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神さまの大晦



 一日ももう終わりかける時間帯の、ゆるゆるとした時間の流れ方が私は好きだ。特に今日は、一日の終わりどころか、一年の終わり。大晦日だ。昼間のうちに家族で家中の大掃除をしてしまい、今はめいめい穏やかな時間を過ごしている。
 母は台所で年越しそばを茹でている。手伝おうかと声をかけたら茹でるだけだから今は良いと言われた。父はソファに座ってテレビの前。おめでたい二色の歌合戦を見て、今流行のアーティストに首を傾げたりしている。兄夫婦は、一歳になったばかりの息子を寝かしつけに行ってから戻ってこない。一緒に寝てしまったのではないかと思う。それから弟は自室で勉強中。さっき差し入れに大量のみかんとあったかいお茶を持っていったらいたく感動された。
 私はというと、こたつに潜りこんでただぼんやりとしている。テレビの音がソファの向こう側から聞こえる。それを耳の端に捉えながら、どうでも良いことをつらつらと考えたり、この一年を振り返ったり、何にも考えないで天井にぶらさがるオレンジ色の明かりを見つめてみたりする。
 こたつの上には、大量の蜜柑と一冊のノート、筆箱、スマートフォン。四人は座れる広さのこたつだけれど、完全に私一人で占領してしまっている。
 延々と蜜柑を食べ続けながら(蜜柑とこたつの組み合わせには、足し算じゃない、かけ算以上の素晴らしさが満ちている)、時々ノートにらくがきをする。年が明けたらすぐ友人たちに年賀メールを送れるよう、ちょっと気が早いかもしれないけれど、メール本文も作成済みだ。やらなければいけないことは現状見つからない。
 現在時刻、二十二時半。私はこたつの板に覆いかぶさるようにして腕を伸ばした。年が明けるまでは起きているつもりだ。母の年越しそばもまだ食べていないし。身内贔屓だとは思うけれど、母の作る料理は何でも美味しいのだ。楽しみに待つ価値がある。
 それでも、数時間前には家族で食卓を囲んだばかりで。やっぱり少し眠いなあ、とこたつに伸ばした腕に頭を乗せる。こたつも暖房も部屋の空気を良い感じに暖めてくれているし、仕方ない。こうやって、何をしてもしなくても、寝たいときに寝ても良い生活が、私は好きだ。
 ゆるゆると訪れる睡魔に身を委ねるように、いつの間にか目を閉じていた。


「……ん」
 浴槽に浸かっているような心地良さと浮遊感からふっと覚めて、私は組んだ両腕の上で身じろぎした。右手の平をさ迷わせてスマートフォンを探す。本当に寝てしまっていたらしい。あまりにも長い間寝てしまっていたなら母が声をかけてくれていただろうと思うから、そこまで時間は経っていないはずだった。
 スマートフォンを探す指先に、こたつに並べたままだった蜜柑が、そして温もりをまとった何かが、当たった。もふっとした感触。
「手土産持参とは、多少は見所のある小娘である」
 聞き覚えのない低い声に、まだ目覚めきっていない頭を上げる。視界いっぱいに映ったのは、縦に三日月の入ったアーモンド形の目と、白と茶の模様のふわふわとした毛だった。
 わあ賢そうなにゃんこだなあ、と和んだが、うちは猫は飼っていない。私は犬より猫派だけれど、我が家はペット厳禁だ。ペットは旅行に行くときに連れていってやることができないから。温泉好きの家族は諦めるしかない。
 こたつの上を陣取る猫をまじまじと見る。三毛猫だ。もう子猫とは言えない大きさで、でも食べすぎでだるだるに太ってはいない。寧ろ艶やかな毛並みを持った、すらっとした猫だ。私はあの、太ってしまって常に憮然とした表情をしているように見えるでぶ猫も好きだ。
「ほう、動じぬとは珍しい」
 しなやかな体を伸ばしながら感嘆したように言う、その猫。いや、猫は喋らない。猫語や犬語は人間には分からない。だから「にゃんこの気持ち」なんていう雑誌が発売されるのだ。
 私は三毛猫の顔を見つめたまま、思わず猫を抱き寄せる。離れようとしたり暴れたりして抵抗しなかったので、思う存分その温もりを堪能させてもらった。喉元を撫でる。
 私が寝ている間に、父が連れてきてでもしたのだろうか? 大晦日くらいあたたかい屋内に入れてあげようと思ったのだろうか。そんな憶測をしながら猫の毛並みに顔を埋める。
「はあ……可愛い。癒される」
「くっ……やめろ小娘! 我輩をまふまふするのはやめろ! やめるのにゃ!」
 腕の中から照れたような焦るような声が聞こえる。おかしいな、いつのまにか私は猫語を理解できるようになったのだろうか。私の妄想である可能性もある。そう考えたものの温もりの誘惑に負けて、私はしばらくそのままでいた。完全に猫しか目に入っていなかったから、おそらく私はまだ寝ぼけていたのだろう。
「そろそろ猫を離してやってくれ」
 知らない声がまた一つ、増えた。肩に手を置かれて顔を上げると、そこには青年がいた。
「え、……えっ」
 慌てて腕を緩める。するとその隙間から猫がするりと抜け出て、こたつの上に着地した。
「あの、どちらさまでしょう」
 私はここで、このにゃんこが父に連れて来られてきた存在ではなく、夢の登場人物であると悟った。それから、傍らのこの青年も。
 青年が平安貴族のような白い衣装を身にまとっていた上に、白髪であったから。こんな容姿はたいていの日本人ではありえない。人工のものなら日本のとあるイベント会場に行けば見られるだろうけれど、目の前の白髪は天然だ。あまりにも自然すぎる。一瞬外国人かと思ったが、それでも顔立ちは見るからに日本人だった。
 青年はこちらの質問には答えず、こたつの上で優雅に、けれどどこか憮然として見える体で前足をなめている猫を見る。
「お前も何をやっているんだ。遅いから迎えに来てしまった」
 落ち着いた低い声で話す青年を覗き見る。見れば見るほど浮世離れしているように見える。青年の衣服は大河ドラマで見たようなものだった。平安時代という単語が脳裏を過ぎる。たしか、束帯というものだ。女性の十二単ほどではないにしろ、袴の上に単などの衣服をさらに重ねていて、かなりきっちりとした、重そうな格好だった。昔の衣装なんて他のものを並べられてもきっと違いが分からないけれど、これがこの人の正装なのだろうと思った。それでいて頭にはドラマで見たような烏帽子も冠もなく、透き通るような白髪がそのまま晒されていた。
 ……まあ、これが私の夢であるらしいことが分かったから、そんなに驚くこともなかった。今まで見たワニがサーカスで踊っているような夢や、宇宙人と火星旅行をした夢に比べれば、喋る猫や白髪の平安貴族はそう驚嘆するようなものではない。珍しいなあと興味は覚えたけれど。
 猫と青年が会話しているのを観察しながら、辺りを見回す。気がつけばこたつ以外のものが周囲から消え、桜色をした絨毯がどこまでも広がっていた。出所の分からない橙色の光が空間全体を照らしている。生活音が聞こえない。テレビの音も、台所で調理をする音も。代わりにエレベーターが移動しているときのような、聞こえるのか聞こえないのか分からないほど微かな音が周囲に拡散している。
 青年がこちらを見た。
「猫から説明は? ……何も?」
 私がすぐに首を横に振ると、彼は視線だけをにゃんこの方へと縫いとめた。猫が──これは猫だから当然と言えば当然なのかもしれないが──とても猫らしく、全身の体毛を波立たせてびくりと震えた。
 青年は軽く溜め息を吐いて、再びこちらに向き直った。ゆっくりと口を開く彼を見ながら、この夢が一体どういった方向に転がるのだろうと気持ちが静かに高揚するのを覚える。
「貴女を宴に客人として招かせてもらった。だが、堅苦しいものではないから楽しんでいってほしい」
「……宴? 何の、」
「ああ、そろそろ着く」
 まるでエレベーターに乗っているときのような浮遊感が全身を襲う。天井は見当たらないものの屋内であるだろう空間にひゅうっと風が吹き抜ける。
「いわゆる、神というやつのだ」
 猫が頭上を仰いで短く鳴いた。
 まるでそれを合図とするかのように、不意に周囲の鮮やかさが増し、音が沸きかえった。
 瞬きを繰り返して辺りを見回す。どこまでも広がっていた桜色の絨毯は、だだっ広く広がっているのではなく、所狭しの状態となっていた。
 ふと見ればこたつの天板が目を瞠るほどに大きくなっていて、四人用どころではない、見たこともないほど多人数用のものと化している。そしてその上には溢れんばかりの料理と酒瓶が並べられていた。
 そして、競うようにこたつに入り込み、あるいはこたつの周囲を囲み、絨毯の上に座り、談笑しているひとびと──ひとびと、だけではなかった。動物や、物と思しきものや、伝説でしか聞いたことのないような存在が、この広い空間中で語り合っていた。
 まず、和服を着た老若男女。女性の髪はさらりと長く流れていて、男性の中には髪を耳の横で結わえている人もいる。重ねた衣服は鮮やかで、その上に勾玉が下げられていたりする。白髪の青年の服装もその中では違和感を覚えない。
 それから古風な感じのする家具たちが、点在するように見受けられた。和箪笥や提灯など、ひどく使い古された感じのするものがほとんどだった。今にも金具が外れそうな、壊れてしまいそうな状態でありながら、それらはどこか艶めいているように見えた。じっと見つめていると、誰も触れていないのに箪笥の引き出しがかぱりと引き出されて、ひとりでに元に収まった。喋ったのだと、何の根拠もなくそう思った。あの家具たちは、傍らにいるひとびとの所有物ではなく、一つの存在として生きているのだ。
 談笑の輪の中で狐が跳ねる。またその向こうで、豪快に笑っている大きな影は、昔話で聞いた天狗にそっくりだった。それから、どこまであるのか分からないほど高い天井を、竜が泳いでいく。竜としか表現しようがない。まるで墨で一筆書きしたような、幽玄さを感じさせる竜が天井高くを悠々と泳いでいる。
「……神さまだ」
 自然にそんな言葉が零れ出た。
 ああ、全然平凡な夢ではなかった。これは、サーカスや宇宙人が出てくるものなんかより、よっぽど特別で、貴重な夢だ。 
「まあ多少に質問責めに合うかもしれないが──料理と酒もある。人間が摂取しても害はない」
 隣に立っていた青年は、屈んでからこたつの中に滑りこんだ。温かさに目を細めているのを見ると、途端に青年への親しみやすさが増したような気がしてくるから不思議だ。
「……はい、えっと、わかりました」
 辺りをゆっくりと見回す。こたつの上には大量の寿司や、綺麗に盛りつけられた刺身。野菜の沢山入った鍋や、おせちのお重も広げられている。それから一升瓶やおちょこがいくつもあって、それらをめいめいがつまんでいる。その様子は、親戚が一同に会しているときとなんら変わらない。
 めいめい、と括った集団の構成員が、親戚のように気軽に接していいものではないけれど。
 自分でも気づかぬうちにこたつの中で正座して腿の上に手を揃えていた。
「そんなに気負わなくていいのよ? お嬢さん」
 ふと気がつけば、白髪の青年が座っているのとは反対側に屈みこんだ女性の姿があった。艶やかな着物を見にまとい、額の上に鮮やかな宝石の埋め込まれた金色の冠を飾っている女性だった。
「ふふ、『招き』が連れてきた子が今年は可愛いおなごだと聞いて、来てしまったわ」
 言いながら女性は杯を渡してくる。朱色の杯に透き通った液体が入っている。多分日本酒だろう。私は何だか圧倒されてしまって、ただそれを両手で受け取って頭を下げることしかできなかった。
「そんなに恐縮しなくたっていいのよ……十月に話し足りなかったから集まる程度の、貴女たちの言うところの忘年会みたいなものだもの」
 女性が首を僅かに傾げて微笑む。冠の飾りがしゃらりと揺れた。その様子は美しく、妖艶ですらある。
 私は今神さまに気を遣われているのだなあと実感すると、余計に緊張してしまって、申し訳ないことに一言の返事すらできなかった。そんな私を見て女性は少し肩を落とすと、傍らに置いていた楽器へと細く白い手を伸ばした。
「それじゃあ、お近づきの印に演奏するわ。琵琶は聴いたことあって?」
「い、いいえ」
「そう。それなら酒の肴くらいにはなるといいわね」
 女性は手に持った弦楽器、琵琶を横に構え、バチで掻きならした。軽やかに音が弾む。一つ一つの音符が女性の手元で弾けて、女性を中心とした波紋のように広がっていくのが見えた。温かさを可視化したような、柔らかな色の波だ。
「弁天が演奏を披露してくれるのは貴重だ。光栄に思って良い」
 こたつに潜り込んだまま口を噤んでいた青年が、ぼそりと呟くように教えてくれた。青年はみかんに手を伸ばし、皮を向きながら付け加える。
「それから、弁天も言っていたが……そもそも、物凄く位の高い者はここにはあまり来ていない。気構えは不要だ」
 改めて女性を見ると、彼女は演奏の手を休めないままこちらを見て片目を瞑った。皆が皆私の気を解そうとしてくれているのだと思ったら、畏れ多さよりも、この神たちはどれだけお人好しなのだとおかしく思う気持ちが勝った。
 そうだ、ここは夢の中だ。だから全ての行為が許されるという訳ではないにせよ、夢だと自覚しているのに萎縮してしまってそれを楽しめないのは勿体ない。
「この私直々に招いたのだから、それに相応しい客人になってもらわねば困る」
 猫が満足げに喉を鳴らした。
 その様子を見つめていると完全に緊張の糸が切れてしまって、無性におかしくて、笑いを止められなくなった。
 笑い声が響いてしまったのか、今女性の演奏に気づいたのか、私たちの周りに神さまたちがぞろぞろと集まってきた。彼らは色んな姿をしていて、けれど誰もが楽しそうにしている。
「弁天、今年も演奏してくれんのかい」
「そこにいるのはもしかして人間か?」
「本当、今年は聞きたいことを一覧にしてきたんだよ」
 私と女性の周りが固められた。
「おお、娘の前にあれだ、すまあとほんという代物があるぞ!」
「今では誰しもが持っているというあれか!」
 わあわあと騒ぐ周りにどう返すか困って青年を見ると、青年は私のスマートフォンを興味深そうに覗き込んでいた。
「この認証というのはどう解くんだ」
「ああ、はい……」
 尋ねられるままにロックを解除すると、青年はそのまま指先で画面をスクロールさせ始めた。ついついっと動かして、アプリを起動させている。初めて使うようなのに上手いものだ。
「って、そうじゃなくて!」
 思わず大声をあげたものの周りの歓声に遮られた。そのうち私は、スマートフォンでは何ができるのかとか、日本の政治はなぜこうなのかだとか、帝は今何をしているのかとか、そういった質問の波に押しつぶされそうになってしまった。ぱしゃ、と隣からシャッター音が聞こえてきたのを見ると私のスマートフォンを構えた青年が感心した様子で画面を覗き込んでいた。
 宴と言うよりは忘年会、忘年会と言うよりはただの飲み会に近い集まりは、長々と続いた。橙色の空間では時間の流れが分からなかったから、どれだけの時間やっていたのかは分からないけれど。
 尽きることのないお酒に皆酔い潰れて、あらかたがこたつに体の半分を埋めて眠っていた。その様子は人間のそれと何ら変わらなかった。
「結局最後までいることになってしまったわね」
 女性が琵琶の手入れをしながら穏やかに言った。このひとだって相当量のお酒を飲んでいたはずなのに、全く酔った風には見えない。
「少しは楽しんでいってもらえたかしら」
「ええと、はい。とても」
 そう答えると、女性の唇が艶やかな三日月を描いた。
「そう、良かった。こちらも色々聞けて良かったわ。来年も来てもらいたいくらい」
 是非、と答えようとしたとき、突如強烈な眠気が私を襲った。おかしいな、そんな、お酒は飲んでいないのに。
「ふふ、それじゃあまた、ご縁があれば」
 楽しげな女性の声を最後に、私は緩やかな眠りに身を委ねた。 


「……ん」
 浴槽に浸かっているような心地良さと浮遊感からふっと覚めて、私は組んだ両腕の上で身じろぎした。右手の平をさ迷わせてスマートフォンを探す。本当に寝てしまっていたらしい。あまりにも長い間寝てしまっていたなら母が声をかけてくれていただろうと思うから、そこまで時間は経っていないはずだった。
 スマートフォンを掴む。画面を点灯させて、ロック画面のまま現在時刻を確認。予想に反して日付が変わってしまっていた。午前零時十二分。寝てしまっているうちに年が明けてしまったようだ。ああ、母の年越しそばを食べ損ねた。などとため息を吐く素振りをしてみる。 
 手の甲に張り付いていた額を起こす。どちらも長い間くっついていたせいで変に熱を帯びている。
 何気なく台所の方に首を向けると、丁度そこから出てきた母と目が合った。
「あら、起きたの。こたつでずっと寝ていたら風邪引くから、今起こそうとしたところだったんだけど」
「……明けましておめでとう」
「明けましておめでとう」
 まだうまく回っていない頭で新年の挨拶をする。
 一時間半と少し寝てしまっていたけれど、その間で見た夢は妙に密度の濃いものだった気がする。目覚めた直後から霧散し始める夢の記憶を繋ぎとめようと、目覚める前に掴んでいたはずの紐をたぐっていく。
 こたつの上に開いていたノートに思いつく限りのことを書いてみる。広い場所、大きいこたつに沢山の人。家具。偉そうなにゃんこに楽器の演奏。細かく思い出そうとすればするほど夢の残滓はさらさらと手のひらから零れ落ちていってしまう。それがもどかしい。
 母が私の名前を呼んだ。
「お正月だからって起きてないで、早く布団入りなさいよ」
 はあい、とそれに返事をしながら、年が明けてしまったのだから友人たちに年賀メールを送信してしまおうと思った。残念ながら夢に関してはもうこれ以上思い出せそうになかった。エネルギーを抑えるため画面が暗くなっていたスマートフォンを再び点ける。ついっと親指を動かしてロックを解除する。そうして画面を覗き込んで、そこに映っていた待ち受け画像に、思わず固まった。変えた覚えのないものがそこにあった。
「──これ、」
 いつの間に。
 そこにある自分と大勢の笑顔に、忘れかけていた夢の内容がまるで噴水のように湧き上がってくるのが分かった。


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