まで水の中にいるみたい」
 息を零すように思わず呟くと、
「でしょ。ずっと遥に見せたかった」
 傍らの彼方かなたがこちらを見てにっと笑った。
 夜の十一時、照明がほとんど落とされ、水槽だけが青く照らされた水族館。この水槽の前には私たちの他に誰もいない。コポコポと、微かに空気の球が上へ昇っていく音が聞こえる。
 水と、魚と、泡と、私たち。それ以外には何もない。
「それじゃあ、話をしようか」 
 水にすうっと溶け入りそうな声で彼方が言った。

 * * *

 私には双子の妹がいる。一卵性の双子だ。妹、と言っても双子なので面倒を見る相手という感じではない。どちらが姉でどちらが妹というよりは、母親の胎内からずっと一緒にいた親友という感覚が近いと思う。時には喧嘩もしたけれど、幼い頃から服は色違いのお揃いで、デザートなんかはすべて半分こにして交換、「絶対のひみつ」も並べた布団の中でこっそり共有したものだった。
 森彼方もり かなた。私、森遥もり はるかの双子の名前。
 中学生くらいまでは彼方のことならそれこそ何でも、手にとるように分かった気がする。別々の高校に上がってから、何だか彼女が遠い。
「……県外?」
 彼方との遠さをあらためて感じさせられたのは、高校二年生の終わり頃だった。記入の終わっていない進路希望調査票が手のひらの中でくしゃりと音を立てる。自分で発した言葉が上手く飲み込めなくて、ただ瞬きを繰り返してしまう。その反応に母が目を白黒させた。
「知らなかったの?」
 答はイエス。けれど、素直に頷くことができなかった。
 私が高校二年の終わりになっても、未だにどうしようかと悩んでいた進路。ひとまず進路希望調査には実家から通える距離、レベルの高すぎない公立大学の名前を記入して、滑り止めに私立も受けさせてもらおうかと思っていたそれ。彼方は一人暮らしの必要な、県外の大学を希望していたのだった。
 知らなかった。彼方がその大学の名前を挙げているところさえ聞いたことがなかった。
 彼方の通っている高校も私の通っている高校も一応は進学高校の部類に入る。県外の大学を目指す人だって珍しくない。けれど、彼方がそれを希望するとは思ってもみなかった。……いや、私はそれを考えないようにしてきたのだ。自分の進路も彼方の進路も、意識を向けず宙に浮かせたまま。だから勝手に彼方も同じなのだと思い込んでいた。
 部活で帰りが遅くて、お互いゆったり話すような時間もなかなか無くて。そうして高校に入ってからここまで来てしまった。進路希望調査なんて、と愚痴めいた相談をしようと思っているうちに、彼方はしっかり進路を決めてしまっていた。
 そうして、私は学校に皺のついた進路希望調査表を提出した。ぐしゃぐしゃの用紙は怪しまれたけれど担任に言及されることはなくて少しほっとしてしまった。
 それから私は、彼方の顔がきちんと見られなくなった。私がそんな態度だから、階段ですれ違っても居間で一緒にテレビを見ていても会話が盛り上がることはない。
 双子なのに。自身とよく似た顔を見るたびに、批難めいた言葉が脳裏を過ぎるのだ。置いていかれてしまったような感覚。
 進路に迷うことはなくても相談するようなことがなくても、そんな大事なことは私に一番に話してほしかった。我が侭だと、子供じみた態度だと分かっている。分かっていても大人に振舞えない。私は彼方に勝手に期待して、勝手に裏切られたような気持ちになっているのだ。
 胸中に燻る思いを引きずったまま日々は回る。ある日、二月後半の平日のこと。放課後の部活を終えて遅い時間に帰宅した私が夕食を終えて二階の自室に入ろうとしたところで、
「遥、あのさ」
 彼方に呼びとめられた。その視線を私は受けとめることができない。
「ごめん。すぐやらなきゃいけない課題あるから」
 我ながら苦しい言い訳をしてドアノブに手をかける。
「遥」
 問い質すような彼方の声が背中に刺さる。戸惑いが伝わってきた。
 こんな態度じゃ彼方に嫌われても仕方ない。そう分かっているのに、この歳になってしてしまった喧嘩の仲直り方法が分からない、外側だけ成長してしまった子供みたいだ。実際は私が一方的にこんな態度をとっているだけなのに。
 後ろ手に閉めたドアの立てる、微かな音が鼓膜へ変に張りついた。

 * * *

「彼方と喧嘩でもしたの?」
 台所で食器を洗いながら母が言う。特段咎めているようでもなく、過剰な心配も含んでいない口調だった。
「喧嘩、じゃない」
 私はテーブルで夕食を摂っていた。答えながらウィンナーにフォークを突き刺す。勢いよく刺し過ぎて皿の上で料理が跳ねた。含みのある私の返事に、そう? と母の相槌が聞こえる。
「彼方が随分と寂しがってたわよ」
「……うん」
 この遣り取りを母が伝えたのかは分からない。その日の夜、互いの部屋の前ですれ違いざまに、彼方に腕を掴まれた。咄嗟のことにびっくりして避けることもできなかった。
「遥、ねえ、あたし何かした?」
 ショートカットの奥の瞳と目が合う。その目に不安が満ちているのが分かった。
「違う、彼方は悪くなくて、悪いのは」
 言葉に詰まる。悪いのは、私だ。
 いつまでも彼方と一緒にいられないことも、何から何まで喋るような関係ではいられないことも分かっているのに、それに納得できていない私。
 どうしてこんなに意地を張っているんだろう。彼方に一言、「進路決めたんだって?」と尋ねれば良いだけなのに。そうしたら彼方は「お母さんから聞いたの?」と、何の衒いもなく話してくれるはずだ。高校生にもなって一方的に傷ついて勝手に相手を避けて。我ながら意味が分からない。自覚しているのに今も何も言えないのだから、本当に──
 ぺちん、と音と衝撃がして、我に返れば彼方の両手に頬を挟まれていた。先ほどまで揺らいでいた瞳はぴたりとこちらを見据えていた。
「ねえ、そうやって頭の中でぐるぐる考えて黙っちゃう癖、遥の悪いとこだよ」
「……うん」
「あたしが何かした訳じゃないの?」
「うん……」
 頬に添えられた手のひらが心地良かった。熱をもった頬を冷まし、一点をぐるぐる回っていた思考を解していく。あれだけ膨張していた思考は、弾けるのは一瞬だった。
「遥に話したいこと、沢山ある。聞きたいことも。だからちゃんと付き合ってよね」
「……うん、私も」
 小さな声で返すと、彼方の手が緩やかに離れていく。すうっと退いていく冷たさは名残惜しかったけれど、私の頭はもう十分に覚めていた。

 * * *

 三月始めの金曜日。
 彼方に手を引かれるようにして誘われるがままに向かったのは、去年リニューアルした地元の水族館だった。内装を大きく変えてアクアトンネルや大水槽を新たに作ったとのことで、リニューアルオープン以来、なかなか賑わっていたらしい。混雑していると聞いたこともあって私はまだ行ったことがなかった。
 事の始まりは少し前。
「あのね、これ当たったんだ」
 そう言って彼方が、ソファから身を乗り出しながら水族館の入館チケットを見せてきたのだった。水色をしたチケットが二枚、握られている。
「水族館? 去年できた?」
「ただのチケットじゃないんだ、ドキドキ★水族館お泊まりツアー≠フチケットです!」
 彼方はチケットに書いてある文面をテンション高く読み上げて、応募してみるもんだね、と楽しげに続けた。
「泊まり?」
「そ。遥、次の土曜、部活休みでしょ。金曜の夜から土曜の朝にかけて、水族館に素泊まり! あ、寝袋持参ね」
 いくら部活が無いとは言え次の土曜とは随分急だとは思ったけれど、声をかけるのが遅くなったのはひとえに私が彼方のことを避け続けていたせいらしい。「ちゃんと付き合うって言ったじゃん」と頬を膨らませる彼方に私は素直に謝った。
 さて、そうして二人でそのツアーに参加することになり。金曜日の放課後、制服から着替えてボストンバッグひとつを持って、私たちは水族館へ向かった。陽はとうに沈んでいて、ぽつぽつと点在する街灯が道に浮かび上がっている。こんな時間から出かけることなんて滅多にないからそれだけで何だかどきどきしてしまう。水族館までの移動は、JRと徒歩であっという間だった。
 閉館間際の入り口でチケットを見せると、普通の通路ではなく裏へと通された。夜の水族館に泊まるという企画は一度にペア十組くらいの参加を目安に、定期的に開催されているようだ。私たちの他には若いカップルや親子がいた。誰もが浮き足立った様子を見せている。
 飼育員さんから詳細を聴き、それからバックヤードを見学する。サメのいる水槽に上から餌のイワシを放り込んだりと、普段見学する時には出来ないようなことをやらせてもらった。
 そうして十一時を回った頃、館内の照明は必要最低限まで落とされて、暗い通路の中に青い水槽が浮かび上がるようになった。魚たちはガラスの向こうで息を潜めたように緩慢な動きを見せている。ツアーの参加者たちはめいめい館内を歩き回り、夜を過ごすのにふさわしい場所を検討した。私と彼方も熱帯魚やくらげにいちいち歓声を上げながら、魚が見れて、なおかつ静かな場所を探す。他の人たちと楽しさを共有するのも良かったけれど、今日の私たちは互いに話し合える特別な場所を求めていた。
 やがて私たちが頷き合ったのは、地元の海を再現した中水槽の前。やはりアクアトンネルと巨大水槽に人が集中したようで、私たちの他には誰もいなかった。そう言ってしまうと大したことのない場所のようだけれど、四角い水槽の中では二番目に大きいし二人で独占するには贅沢すぎるくらいだった。
 水槽の近くに寝袋を敷いて、その中に潜り込む。自分の両腕を枕にしてうつぶせに水槽へ向き合う。目線が低くて不思議な感じだ。館内の床に寝袋だけを敷いた寝床は正直堅くて、快適だとは言いがたかったものの、目の前に浮かぶ海に意識を奪われてそんなことは露ほども気にならなかった。
 これだけ水槽に近づけばガラスの厚みを全然感じない。魚たちからはこちらが見えているのだろうか。頭の先をつんつんとこちらへ向ける魚に笑いかけてふと横を見れば、彼方も同じように指先を遊ばせていた。顔を見合わせて思わず笑う。そんなことも久しぶりだった。二人ともが部活や課題に負われている生活では、それぞれ母と出かけることはあっても、二人きりでゆっくり顔を合わせる機会はなかなか無かった。
「彼方に話したいこと、沢山あるなあ」
 思わず零せば、彼方がゆっくりと頷く。その瞳に緩やかに泳ぐ魚の影が映りこんだ。
「それじゃあ、話をしようか」
 昔、彼方と私が二人で一つの子供部屋を使っていた頃のように、彼方は悪戯っぽく目を煌めかせた。

 * * *

 彼方は大学に行って、海洋生物を研究してみたいのだと言った。
「うちの県内の大学には良さげな学科が無いんだよね」
 そう言う彼女の顔はとても大人びて見えた。二年前、中学三年生の冬に受験勉強に飽き飽きして「勉強なんてやってられるか!」と叫んでいたのが嘘のようだ。
「……私は、自分が何になりたいか分かんない」
「そっか」
「そっか、って……」
「え? 良いじゃん。つまり何にでもなれるってことでしょ?」
 彼方があっけらかんと笑う。
「遥≠ニ彼方≠チて名前なのに、目先の、近くのことばっかり考えててもつまんないじゃない」
 変わらず楽しそうな彼方は、いつもよりも饒舌だった。いや、私たちがこの二年間、忙しさを言い訳にして話をしてこなかっただけかもしれない。内心ではこんなにも話をしたがっていたのに。
 空白を埋めるように口を動かした。いや、意識しなくとも、話したいことがあり過ぎて唇の端からするすると零れ落ちてくるのだった。
 夜は更けていき、水槽の中では相変わらず魚たちが揺らぐ。
 それを見ていると私までその中に入り込んでしまったような感覚に陥る。息苦しくは無い。ただコポコポと音だけが耳元でループして、時を忘れた。
 水槽が光っているほかは真っ暗な空間で、音もほとんど無いような場所だったけれどちっとも怖さを感じなかった。これが一人だったら、他の参加者が皆仲睦まじい二人組だということも相まって心細く感じていたかもしれない。けれど、実際には傍らに彼方がいる。
 森彼方。私の双子の妹。顔立ちや背丈は私とそっくりだけれど、髪型も口調も、通う学校も部活も違う。私たちは一人の人間ではない。漫画にあるみたいな、入れ替わって生活することなんて出来やしないだろう。
 彼方といつまでも一緒にはいられないし、昔みたいに何だって共有することはもう出来ない。分かっている。分かってはいる。その事実に納得したように振舞ってみせても内心なかなか上手くそれを飲み込めない。これを依存と言うのだろうか。私はきっと早く彼方離れをしなければならないのだろう。
 まあ、そんな直近の話は良い。どうせ彼方が一人暮らしを始める頃には嫌でも覚悟しなければならないだろうから、一点をぐるぐると回る思考は止めにしよう。
 それよりも、私は今、彼方と遠くの話をしたい。
「何にでもなれるって言うなら、そうだなあ……」
 そう言いつつ彼方を見ると、眠たげな目をしながらも満足そうに笑みを浮かべる。
「科学者とかどう。水中でも息ができる薬とか作ってよ」
「ええ、それだったら空を飛びたいなあ」
 他愛のない話をを水へと溶かしていく。
 水槽の前で寝袋に包まって、いつ寝落ちたのかは覚えていない。水槽の中に入り込んだ感覚を覚えながら魚たちに囲まれて見た夢は、彼方との話の続きだったような気がした。


はるかかなたの水中話、了


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