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飢水の六



企画・アンソロジー「水」寄稿作です。



 ──ああ、どうしようもなく、乾く。
 書き写すべき英文の代わりに、さながらテロップのように、感傷が頭の中を流れていく。
 どこにでもあるような公立高校の、午後二つ目の授業中。教師の声は眠気を孕んだ空気に包まれ四角い教室の中で沈んでいく。新しい範囲でもテスト前の復習でもない授業内容には新鮮味がなく、船を漕いでいる生徒もちらほらいる。
 泳士(えいし)は頬杖を突きながら、窓側の一番後ろの席からクラスメイト達の様子を伺った。教師から遠いのを良いことに、こっそりと喉飴を口へ放り込む。
 本当は水分をとりたいのだが、ペットボトルを鞄から出すのはさすがに憚られた。教師が黒板や教科書に夢中になっているタイミングを狙ったとしてもそれはあまりに冒険が過ぎるだろう。授業中に飴の類を摂取することも許されていないのだが、こうでもしないと耐えられない。内も外も、乾きを覚えて仕方がないのだ。
 誰にともなく言い訳をしながら、泳士の意識は黒板ではなくその上の時計へ向かう。残りの授業時間を計算する。早く放課後になれば良いと思う。教室から解放されれば部活へ、プールへ向かうことができる。
「おーい、渡(わたり)。外ばっか見て、ちゃんと聞いてんのか?」
 教師の声が放物線を描き、クラスメイトの視線が緩やかに、しかし確実に刺さるのを感じる。一番後ろの席というのは教師からの距離がある分かえって注目されやすい位置だ。
「やだなあ先生、聞いてますよ」
 おどけた調子で嘘を吐く。大して咎められないことは分かっている。クラス全体を引き締めるためのいつもの遣り取りである。実際今の出来事によって、うつらうつらしていた生徒が数人、授業へと帰ってきたようだ。
 泳士は熱心に板書をとるかのごとくノートへと顔を落とし、隠れるようにして目を閉じた。水中で息を漏らした時のごぼりという音がたしかに聞こえる。全身余すことなく冷たさに包まれると、独特の感覚が肌へと吸いつく。温度に慣れれば少しずつ少しずつ自身と水の塊の境界線が曖昧になる。
 教師が英文を読み上げる声は、水の層に隔てられて遠い。
 渡泳士(わたり・えいし)。高校二年生、水泳部。幼い頃に「えーし」と呼んでいた自身の名の意味を認識したのと、水に親しみ始めたのは、どちらが先だったろうか。
 今日もどうしようもなく、乾いて仕方がない。それはもはや、息苦しささえ覚えるほどに。放課後のプールに、水に浸っていられる瞬間に、毎日毎日、焦がれていた。
 
 人間の、六割は水で出来ている。
 年齢や性別によって差はあるものの、おおよそ、六割と言って差し支えないだろう。胎児の時には体重の約九割。それから少しずつ少しずつ、老いるにつれて体内の水分量は減っていく。らしい。
 理科の授業か何かで聞いたうろ覚えの知識をふと思い出しつつ、泳士は昼休みの廊下を行く。ワイシャツを捲った腕の先にはペットボトルを提げている。ワックスの効いた廊下を上履きで踏みしめるたびにプラスチック容器の中身が揺れる。パッケージは外国のミネラルウォーターのものだが、その実、中身は購買隣のウォーターサーバーから補給してきた蒸留水だった。店に行けば天然水やら湧き水やら銘打たれた飲料水が色々とあるが、その味や舌触りに対しては、泳士はあまり興味がなかった。こだわろうとしたところで高校生の財力で買える量など高が知れている。水分であれば、渇きを少しでも満たしてくれるものであれば良いのだ。
 また一口、水を含む。キャップをキュルキュルと回して閉め、窓の外へ目を遣った。四階からはグラウンドに併設されたプールが見てとれる。白いフェンスの向こうに、長辺が二十五メートルの四角形。鮮やかな水色が透けて見える。体育で水泳をやる期間は終わったが、放課後に水泳部が使用するために、プールにはこの時期でもまだ水が張られている。放課後が待ち遠しい、と今日も思いながら窓の向こうを見つめて──網膜に小さく映り込んだものに意識を奪われた。
 それを何と形容するのが適切だったろうか。
 恐ろしくゆったりとしたクロール。全身を濃紺の水着に包んだ女子生徒が、他に誰もいないプール、二列目のレーンを泳いでいる。それは力任せに足をばたつかせているという訳ではなくて、すらりと伸ばした手で水を掻くたびに水の方から彼女を先へ押し出していくような、そんな動作だった。
 あんな風に泳ぐ者を、泳士は知らない。
 今は昼休みだ。この時間帯、水泳部員のプール使用は許可されていないし、そばに体育教師の姿も見えない。
「……っ」
 唾を呑む。喉の乾きはそんなことでは治まらない。いてもたってもいられなくなって、
「井々城」
 先を行く友人に声をかけた。学ランが振り向く。泳士は彼の両腕へ、購買で購入したばかりの菓子パンを上乗せした。友人が抱えきれんばかりのパンに目を丸くする。
「悪い、用事思い出した。先行って食べてて」
 言うなり、泳士は身を翻した。
「分かったけど、これ俺が持って行くと皆に食べられるよ?」
 背中に友人の声が飛ぶ。
「別に良い!」
 なおざりに返事をして階段へ足を落とす。今はただ昇降口へ、プールへ向かうことしか考えられなかった。プールで泳いでいる者が誰なのか、どうしてこの時間に泳いでいるのか、会って確認したい。
 気が急いてつまづきそうになりつつも外靴に履き替え、眩しい日差しにさらされながら屋外プールへ向かう。鍵がかかっていないことを確認して扉を開け放す。入り口で裸足になり、更衣室を経由せずに直接プールサイドを目指した。
 足裏がざらつく。
 泳士は勢いよくプールへ、区切られた直線へ目を向ける。しかしそこには誰もいなかった。水中はいつものようにがらんとしている。え、と思わず口の端から音が漏れた。つい先ほどまで人がいたはずなのに。気分が急下降していくのを感じる。
「……誰?」
 声がしてそちらを見遣れば、先ほどの女子生徒がベンチに座り込んでいた。キャップを外し、白いバスタオルを髪に当てているところからするともう上がるところだったのだろうか。その顔は突然現れた泳士に驚いているようであった。
 細身の四肢に、鎖骨より下まで伸びている黒髪。競泳用の、露出の少ない水着を着ている。あのクロールは彼女だ。そう認識した途端、吸い込まれるように彼女へと視線が固定された。彼女の瞳が訝しげに細められる。弾かれるようにして泳士は名乗った。
「渡泳士。二年六組、水泳部」
「……、……篠原雨音。帰宅部よ」
 彼女は人に名前を訊いた手前か、しぶしぶと言った調子で名乗った。
 泳士はその名とこれまでの記憶を照らし合わせる。やはり一度も聞いたことがない名前だった。少なくともこの高校の水泳部に所属していたことはない。
「それで、何の用なの?」
「何でこの時間に泳いでるのか気になって……」
「先生の許可は貰ってるわ」
 雨音はするりと立ち上がった。そうして音もなく距離を詰め、泳士の前に佇む。二人の間に、ぽつり、彼女の髪先から滴った雫が落ちた。
 掲げられたのはクリアファイルだった。中には斉藤と印の押された用紙が入っている。
「……許可証?」
 今度は泳士が疑問符を浮かべる番だった。斉藤という教師には聞き覚えがない。
「そう。だから、言いふらさないでね。あなたみたいなのが何人も好奇心で来られたら困るから」
 淡々と言いながら、雨音はバスタオルを取りに戻る。その足はそのまま、女子更衣室へと向かっていった。
 昼休みになぜ泳いでいたのか、水泳部員でもないのに許可証とは何なのか。泳士の疑問は氷解していない。分かったのは唯一彼女の名前だけだ。
「昼休みが終わる前に髪乾かさないといけないから」
 背中に視線を感じたのか、彼女は僅かに首を回して言う。そうして更衣室の中へと消えていった。
 泳士は校舎の時計を確認する。昼休みが終わるまであと十五分ほど。雨音が着替え終わるのを待っている余裕はなさそうだった。それに彼女のあの様子では、更衣室前で待っているなんてことは出来そうにない。自身にも五時間目の授業があるため、諦めて踵を返した。
 しのはらあまね。泳士は舌先へ名前を上らせて、先ほど校内から見た彼女の姿を思い返す。水中での速さを求める競技とは、対極を行くかのごとく緩やかなクロール。それは、一分一秒でも長く水に浸かっていたいという意思の表れのように、見えたのだ。


 あれ以来、泳士は無意識のうちに篠原雨音の姿を探し続けていた。正確には、プールで泳いでいる雨音の姿を、だ。ここ数日は小雨が続いていたが、それでも校舎の窓からついプールを見遣ってしまう癖がついてしまっていた。一抹の期待は毎回裏切られており、プールに人影を見つけることはなかった。名前も姿も知っているのに出会おうとすると出会えないものだ。
 重たい鉛色の空から雨粒が落ちてくる。今日は体育の授業内容が屋内でのものに変更されていた。体育館をネットで二つに区切り、男女に分かれてバスケットボールの簡単なゲームを繰り返す。これまでしばらく長距離走や幅跳びをやらされていた生徒達は久々のレクリエーションに浮き足立っていた。
 タイマーがブザー音を響かせて空間を切る。試合終了の合図に、コートへ入っていた生徒と、試合を見物していた生徒が入れ替わる。泳士もまた別の男子からゼッケンを受け取った。瞬く間に試合が始まり、バスケットボールが弧を描く。
 明確なポジションなどというものは決まっていないのでボールの扱いに長けたものほどよく動き、よく点を取る。活発に立ち回る数人の周りで、それでもゲームには参加しなければならないと、泳士は足を動かした。
 足を動かし、時にはボールを受け取り、また別の生徒へ投げ渡しながら、思考は目前から逸れていく。……雨は放課後までに止むだろうか。気温も低くなっているしこのままでは今日の部活動が休みになる可能性が高い。学校にプールがあるのは良いが、屋根つきでないために天候の影響をダイレクトに受けてしまうのは宜しくない。足を伸ばせば駅向こうに市民プールがあるが、残念ながら平日の学校帰りに行ける距離ではない。
 水に潜っている時間が唯一、内からも外からも症状を訴える泳士の渇きを癒してくれる。水中でしか生きられない魚を、あるいは十割を水で満たしたペットボトルを、羨ましいと思うのは酔狂が過ぎるだろうか。自分でも自虐気味にそう思う。けれど、だからこそ、あんな風に水へ親しむ篠原天音を同族のように感じ、彼女の泳ぐ姿を見たいと、話してみたいと、思ったのだ。
「あっ、悪い!」
 突然の衝撃に泳士の思考が弾ける。
 どうやら勢い良くぶつかられたらしい。ぐらり、体が傾いた。全身が床へ向かっていくのを感じる。それを回避しようとして床へ着いている方の足へつい、力を込める。負荷のかかった足首が鈍い悲鳴を上げた。
「い、」
 歯の隙間から音が漏れる。体は結局重力に逆らわず落下していった。倒れこんだ衝撃で細めた視界に、泳士にぶつかった男子生徒が、渡、とうろたえているのが映りこんだ。
 自然試合が中断され、他の生徒や体育教師の注目が集まる。慌てた様子で駆けつけた教師は頭を打っていないことを確認しつつも捻挫を認めて、泳士に保健室行きを促した。
 泳士は緩やかに立ち上がる。左足首が熱を持ち始めているのを感じた。バスケットボールの試合中に自分がぼうっとしていたのが悪い。そう自覚しつつも、ずきりと痛む足首に顔をしかめずにはいられなかった。
 体育の授業を離脱し、再開された試合の喧騒を背中に受けながら保健室へと向かう。
 ──ああ、これでは、泳げない。
 眉間の皺は、痛みというよりも落胆、もどかしさによるものだった。捻挫ならばサポーターやテープで固定しなければならないだろう。きっと水を蹴るなどもってのほかだ。この捻挫が治るまでに何日かかるか。一晩寝たら気にならない程度になっていたら良いが。
 めったに訪れることのない保健室へと辿りつき、ノックとともに横開きの扉を開ける。
「すいません、体育で捻挫しちゃって……」
 白い部屋へ足を踏み入れた泳士を、二対の目が捉えた。
「あらあら、捻挫?」
 ぱたぱたとスリッパの音を響かせながら養護教諭が近づいてくる。白衣を羽織った妙齢の女性である。彼女は泳士に手近な椅子を示すと首を回して、
「篠原さん、もう戻りなさい。あと二十分くらい授業受けれるでしょ」
 ベッドに腰掛けていた女子生徒に言った。
「……はあい」
 声をかけられた方──篠原雨音は仕方なしといった調子で立ち上がり、机に置いてあったグラスの水を一口含んで扉へと向かう。そして泳士をちらりと一瞥し、視線を合わさぬまま、
「お大事に」
 小さく言葉を落とした。それから雨音はぱっと顔を上げて養護教諭に「じゃあ、また来るね」と伝えた後、スカートを翻して去って行った。思いも寄らぬところで雨音に出会った驚きに、泳士は何も言えぬままでいる。
「篠原さんと知り合い?」
 あの子、また来るって……保健室に来る回数は少ない方が安心なのだけれど。困ったように笑いながら、養護教諭が泳士の傍らに座る。泳士は痛めた足首を診てもらいつつ瞼を伏せた。
「あの、俺も水、貰っていいですか」
 問えば、養護教諭は快諾してくれる。ピッチャーからグラスへ注がれる水の音が、鼓膜に浸透していった。


 温水が顔を、肩を、腕を叩く。壁に吊るしたシャワーヘッドから湯が絶え間なく落ちてくる。
 日中の保健室での診察によればやはり軽い捻挫とのことで、三日から一週間ほどは足首をできるだけ固定し安静にしているようにと言われた。泳いでは駄目ですか、と思わず尋ねてしまった泳士に、養護教諭は微笑んで「足首を固定して、安静に」と言葉を重ねた。早く回復するためには我慢しなさい、ということらしい。
 その後の体育の授業は見学で終わり、雨が本降りになった放課後も、おとなしく帰路につくしかなかった。同じクラスの水泳部員が事情を把握してしまっており、彼のあの様子では明日明後日の部活動参加にもストップがかかりそうだった。足はもう治ったからと主張して強行すれば、部長、ひいては顧問にまで話を持っていかれかねない。
 しぶしぶ帰宅し、出来立ての夕食を摂り見るともなしにテレビを見て、シャワーを浴びる。夕食時に、体育で捻挫をしてしまったのだと何気なく漏らしたところ母がそれに反応してしまい、患部をあまり温めてはいけないと浴槽に湯は張られなかった。心配自体は嬉しいものの、湯を溜めるという選択肢を削られてしまったことを考えるとその実何もありがたくなかった。仕方なしにシャワーヘッドを壁に固定してひたすらに湯を浴びている。
「泳士、あんた起きてるの? 大丈夫?」
 脱衣所から母の声がした。起きてるよ、と返事をすれば安堵と説教のない交ぜになった声が届けられる。
「お父さんも入るんだから、いい加減に上がりなさい。もう十時よ」
 十時とは。何時に風呂に入ったのだったか。首を傾げながらハンドルを捻りお湯を止めた。脱衣所へ出る。バスタオルに顔を埋ずめて考える。
 水の希求がどんどん強くなっていく。水を飲みたい、あるいは、水に浸かりたい。内からでも外からでも、どちらでも良い。
 脳が、体が渇きを訴える頻度は日に日に増していく。どうしてこうも水を求め、水に惹かれるのか。この症状はいつからなのか心当たりが無い。これは何かに反比例しているのだろうか。


 心地良い風と明るい日差しがレースカーテンを揺らし、教室を柔らかく満たしている。朝のホームルームが始まるまでのざわついた時間。担任教師がやって来るまでにはまだ時間がある。窓側の一番後ろの席で、泳士は欠伸を噛み殺し、森、と前の席の女子を呼んだ。
「なに?」
 ポニーテールを波立たせながら彼女が振り返った。
「突然なんだけどさ。篠原雨音って知ってる? もし知ってたら、連絡先教えてほしくて」
「しのはら……、ああ、同じ中学校で、委員会一緒だったことあるよ。アドレスは分かんないけど、RAINなら同じグループに入ってるかな……」
 泳士の無茶な要望に、スマートフォンの画面をスワイプしながら彼女が言う。気軽にメッセージを遣り取りできるアプリの名を上げて、雨音のプロフィール画面を見せてくれた。
 女子に尋ねてみればいずれは雨音の連絡先を知ることができるかと期待していたが、いきなり一人目、しかも前の席のクラスメイトで辿り着けるとは思っていなかった。かねがね交友関係の広い女子だとは思っていたがあらためて感心する。
「教えられるのは雨音ちゃんのIDになるけど、本人に許可貰ってからで良い?」
「うん。勿論」
 そうして前の席の女子に教えてもらった連絡先に、泳士はメッセージを送った。突然ごめん、と切り出した後に名乗る。
『篠原さんって、好きな日にプール使えるの? もし今日明日泳ぐ予定があったら、俺も使わせてもらえたら嬉しいです』
 「嬉しい」まで文面を打ってから逡巡して「です」と付け加える。雨音から返事があったのはそれから授業が二つ終わった後だった。休み時間にスマートフォンを確認したらしい。
『どうして?』
『捻挫で水泳部の部活に参加できなくて』
 保健室で雨音に会ったことを思い出しながら泳士は即答する。しかし画面を見つめていても「既読」の二文字がつくことはなかった。彼女はスマートフォンを仕舞いこんでしまったらしい。もどかしさを抱えながら次の連絡を待つ。
 三時間目と四時間目の間に来たメッセージもまた疑問符で終わっていた。
『どうしてそんなに泳ぎたいの?』
『六割じゃあ足りないから』
 泳士は何も考えずにそう打ち込んで、これでは通じない、変に思われると気付く。何か代わりの文面を入れようとして、指が誤って送信ボタンを押してしまった。口と手が固まる。一度送ってしまったメッセージは取り消すことが出来ない。
 てっきりまた『どういう意味?』と疑問文が来るかと思ったが、雨音の次の言葉は『わかった。放課後十六時半にプールサイドで』だった。
 安堵の溜息とともに窓を見遣れば、今日もまた雨が降り出していた。水泳部の活動が休みになることを見越しての発言だったのだろう。
 午後もまた授業に耐えて、課題に取り組むふりをして時間を潰し、泳士はプールへと向かった。雨は午前中からずっと止んでいない。外部活はすべて休みか校舎内でのトレーニングとなっている。屋外のプールに注目する者はいないだろう。捻挫のせいで走ることは出来ないのに気持ちだけが急いてしまう。
 水着を持ってプールサイドに赴けば、そこには既に水着を着た雨音がいた。手のひらで鍵を弄んでいる。おそらくこのプールの鍵だろう。今さらながら、本当にこのプールを使用する「許可」を貰っているらしい。雨音は泳士の姿を見とめるとおもむろに口を開いた。
「こんにちは」
「こ、んにちは。……あの、ありがとう」
 ぎこちなく挨拶を返し、更衣室へ向かおうとする泳士を雨音は制した。
「荷物は全部置いて、そこに立って」
 水中で優雅に水を掻き分ける腕がもたげられてプールの淵ぎりぎりを示す。泳士は疑問を覚えながらも、プールを貸してくれる彼女の言うことだからと学ラン姿のままそこへ向かった。
「捻挫をしてまで泳ぎたいなんて、よっぽど水が好きなのね」
 雨音は瞬きをする間に泳士に近づく。鍵を握っていない方の右手、すらりと伸ばされた指先が、泳士の喉を捕らえた。皮膚に爪を微かに感じる。
「魚にでもなるつもりなの?」
「良いな、それ」
 泳士は唇の端を上げた。その笑みがどこか自嘲めいた、不自然なものになっていることに本人は気付かない。
 魚になるのでも、水そのものになるのでも良い。今日もどうしようもなく、乾いて仕方がない。それはもはや、地上で息苦しさを覚えるほどに。いつかこの苦しさに、渇きに押しつぶされてしまうのではないかという考えが頭を過ぎる。
「魚はプールじゃ生きられないけど?」
 雨音は妖艶にさえ見える笑みを浮かべた。 
「人間の六割は水分らしいけど……水って何なのかしら?」
 泳士の答を待たずに、雨音は続ける。
「飢水病って知ってる?」
「……きすい?」
「水に魅入って、水に魅入られた人のかかる、水を渇望してどうしようもなくなる病。別に特別って訳でもないけど、進行すると自ら海に飛び込んでしまったりして、入水自殺の出来上がり」
 降りしきる雨が、泳士と雨音の髪を、肩を濡らす。二人とも雫を拭おうとはしない。
「私は自殺幇助をするつもりはないのよ。──だから、」
 どん、と勢い良く押された両肩からバランスを崩して、泳士は背中からプールに落ちていく。背中を衝撃が打って、瞬間、全身を水に襲われた。唇の隙間から大量に空気が溢れる。
「──っ」
 暗い雨空の下ではプールの水自体も黒く濁ってしまったような気がする。学ランやワイシャツが水をしっかりと含んでしまった。日ごろ水着のみで水中に入っている時とは違う。全身が重い。水を蹴ろうとすればスラックスが足へ纏わりつき、固定された足首がテーピングの下でずきりと痛む。なかなか体勢を整えることが出来ない。
 ごぼりと、また空気が漏れて、代わりに水が口内へ入って来る。泳士に浸透し、侵食しようとする。その間にも体は底へ底へ沈んでいく。プールの深さは百五十センチメートルしかないはずだが、底が無いような気がする。首筋から背中にかけて、ぞくりとした感覚に襲われた。それは水に入っていて初めて覚える感覚だった。
 無意識のうちに右手を水面へ伸ばす。それは助けを求めるかのような動作だった。
 右手をぐいと掴まれ、水面へ引っ張り上げられる。上半身が地上へ出る。デッキに両腕を突いて泳士は咳き込んだ。
「どう? 怖い、と思った?」
 雨音が泳士の顔を覗き込む。好奇心でも無関心でもない、奇妙な瞳が
「荒療治すぎた? 叔母さんには止めろって言われたけど、やっぱり止めるべきだったかしら……」
「……叔母さん?」
 咳の合間に、泳士は尋ねる。変に水を飲んでしまったせいで喉が変な感じがする。水分を吸ってずっしりと重たくなった制服のせいで全身も怠い。
「斉藤先生。あなたも会ってるでしょ、保健の先生。私の叔母なの」
 泳士はプールサイドへ上がり、ベンチへと足を引きずった。雨音からバスタオルが差し出される。降り止まぬ雨の下ではあまり意味がないが、ひとまずそれを受け取って顔を拭く。
「色々無茶苦茶だな、あんた……」
 はあっと大きく息を吐くと、その分、肺が酸素を求めた。久しぶりにしっかりと呼吸をした気がする。
「私を同族だって感じたあなたに言われたくないわ」
 雨音が泳士の隣に座った。雨粒がプールに落ち、次々と波紋を作るのを無言で眺める。このままここにいては風邪を引く、などということは二人とも言い出さなかった。少し小降りになったところで、雨音が静かに口を開く。
「人魚の生まれ変わりだって信じてた女の子の話、する?」
「……普通自分のことを自分で女の子とか言うか?」
 泳士は喉元に手を遣る。喉の渇きはいつの間にか収まっていた。
 到底魚は生きていけないような、塩素に塗れたプールサイド。人間の少年と少女は顔を見合わせて、ようやく笑った。


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