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突き刺さる白の向こうに



 陳列棚のはるか向こう側で、時計の長針が音もなく十二を指した。俺は締まりなく開けた口から思わずため息を漏らし、慌てて手の平で口元を覆う。しかし気の抜けた挙動を咎める視線はないことを思い出し、ゆっくりとレジカウンターにその手を下ろした。
 瞼を上げ下げしながら、蛍光灯に照らされたコンビニの店内を見渡す。現在、十時を回ったところだ。昼間ではなく、夜の十時。駅前でも住宅街でもない、こんな中途半端な場所にあるコンビニにお客はいない。
 店内の奥の、従業員専用の扉がゆっくりと開く。そこから姿を現したのは、どこかくたびれた風貌の、三十から四十代に見えるおっさんだ。俺と同じ、このコンビニを象徴する制服に身を包んでいるが、彼は店長なので俺とは格が違う。しかしそう考えたときに、店長なのに勤務前からくたびれた体だよなあ、といつも思わずにはいられない。
「お疲れさん」
「お疲れさまです」
 挨拶を返して、俺は店員だけが入ることを許されたレジの裏から出る。入れ替わりに店長が中へと入った。
「じゃあ俺、着替えてきますんで」
「おう」
 俺は菓子類が立ち並ぶ棚と棚の間を通って、先ほど店長が出てきた扉へ向かう。灰色の扉を押して中へ入り、ダンボールや清掃用具の脇をすり抜けてさらに奥に行く。
 自分用のロッカーを開けて椅子にしゃがみこんで、俺は一息ついた。あとは何も考えず、指先が慣れた動作で制服のボタンを外すのに任せる。
 眠い。十時までの勤務で本当に良かった、と思う。どうせ暇だからどの時間帯にシフトを入れても大丈夫だろうと高を括って夜勤を入れたりすることのなかった自分を、今更ながら褒めてみる。これからレジに立つ店長には悪いが、帰って布団にもぐりたかった。
 脱いだ制服を畳んでロッカーにしまいこみ、代わりに、フードにファーのついたダウンジャケットを着込む。さらにマフラーを首にぐるぐると巻きつけた。今日はろくな荷物は持ってきていないから、財布や携帯をポケットに収めて身支度は完了する。
 あたかもお客のような風貌に戻ってレジ前に帰ると、店長は何とも言えない表情をこちらに向けてきた。
「……お前、本当に今帰るのか?」
 その問いに、俺は何を言ってるんだ、という気持ちをありったけ込めて返事をする。
「帰りますよ。勤務も終わりましたし」
 少し威張った態度を見せてみたものの、その気持ちは店長の視線を追うとともにすぐ萎んだ。
 外からも見やすい、壁一面に張られたガラスの向こう側では、恐ろしいほどの雪が吹き荒れていた。
 絵の具でもなんでも、黒が強い。白も含めさまざまな色があるところに、ちょっと多めに黒を足してやるだけで、そこにはのっぺりとした黒が広がってしまう。
 それから、人間がどれだけ人工的な光を作ったって、暗がりに何かが潜んでいる気がして、闇にぞくりと震えを覚えることがある。
 基本的に闇は、黒は、白いものに打ち勝つ。分厚い布のように上から覆いかぶさって、飲み込んでしまう。
 しかし、今目に映っている世界は違った。夜の帳の下りた闇の世界を白が蹂躙しようとしているかのような、そんな荒々しい吹雪が見えた。
「……お前、本当に今帰るのか?」
 店長が大事なことだからと言わんばかりに同じ台詞を繰り返した。いや、実際大事なことなのだろうが。
「ちょっと辛いかもしれんが、ロッカールームで寝てけ。俺が明日の朝、車で送ってってやるから」
 つくづく良い人だ。俺このコンビニでバイトしてて良かった。同じコンビニでバイトをするにしても、この場所を選んで良かった。駅前からも住宅街からも遠くて客足も少ないが、店長は上司としても人としても最高だ。
 しかし店長の家は俺のアパートとまったく逆方向だった。この積もりに積もった雪を掻き分けなければいけないことも相まって、俺を送っていったら余計に帰りが遅くなってしまう。いっそうくたびれた店長の帰りを、奥さんとお子さんが待っているというのに。
 そしてここが一番肝要なところだろうが、俺は意地になっていた。どうやってでも帰路に着いて、もふもふの布団にダイブしてやろうという野望を捨てられずにいた。
「──いえ。店長の申し出はありがたいですけど、帰ります」
 お疲れさまでした。
 軽く頭を下げて、すっと上げると店長はひどく目を見開いていた。驚かせたのは自分の方なのに店長の気持ちが強く分かった。店長はそれから目を細めて、兵士を戦場に送り出すかのような目つきで遠くを見た。
「死ぬなよ」
 俺は手袋を履いて、店長に敬礼してみせた。店長は口の端から笑いをこぼしながら、
「よいお年を」
 そう言って会話を締めくくった。
 ああ、今日は年末、どころか大晦日だった。改めて思い出してしみじみとする。あと数時間で今年が終わってしまうのだ。一年が過ぎ去るのはあっという間だったが、このままでは更なる希薄さを伴って年が変わってしまう。尚のこと頑張って帰らなくてはならない。
 俺はダウンジャケットのフードを深く被り、決意とともに自動ドアをくぐった。滑り止めのついたスノトレで踏み出し、白い世界に第一歩を刻む。
 そして、 
「……信っじらんねえええええぇぇ!」
 叫んでいた。
 いや、実際には叫んではいない。
 暴力性さえ孕んだ風が進行方向から横向きに吹いてきているから、溢れる衝動を叫ぶために口など開けたらすぐさま大変な目に遭うこと必至だ。
 口は真一文字に引き結んで、梃子でもこじ開けられない気概で閉じる。尋常ではない厳しさの吹雪が俺を襲っていたが、心の中でもなかなかの暴風が吹き荒れていた。
 コンビニを出て五分、いや三分も経たないうちに後悔した。
 お客が来ないのも当たり前だ。こんな気候のときにわざわざ外に出ようなんて思わない。暖房の効いた居間で家族揃ってバラエティー番組でも見ているのが正解だ。
 意地やプライドなどこの際価値あるものでもなんでもない。コンビニに引き返して店長に頭を下げようとも思ったが、この雪ではそれすら困難に思われた。
 当たり前だが歩道なんてものはない。夏場は二車線、両側に歩道のある道が、積雪によって冬場はただの一本道となる。歩道は除雪車の回収の間に合わない雪が積み上げられ、押し固められて丘陵や山と化している。車道のアスファルトなんてものは春が本格的に訪れるまで拝めるものではない。これが気候の穏やかな日なら車の冬タイヤが作り出した轍をなぞればいいだけの話だが、雪が延々と降り積もるこんな夜中にはそうもいかない。誰も足を踏み入れていない、文字通りまっさらな道を、足を引きずるようにして進んでいく。浅瀬で足に絡みつく水を蹴り飛ばしながら歩くように、粉雪をかきわける。いくらパウダースノーだからといって軽いだろうとなめてはいけない。塵も積もれば重くなる。つまりはそういうことだ。
 フードを縁取るファーには雪がはりついて固まっている。動物の毛だろうがアクリル製の紛い物の毛だろうがそんなことはお構いなしに、毛先にくっついて俺の息で僅かに溶け、そして外気の冷たさで即座に凍る。
 氷のアーチの奥で俺は出来得る限り目を細める。口を開けないせいで息も苦しい。辛くなって少し口を開けて、飛び込んできた空気の温度に喉が悲鳴をあげる。
「寝るな、寝たら死ぬぞ……!」
 そんなことを一人で考えて意識を別の方向に持っていく。俺に悩みがあれば良かった、とそんなくだらないことをぼんやりとした頭で思う。悩みがあればそれに気をとられて気候など気にならなかったかもしれない。余計に頭が働かないからしょうもないことしか考えられなくて、さらにそれが思考を麻痺させる。ここで足を止めて前向きに倒れてしまえば、きっと大して痛くないだろう。つい先刻空で出来上がったばかりの雪が受け止めてくれるから、陸上グラウンドですっ転んだときのような悔しい思いは味わわないで済むはずだ。
 しかしここで誘惑に屈して膝を折ったりしないのは、ひとえに今、寒いからだった。いや、寒いなんて単純な言葉では言い表せない。秋も深まってきた頃に戯れのように口にするそれと、この状況を表す形容詞が同じであっていいはずはない。
 前方から飛んでくる雪が矢のようだ。肌が無防備に晒されている顔を刺す。冷気がフードから肩にかけてのしかかってずるずると下まで這っていき、浸透していく。
 耳が痛い。きっと鏡を見たら真っ赤に染まっているはずだ。羞恥心に顔が火照っているときも赤くなるというのに、その全く逆の状況でも同じ色になるというのは何だかおかしなことのような気がする。もしかしたらこれ以上の気温に出くわしたら千切れてしまうのではないだろうかなどと考える。
 そういえば気温は何度なのか、マイナス十度できくのだろうか。風もあるからもっと低いかもしれない。バイトに出てくる前に天気予報を確認するのを忘れていた。
 ついでに言うなら現在時刻も分からなかった。歩き始めて十分は経過したはずだ。夏場ならコンビニと自宅を十分で歩いていけるが冬はそうもいかない。
 気温も時刻も携帯電話を出せば確認できる。しかし手を動かしてポケットから携帯を取り出すのも手袋を外して画面を明るくするのも難儀だった。
 風が少し収まった。雪が重力にしたがって落下を始める。それでも冷え切った体が急速に回復するということはない。
 いや、冷たいなんて段階はとうに通り過ぎている。しばれるという言葉を始めに使ったのは一体どこの誰だろう。冷たいでも寒いでも足りない、なら「しばれる」だ、と最初にその原型となるだろう言葉を口にした人がひどく偉大に思える。
 寒さは空気を研いでいく。荒んだ心を抱えた狼のようだった吹雪はいつの間にか止んで、静かさの裏に凶器をちらつかせる。真冬の深夜の空気はナイフに似ている。
 ただただ足を運び続けた。深く降り積もって厚みを帯びた雪の前では、足を運ぶなんて高尚な動作はできていなかったかもしれない。
 そうして橙色の電灯の照らす先に、俺はようやく見慣れたアパートを見た。やっとの思いで辿り着き、玄関ポーチでフードを落として全身から雪を払う。ファーのところは凍りついてしまって落ちないからストーブの横で乾かさなければ。
 つま先を固い床に叩きつけて足裏の雪も剥がす。ようやく一息ついて、俺はアパートの中に入り階段を上った。踊り場を一度経由してすぐ二階があり、左手が俺の部屋だ。
 扉の取っ手を支えとするかのようにすがりつき、もう片方の手で鍵を探す。手袋を履いていてもかじかんだ指先がなかなか鍵を捉えられない。しかしそこで、鍵を見つける前に、下げた取っ手に何の引っかかりもないことに気がついた。ためしに引っ張ってみると扉はすんなりと開いた。
 家を出るときに鍵を閉め忘れただろうか。まさか、ここで空き巣に入られていたら俺のライフはゼロになる。
 若干の警戒心とともに靴から踵を浮かしたとき、居間兼私室に通じる扉が開くのが見えた。
「──あ、やっぱり! お帰り、なさい」
 一瞬何が起きたのか分からなかったが、瞬きを繰り返して現状を把握した。廊下というほどの長さもない廊下を進んで現れた彼女が、いつものように笑んでいた。タートルネックのセーターとピンク色のロングスカートに身を包んでいる。足元は兎を模したルームシューズで固められていた。この間、気に入ったものを見つけたと言ってここに持ってきていたやつだ。
「……ただいま」
 彼女につられて返事をする。靴を脱いで、居間に向かいながら先を行く彼女の声をぼんやりと聞く。
「もしかして歩いて帰ってきたの? 吹雪信じられないくらいひどかったよね……うわあ、ものすごく冷えてる!」
 まずお風呂! お風呂入りなよ、勝手に沸かしてるから!
 焦る彼女の風呂という言葉に俺の意識も解凍されて、ふるふると頭を振る。居間はストーブが入って暖かかった。室内灯の橙色がかった明かりにぼんやりと照らされた部屋の中を、ストーブに暖められた空気が巡っていく。ようやくゆっくりと息を吐いた。
「どうしてここに? 年末は帰省するって言ってたよな?」
 取りやめる事情でもあったのか、と問うと彼女は緩やかに首を傾けた。
「ううん。一応、合鍵使うねって電話とメールしたんだけど、見れなかったみたいだね」
 はっとしてダウンジャケットのポケットに手を伸ばすと、まるで冷蔵庫保存されていたかのような携帯が盛んに点滅していた。
「ごめん。気づかなかった」
「ううん」
 彼女はまた首を振る。
「遅くまでバイト入れて、そのあと誰とも会う予定ないって言ってたでしょ。それは寂しいと思ったから」
 親には断り入れて、こっちに居ることにしたの。
 そう言って彼女はふわりと笑う。
「勝手に上がりこんで、自分の家みたいに使ってごめんね」
「そんなの」
 今さらだろ、と言いかけた言葉がなぜか喉につっかかる。
 そんな俺の様子には気づかず、彼女が俺の両手を自分の手で包む。あまりにも冷え切っているのでどうやら驚いたらしい、
「これ生きてる人間の温度じゃないよ! お風呂、お風呂沸いてるから入ってきて!」
 俺を引っ張って浴室へと連れて行こうとする。
「分かった分かった、自分で行けるから」
 正直なところ、風呂が沸いているというのは有難い。バイトから帰っても家には誰もいないと、ストーブをつけるのも風呂を沸かすのも全部一から自分でやらなければならないと思っていたから。
「入ってくるよ」
 礼を言うと、彼女は満足げに俺の手を離した。微かだが温もりが指先に残っている。
「あがったら、あったかい飲み物……ううん、年越し蕎麦作るから」
 ちらりと壁の時計に目を遣るともうすぐ十一時になろうとしていた。
「今年は一緒に、年越せるね」
 そんな台詞とともに嬉しそうに笑ってくれる彼女に頷いて、かじかむ手で身に着けていたものを取っ払って浴槽に身を沈めた。はあ、と息を吐く。肩までお湯に浸かって目を閉じる。暖かさが擦り切れた心に満ちていくのを、遠くから聞こえる彼女の歌声をぼんやりと聞きながら感じていた。


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