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黒煙に虹



企画星屑ノスタルジア≠ノ寄稿させていただいたものです。
お題:クレヨン、勘違い、ステップを踏む


 昔々、あるところに、色のない国がありました。色のない、と言うのはいささか言いすぎかもしれません──その国は、山から黒い石を掘り出して、その石をとなりの国へ売ったり、燃やすことで機械を動かしたりして成り立っている国でした。
 国の煙突からは朝も晩も、もくもくと不透明な煙がたなびいていました。太陽がさんさんと光を注いでいる日も、その煙によって、地上の人々からは曇っているように見えるのでした。
 煙が集まって出来た雲の隙間からは、細い細い糸のような光が落ちてきます。その光の筋の一本が照らす先、数ある煙突の一つ。その天辺から、ひょこりと現れる頭がありました。
 黒い黒い髪を持つ、青年でした。
 その青年は、煙突の穴から身軽に体を出すと、屋根へと身を移しました。その青年は痩せた体躯をしていました。さほど背が高いという訳ではないのに、まるで枯れ枝のような細い腕と細い足のせいでひょろりとして見えます。袖をまくった腕も、頬も、全身が煤で汚れていました。
 青年は力なく下げた腕からデッキブラシを下げていました。彼は煙突掃除をしていたのでした。煤けた煙突の掃除。それが青年の仕事です。彼は毎日毎日、黒い国の煙突から煙突を通って生活をしています。
 彼の父親もまた、煙突の汚れを拭って暮らしていました。彼の父親の父親もまた、煙突の汚れを濯いで暮らしていました。彼らは一様に働いて、一様に老いきる前に永い眠りについていきました。きっと彼も同じような道を進むのだろうと、口には出さなくとも気付いていました。
 溢れる煙に地面より近いところで、煙に紛らせるように、はあ、と青年は溜息を吐きました。その瞳は頬の汚れよりも、塗り込められたような色の髪よりも暗く濁って見えました。しばらくの間、青年は屋根から街を見つめていました。家と家の隙間に、行商をする人々や、駆け回る子供達や、犬や鴉なんかが見えました。
 やがて、青年は壁に立てかけてあった梯子を下り始めました。足元を確かめながらゆっくりと降りていると、こつん、頭に何かが当たります。青年は身動ぎしました。バランスを崩して梯子から落下してしまって、怪我で仕事ができなくなったりでもしたら堪りません。いったい何が降って来たのだろうといぶかしんでいると、こつんこつんこつんこつん、再び硬い何かが降ってきました。雨粒よりもはるかに大きく、硬いものが青年の肩や頭にぶつかっては転がり落ちていきます。青年は慎重に梯子を下り終え、乾いた地面へと降り立ちました。
 先ほど散々ぶつかったものは何であったのかと、地面へと目を走らせます。鴉が何かを持ち出して、しかしそれにも飽きてくちばしから放り出したのでしょうか。青年はきょろきょろとさ迷わせた視線の先に、小さい何かを見つけて、口を「あ」の形に開けました。そこに、
「──いっ」
 てぇ、と、言葉が吐き出されました。青年は舌を噛んで、目元に涙を滲ませながら憎々しげに頭をさすります。
 そうして青年が取り上げたのは、細長い箱ひとつと、幾本もある、筒のような煙草のような何かでした。
「……くれよん?」
 青年は箱に書いてある文字を読みました。それは黒い国の言語で「クレヨン」と書いてありました。
 煙草のようなものは沢山あって、二本の手では落としてしまいそうだったので、青年はそれらを箱の中へと収めました。箱の大きさにぴったりで、十二本を全て入れると箱がきれいに埋まりました。
「クレヨン」
 青年はもう一度呟いて、言葉が舌に馴染むのを待ちました。十二本のその「クレヨン」を青年がまじまじと見つめているのには、訳がありました。そのクレヨンは、一本一本色が違ったのです。巻かれた紙には「くろ」「みどり」といったように、その一本が染められた一色が示されていました。「あお」や「あか」といった色を、青年がこれまで一度も見たことがなかったわけではありません。そうした色が存在することは勿論、王族といった身分の高い人々は、はっとするほど華やかな衣装を身にまとっていることは知っています。けれど、煤と煙に染まったこの国で、それらの色はあまりにも鮮やかでした。鮮やかでありながら、目を突き刺すような鮮烈さというよりは、ずっと見ていたくなるような温かさもありました。
 青年は次の仕事のことも忘れてクレヨンに魅入っていました。一つ一つに書かれている色の名前を確認して、「そらいろ」というものがあるのを見つけると、思わず頭上を見上げました。
 厚い雲なのか煙なのか分からない灰色を見て、もしかすると自分以外の人には「そら」はこのクレヨンと同じように見えているのだろうかと、ぼんやりと疑問に思いました。


 青年は仕事から帰ると、堅いパンと具の少ないスープの夕食もそこそこに、机へと向かいました。普段はろくに向かわない机でしたが、その棚のところには辞書がありました。青年の三代前が煙突掃除夫にしては知識欲が旺盛で、彼が貯金を積み立てていってやっと購入したものでした。それを久しぶりに開いて、青年は「クレヨン」を引きます。指で辿ったそこには「画材のひとつ」とありました。青年はつづけて「画材」を引いて、手元にあるクレヨンが、絵を描くためのものであることを知りました。
 青年は仕事を始めるまで、あるいは仕事を始めてからしばらくしてからも、白いチョークで地面に絵を描いて遊んでいたことを唐突に思い出しました。それは煤や灰に埋もれていた記憶でした。幼い頃の青年は、その上に寝そべっても余りある大きさの絵や、複雑な模様の絵を描いては、年の近い子ども達に披露していたのでした。
 がたがたと忙しなく引き出しを開けて、青年はそこから皺の多い紙束を取り出しました。それから辞書をぱらぱらと捲り、目についた挿絵の真似を始めます。辞書には「林檎」の絵があり、「樹、またはその果実。果実は赤い」と説明が添えてありました。
 鉛筆でざっくりとした形を描いて、赤色のクレヨンを手に取ります。青年はおそるおそる、その筒の先を紙につけました。紙のざらついた感じが手に伝わってきて、紙は赤く染まりました。引くことのできる線の太さを把握すると、青年は思いきって、その林檎全体に色をつけていきました。
 完成した林檎の絵を青年は掲げました。辞書の挿絵よりも、その林檎は本物らしいのではないかとさえ思いました。
「ほお、うまいもんだね。そういえばあんたは昔から絵を描くのが好きだった」
 気がつけば、傍らに老いた母親が立っていました。青年は母親と、年の離れた妹と三人で暮らしていました。父は既に亡くなっており、恋人と呼べるような女性はまだいません。そのため家計を支えるために、青年は煙突掃除の仕事を、母親と妹は月に数回ある市で行商をして支え合っていました。
 母親は林檎の絵を手にとって、ぼんやりとした部屋の明かりにかざしました。そしてその林檎が鮮やかな赤に着色されているのに気付き、思わず目を見開きました。絵といえば鉛筆や墨で陰影を表したりする程度のもので、こんなにも色をまとったものであるという概念はなかったのです。
「あんた、他にもなにか描かないのかい?」
 母親は絵に目を釘付けにしたまま言いました。林檎の絵は、万人が絶賛するほど技巧的に優れているというほどではありませんでした。親の欲目が入って、「うまい」と口にしたところはありました。ただ、その鮮烈な赤さは衝撃的でした。青年がどうやってこの絵を描いたのかということよりも、他に何が描けるのか、どのくらい描けるのかということが気になりました。
「それは、勿論、描こうと思うけど」
 青年は迷うことなく頷きました。久しぶりの絵を褒められたこともありましたし、何より線を描きクレヨンで色をつけられることが楽しくて、紙が尽きるまで描き続けようと思いました。
 幸い、次の日に仕事はありませんでした。
 青年は机に向かい、辞書を捲って何かを描いては、明るい色を組み合わせて着色していきました。完成した絵は、しばしの間眺めて満足感に浸った後、部屋の床へと並べていきました。
 仕事のことを忘れ、煤と煙のことを忘れ、鮮やかな色に溢れた絵を生み出していく時間は、久しぶりに、幸せだという気持ちをもたらしました。青年はいつしか、沢山の絵に囲まれて、床の上で眠りに落ちていました。


 ある日、青年が疲れて仕事から帰ってくると、絵がすべて部屋から消えていました。思いもがけない事態に、青年は目を白黒させました。そうして慌てて母親と妹のもとへ走っていきました。
「あの絵ね、市で売ったよ。あんたに後で言う形になって悪いけど、ずっと部屋にあっても仕方ないだろう」
「……売った?」
 青年は事態が飲み込めずに、オウム返しに呟きます。
「そう。聞いておくれ、十枚全部売れたんだよ! あんたの絵ね、なかなか好評だったんだ」
 嬉々として語る母親は、新しい紙を買ってきたんだ、その余りのお金がこれだよ、と、青年に綺麗な紙の束と幾ばくかの小銭を握らせました。青年はその二つを手に掴んだまま、呆然として言葉を発することができません。母親の言葉を脳内でぐるぐると巡らせて、ようやくそれを了解すると、今度はふつふつと怒りが湧いてきました。あの絵は好きで描いていたのであって、始めから売り物にしようと思っていたわけではありません。ましてや自分の許可を得ているわけでもありません。口の上手い母親のことですから、画商から仕入れた驚くほど鮮やかな絵だなどと、口上を駆使して売りつけたのでしょう。
「…………」
 しかし、母親のあまりにも嬉しそうな様子と、テーブルに普段はない料理が並べられているのを見て、青年の怒りは水をかけられたように鎮まっていきました。絵で客の目を引くことで普段と代わり映えしない商品もよく売れたのかもしれません。さらに絵が売れたことで、青年の手元にも僅かながらお金があります。それは懐も気持ちも温かくなることでした。
「分かった。また描くから、市に持って行ってくれ。ただ持っていく前には言ってほしい」
 自分の絵でも売れるのならば、描くのは楽しい、金は手に入る、で良いこと尽くしじゃないか。
 青年がそう結論づけると、母親は「そりゃ、もう」と機嫌よさげに答えました。
 テーブルのところで、妹が豪勢な食事に胸をときめかせているのが見えました。青年がそちらへ向かうと、彼に気付いた妹が「お兄ちゃん、ありがとう」とふわりと笑います。大したことはしていない、と青年は照れ隠しも交えて、妹の頭を撫でました。


 青年の絵は、青年が思った以上に売れました。
 街の人に突然声をかけられて、「おい、兄ちゃん。兄ちゃんの絵をな、家に飾ったら家の中が一気に明るくなってな。貴族様の家みたいだよ」と語られることもしばしばでした。
 青年自身には実感がなかったのですが、青年の絵は市でちょっとした人気になっていたのでした。それは母親がそうであったように、その鮮やかさが理由でした。いつも曇っている国で、他のどこにも見られない色彩を、庶民がまるで貴族のように手に入れられるとあって、絵は市に出せばすぐ売れました。
 青年は不思議がりながらも、絵に描く題材を増やし、一枚の絵に取り入れる色の数をどんどん増やしていきました。母親はやがて絵に簡単な額をつけるようになりました。それに伴って絵の値段は少し上がりました。それでも絵を求める人は減るどころか寧ろ増えました。
 煙突に入ると全身が煤で黒くなり、絵が汚れてしまうことになることを恐れて、青年は以前ほど積極的に煙突掃除へ行かなくなりました。その仕事へ行かなくとも、代わりにずっと絵を描いていれば煙突掃除と同じくらいの、いやそれ以上の収入が得られるのでした。
 煤に塗れなくて良くなった青年の手足は、少しずつ黒さが薄れていきました。食卓に上る食事の品数は増え、絵で稼いだお金で服や道具を買うこともできるようになりました。青年は妹に、新しいワンピースを買ってやりました。それを着た妹は嬉しそうにはにかんで、青年の前でくるりと回って見せます。スカートの裾が花のように広がりました。
 青年は絵を描きました。描き続けました。一枚一枚の絵を違うものにしているとすぐに題材が尽きてしまうので、見た目に同じ絵を何枚も何枚も描きました。同じような絵を描いているのに飽きて、最後の方はいい加減に手を動かしていることもありました。それでも絵は売れるのですから不思議でした。
 何枚絵を描いても、クレヨンは一向に短くなる気配がありませんでした。青年はこれを魔法の道具だと考えるようになっていました。どれだけ使ったところで減らないし、これだけ鮮やかな色を持っているのです。青年は特別に信仰する宗教を持っているわけではありませんでしたが、この黒い国で貧しく暮らしていた自分たちを救うために、神様がクレヨンを与えてくれたのだと考えるようになっていました。
 

 青年は煙突掃除の仕事に行かなくなりました。絵を描くために絵を描きました。そしてそれは飛ぶように売れました。
 無味で乾燥した生活を少しだけでも豊かにしようと、多くの庶民が安い一枚の紙を買い求め、その絵を家に飾りました。一枚の絵に飽きてくると、色の違う、そしてさらに色数の多い、新しい絵を望みました。
 やがて絵の値段が上がり、色合いとしては華やかな絵が、庶民にとっては贅沢となった頃、普段は市には来ないような客層がぽつぽつと現れるようになりました。絵の噂を聞きつけた商人や貴族の使いの者が様子を伺いに来るようになってきていたのです。
 絵を市で売りさばいていた母親は強かでした。市で絵を売るときは、どの絵も同じ大きさで、値段も一定にしています。しかし画商や貴族を商売相手に出来るならば、相手の要望を聞いて、それに応じた絵を描いた方が利益が出るのではないかと考えたのです。大きな紙や、多少装飾の凝った額を購入する程度のお金は集まっていました。絵を描くための準備に多大な金額を使ってしまっても、その絵が売れれば元手は簡単に取り返せます。
「貴族様のお屋敷に絵が飾られるなんてね、凄いことだよ」 
 青年は母親の提案に頷き、そして笑いました。
 貴族の使いが家へやって来て、屋敷の調度品に相応しい絵について話をしていきました。青年が見たことも食べたこともない、果物や花の名前がいくつも出されました。青年はあたかもそれを知っているかのような、穏やかな顔をして話を聞きます。自分の先祖は誰も、こんな身分の高い人と仕事の話をすることがなかっただろうなと思うと、微笑みさえも浮かんでくるのでした。
 その数日後、青年は街の本屋へ行って、そこの辞書をあるだけ購入しました。料理の作り方の本や、植物の図鑑も買いました。どれもぶ厚い本ばかりです。青年の腕ではとうてい持ちきれそうになかったので、料金を追加で支払って家に届けてもらうことにしました。本屋の人も青年のことを知っていたので、お安い御用だと引き受けてくれました。
 そのあと、青年は服屋へと向かいます。定期的に開かれる市で声を張り上げて服を売っている店ではなくて、建物を一軒構えて常にやっている店でした。扉を押すと、からんからんと高らかに鈴が鳴りました。笑顔を貼り付けた店員に迎えられて、青年は礼服を注文し、妹への土産に、流行のワンピースを数着と帽子を買いました。
 貴族のために描く絵の代金が手に入ったら、引越し先の家を探そう。
 そんなことを考えながら、青年は色のない街をゆっくりと歩いていました。市から離れた、専門店の多い地域であっても、煉瓦造りの建物はどこか煤けて、薄汚れて見えました。青年はつい、この壁全部に絵を描いてやれば鮮やかになるのに、などと思ってしまいます。青年の生活は今や、食べることと寝ること、買い物をすること以外は、基本的にすべて描くことに充てられるようになっていました。
 様々なことをつらつらと思いながら煉瓦の壁に挟まれた路地裏を歩いていると、腰より低い位置に何かがぶつかりました。驚いて見れば年端も行かない子どもでした。とても店には入れてもらえなさそうな薄汚れた格好をしていて、手も足も痩せています。
 子どもは青年に当たったことに驚いたのか、何も言えずに立ちすくんでいました。その後ろから、さらに何人も子どもたちがやって来て、「おい、どうしたんだよ」と、先の子どもを呼びました。子ども達は性別も年齢もばらばらに見えましたが、皆一様に粗末な格好をしていました。そして、皆手にパンを握っていました。彼らの見た目からは想像できないような、乾燥させた果物の練りこんである、高級なパンでした。
 青年はすぐに悟りました。彼らは貧しい子どもたちで、手のパンは、そこらにある、貴族御用達のパン屋から盗んできたに違いありません。市で行商をする人間は自身も生活に必死なので盗みに目を光らせますが、安定した稼ぎのあるパン屋などは、少しくらい盗まれてもと、子どもに甘いところがあるのです。青年に出会い、咎められるのではないかと年長の子どもが焦る姿は、かつて自分が幼い頃にも見たことがあるものでした。 
 青年は微笑ましい気持ちになり、そして同時に、少し悲しくなりました。年長の子どもはもうちょっと成長すれば、煙突掃除といった仕事に追われるようになるのだということは目に見えていました。
 青年はおもむろにポケットへ手を入れて、少し屈むと、子どもの手へ小銭を落としました。それで少しでも贅沢すれば良いという意味を込めて、唇に弧を描きます。子どもは唐突に現れたお金に驚いたのか、ぺこりと頭を下げるとすぐさま走り去ってしまいました。
 満足した青年は家へ帰ることにしました。妹に新しい服を贈り、本の到着を待たねばなりません。
 青年は足を動かします。ふと何気なく顔を高く上げました。相変わらずこの国の空は分厚い鼠色をしています。青年は、以前は高い位置から見下ろしていた街の地面を歩き、狭い道から空を見上げていました。
 それでも青年は笑うことができました。
 先ほど小銭を恵んだ子どもが、その瞬間に「ひっ」と、唇の隙間から息を漏らしたのが不思議でした。あれは一体何だったのでしょう。少しの間逡巡して、それ以上は考えないことにしました。子どもの考えはもう、大人になってしまった青年には分かりません。
 かつて暗く濁っていた青年の目は今や爛々として、奇妙な光を放っていました。


 青年と母親、妹は引越しをしました。新居は、以前住んでいた地域より貴族街に近いところにあります。
 その貴族ですが、以前売った絵は部屋の中で浮き立って見えると大変に好評で、他の貴族からも続々と受注がありました。青年は一枚の絵に、黄色、橙色、桃色、空色、緑色、青色、赤色──黒を除く十一本すべてを用いました。ただ鮮やかに、色とりどりに描くことを第一義として、ひたすらに利き手を動かしました。
 青年の絵はらくがきに始まって、少しの贅沢を求める庶民に売れ、芸術に寛容であろうとする商人に売れ、自己を煌びやかに飾り立てようとする貴族に売れました。まるで階段を駆け上がっていくようでした。その階段は、非常に上ることが容易で、果てがないような気さえしていました。
 ある日、王様の使いがやってきました。青年は王様の姿を見たことがなければ、使いを見るのも初めてでした。使いは青年に言います。王城の塀に絵を描いてほしい、と。
 色のないこの国は、周辺をぐるりと塀で囲まれています。その中心にある城は、さらに塀を持っているのでした。この国は二重の塀を持っているのです。城を囲む塀の向こう側は、国民のほとんどにとってどのようなところか想像もできない世界でした。
 王様の使いが伝えた言葉は、依頼ではなく命令でした。それを置いても、青年は即座にそれを引き受けました。使いが驚くほどの即答でした。
 青年は誇らしかったのです。自分の絵がついに、王に認められるところまで来た。後世に残る絵を描くことを望まれたのだから、最高傑作を描いてやろう。
 そう意気込んで、青年は翌日からさっそく王城へ向かいました。煤で薄汚れて、塀は純白とは言いがたい色をしていました。王族と契約している掃除夫が定期的に清掃をしているはずなのに、こびりついた汚れは落ちることはないし、多少落ちてもすぐにまた汚れてしまうのでした。だからこそ王様はそれを鮮やかな絵で隠し、気にならないようにしようと考えたのでしょう。
 塀は大きな城をぐるりと囲んでいます。不埒な輩が進入できないよう、高さもかなりのものです。広い広いキャンバスを前にして、青年は腕を組みました。
 何を描こうか。世界のありとあらゆる果物。旅人も見たことがないような絶景。時間に合わせて、青、橙と色を変えていく空。
 この国で一番偉い存在である王様のご使命です。これは非常に名誉あることであり、下手なものを描くわけにはいきません。それにどうせ描くならば自分のこれまでの絵の中で、一番良いものを描きたいに決まっています。
 使いが提示した報酬金額は驚くほどのものでした。貴族とは違って題材の注文はありませんでした。塀は広いから何を描いても良いし、一年以内であれば、どれだけ時間をかけても良いと言われました。それから、他の画家を雇って手伝わせても良いと。
 青年は他の画家に手伝いを仰ぐつもりはありませんでした。そもそもが煙突掃除夫なので画家との交流はありませんでしたし、クレヨンを他人に握らせるのも嫌でした。これまでずっと鉛筆や墨でやってきた画家にクレヨンを渡せば、持ち逃げするに決まっています。彼らは青年の成功を妬ましく思っていることでしょう。
 青年は他の人間にみすみす成功を譲るようなことはしません。報酬のすべては自分が受け取るつもりでした。さらに、この仕事がうまくいけば、もしかしたら王様から爵位を貰えるかもしれないのです。それは有り得ない想像ではないと、青年は思っていました。
 そのため、すべてのことを一人でやらなければいけない青年は、毎日毎日、塀の周りをうろうろと歩き、何を描こうか思案しました。植物がほとんどないこの国には、やはり花が良いだろうか。いやいややはり瑞々しい果物が良いかもしれない。しかし、青空を王が掲げているというのも、権力の象徴という感じがする。考えがまとまらないまま、早三ヶ月が過ぎました。
 王様が依頼をしたということはすぐに広まって、貴族からの依頼はますます増えました。しかし、肝心の塀の絵をどうするか決まらないのです。青年は紙にクレヨンを殴りつけ、抽象画のような絵を描きました。それはそれは色とりどりな絵でした。そしてそれを放り投げるがごとく売りつけました。青年の名声でもって絵は高く売れました。
 青年は寝る間も惜しんで、塀に描く絵を考えました。ある日は机に向かい、ある日は塀の目の前にじっと座り込んで草案を捻り出そうとしました。しかしなかなか、これだ、というものが思い浮かばないのです。
 それでも時は無常に過ぎるもので、半年、九ヶ月はあっという間に過ぎ去っていきました。
 青年は高級なコートに身を包んで、白い息を吐きました。塀に手を触れれば驚くほど冷たく感じられました。
 さすがに何かを描き始めなければまずい。そう思い、青年はクレヨンの一本を手に取りました。約束の一年は迫ってきています。使いは心配そうな、あるいは胡乱げな目をしていましたし、結果として描けなかったとあれば王様からの信頼も失われるに違いありません。それはつまり、今やお得意様である貴族からの信頼も潰えるということであり、青年の終わりを意味しています。青年はもう、かつての煙突掃除夫の生活には戻れませんでした。
 青年は何とか果物を二つ三つ描くと、今度は何か花を描いた方が良いような気がして南の国に咲いているという花を描き始めました。大きな脚立を使っての作業でした。昔、毎日のように梯子を使っていたので高さに怖いと思うことはありません。
 そうしてまた時間をかけて、少しずつ少しずつ、青年は塀の隙間を埋めていきました。さまざまなものを描きました。思いつくまま、手当たり次第だと言っていいかもしれません。
 ある日、一息ついた青年が次は何を描こうかとぼんやり考えていると、背中の方で誰かの声が聞こえました。知らない声でした。
「あいつ、塀に絵なんか描いてるけどさ。他の画家、いや、子どもが描いた方がまだ良いものを描くよ。何だ、あのまとまりもない、絵とも言えないただの線──あんなのただの色の暴力だ」
「うん。まあ、あんたは言いすぎだと思うけどね。気持ちは分かるよ。毎日あの塀を見てるけど、決してうまくなんかない。寧ろ下手だ」
 それらの声は、言葉は、どこにでもいるような国民の一意見だったのかもしれません。
 あるいは、青年を妬んだ画家たちの誹謗中傷だったのかもしれません。
 普段ならば、描くことに熱中している青年の耳には届かないような言葉でした。それが今日に限っては届き、心臓の中心に突き刺さってしまったのでした。
 勘違いをしていたのだと、青年は気付きました。塀に手を当てて、ただ殴りつけたような線を見ました。その選択に何の意味も込められていない色の数々を見ました。実物に似ているのかも分からず、ぱっと見が似ていれば良いとさえ思っていた形を見ました。そうして、「色の暴力」という言葉が、すとんと腑に落ちてしまいました。否定の言葉は一語も出てきません。青年は、自分の絵が認められたのだと、褒め称えられているのだと思っていたのです。けれど今、持て囃されていたのは色に過ぎなかったのだと、そうとしか思えなくなりました。それはクレヨンさえあれば誰にでも描けるものなのです。寧ろ絵のうまい誰かの方が、きっとこの贈り物を正しく使いこなすでしょう。
 ゆっくりと振り返っても、発言の主は見つけられませんでした。
 青年は脚立から降りて、あらためて自分の絵を見ました。一度瞼を下ろして、この国における色の珍しさや鮮やかさというものを一旦全て忘れてみることにして、また目を開けました。上手いとは、感動的とは言えませんでした。稚拙で見苦しいとさえ思いました。
 青年は顔を真っ赤にして、拙いものだと気付いてしまった絵を消そうとしました。井戸へと走り、水を汲んで桶の中身をすべてぶちまけました。線はそのまま残っていました。近場の店へと走り、ひったくるようにしてデッキブラシを借りてきました。それで塀を強く強く擦りました。けれど、クレヨンで描いた線はまったく落ちませんでした。
「────あ」
 今まで何をしていたのだっけ。
 神様から貰ったクレヨンで絵を描いていた。絵を描くために絵を描いていた。お金のために絵を描いていた。自分のために絵を描いていた。
 これまでの自分の轍が、目の前の塀にありありと現れていました。それは水をかけてもブラシでこすっても、決して落ちることのないものでした。
 青年は眩暈を覚えて何も考えられなくなりました。
 そして、クレヨンの十二本の中の一本──黒色を手にとって、ただひたすらにこれまでの絵を塗りつぶしました。これまでの全てを黒で蹂躙しようとするかのような行動でした。青年は叫びながら、大声を上げながら、腕だけを動かし続けます。塀はどんどん、どんどん黒くなっていって、鮮やかさを塗りこめてしまいました。それでもクレヨンは磨り減らないのですから不思議でした。
 やがて青年は疲れきって、黒いクレヨンを握った手をだらりと落としました。磨耗した頭の片隅で、ただ王様との約束の期限が、あと少しは残っていることを改めて思い出しました。青年はひとまず家に帰ろうと思いました。何も考えずに、ただただ眠ろうと思いました。


 鳥の鳴き声が聞こえます。空が晴れていようと雨が降っていようと、変わらずに聞こえる美しい囀りです。
 青年は、長い長い眠りから覚めました。ゆっくりと瞼を上げて、あたたかくて軽い羽毛の布団を引き剥がし、足をベッドから落としました。眠りすぎたときに特有の気だるい感じが全身を襲っていて、どうしてこんなに長く寝ていたのだろうかと考えました。そうして、昨日の出来事を思い出しました。
 机へと目を遣れば、そこにはクレヨンが一揃い、箱にきちんと収まっていました。どれだけ前日の晩に疲れきっていても、錯乱していても、クレヨンは整然と箱に収まって机の上にあるのでした。
 青年はのろのろと起き上がり服を着替えました。酷い空腹を覚えたので朝食を食べに行くことにしました。
 食堂には妹がいて、食後の紅茶を味わっていました。妹は青年の姿を認めると髪に結わえたリボンをひらりと揺らし、
「お兄ちゃん、今日もお城へ行くのでしょう?」
 無邪気に尋ねます。青年は怯えたような顔をしましたが、
「…………ああ、うん」
 否定することが出来ずに頷きました。
 パンやスープ、他にも野菜や果物のある朝食は味が感じられず、口の中の水分だけが奪われていくような気がしました。
 憂鬱な気持ちを引きずったまま青年は城へと向かいます。昨日聞いた陰口がまた聞こえるのではないかと、別の人が他にも何か言ってはいないかと、ついつい嫌な想像が膨らみます。聞きたくないのに聞かなければならない気がしてつい神経が張り詰めました。
 心配は杞憂に終わり、心臓を揺さぶるような出来事は何も起きないまま青年は塀へと辿り着きました。青年は塀を直視することができませんでした。そのため地面をじっと見つめ、そろそろと首を上げて視線を前の方へと移していきました。
 そして塀を目にして青年は息を呑みました。
 そこには、脚立を中心として子どもたちがおり、その向こうに、うつくしい絵がありました。
 青年は昨日、これまでの絵を黒々と塗りつぶしましたし、クレヨンは今も手元にあるのですから、新しい絵は描きようがないはずです。しかしそこには黒を背景として、虹色の線で絵が描かれているのです。
 青年の絵と同じように、決して上手いとは言いがたい、地面にするらくがきのような絵でした。けれど、虹色の線はのびのびとしていて、描かれた街の様子は、見るものの心を温かくさせるところがありました。笑顔の子どもたちも描かれていて、はっとするうつくしさがありました。技巧に優れているというよりは、絵を描いた者の心に思いを馳せることのできるような内実を孕んでいたのです。
 青年は言葉を失いながら塀に近づいていきました。
 すると、脚立の周りにいた子どもの一人が青年に気付きました。
「おじさん!」
 いつか、小銭を恵んだ子どもでした。
「おじさん、これ、良いでしょう。おじさんが昨日塗りつぶしちゃったのを見て、どうにかしようと思って」
 くるくると喋る子どもの頭を、年長の子どもが慌てて押さえつけました。
「こら! だから怒られるって言っただろ! どうすんだよ!」
 自分の絵に手を加えられたことへの怒りが湧いてくることはなく、ただ、青年は目の前の虹色の絵がどのように描かれたのかということが気になっていました。青年が昨日黒く塗りつぶしたところの上に、虹色の線で絵が描かれているのです。クレヨンでは他の色の上にさらに色を重ねることが難しかったはずなのですが。青年の問いに、子どもが胸を張りました。
「あのね!」
 子ども達は皆、腕を高く上げました。手のひらには尖った石が握られていました。
「この石でね、黒いところをね、削ったんだよ! そしたら下のきれいなところが出てくるの!」
 子どもは青年に石を渡してくれました。青年は石を受け取って、尖った側を塀につけました。塀を引っかくと、がり、と音がして、クレヨンの黒色が削れました。青年がかつて塗った様々な色がそこに現れて、虹色の線に見えるのでした。
「ね、すごいでしょ!」
 子ども達は粗末で、薄汚れた、煤に塗れた格好をしていました。けれど、とても誇らしげで、楽しそうでした。
 青年はゆっくりと頷くと、頬からつと涙を流しました。顔を慌てて拭おうとして、石を持っていた手で触れてしまいます。顔が黒く汚れました。
「俺たちと同じ顔になってる!」
 それを見て子ども達が笑うので、つられて、青年も笑ってしまったのでした。


 昔々、あるところに色のない国がありました。
 ある時、その国に、とてもうつくしい塀が生まれて話題となりました。それはある男が、王様に頼まれて描いた絵でした。王様は大層感激して、男に爵位を与えようとしました。けれど、男はそれを丁重に断ったそうです。代わりに孤児院と学校の設立を求め、男は孤児院の院長となりました。それから子ども達や若者が無理をして働かなくて良いように、色々なことを新しく始めたそうです。人々は男を褒め称えました。
 昔々、あるところに色のない国がありました。
 今は、とても色鮮やかな国として、国民や訪れる者の目を楽しませているとのことです。 


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