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ある春の日、今是昨非する天使の話



 空は今にも泣きそうな表情のまま、先刻からずっと押し黙っていた。
 白い翼を持つ少女は窓硝子に右手を当て、視線を空に据えたきり動かない。手の平に冷気が吸いつき、じわじわと腕をはい上がってくる。それに耐え切れなくなったかのように、少女はやがてぽつりと呟いた。

「ふりそうでふらないね、雪」
「……ああ、降るにせよもうそろそろ雨に変わるんじゃないか?」

 黒い翼を持つ少年が顔を上げた。手にしていた本を音を立てて閉じ、立ち上がって少女に並ぶ。

「雨? ……そっか、冬がおわるのか」
「そう、すぐに春が来るさ」

 少女は硝子から手を離し、冷えたそれで口を覆って息を吐きかけた。指の隙間から漏れた息で硝子が不透明に染まる。少年はその様子を眺めた後、手を伸ばして少女の手を引き寄せた。少女は目を見開いたが、何も言うことなく静かに表情を崩した。

「春になったら、あたたかくなるね」
「ああ、色んなところに行けると思う。ルタが今まで見たこともないようなものを見に行くことも……ルタ、桜って見たことあるか?」
「サクラ?」
「ああ、桃色の小さな花で、木に咲くんだけど、すごい綺麗なんだ。リィが花見をしようって言い出してさ、オレとリィとラグで行ったことがある」

 目をしばたたかせる少女に、少年は続ける。

「花見っていうのは、食べ物とかを持って桜を見に行くことだよ。花を見ながら食事するんだ」
「……行ってみたい。リィとラグもいっしょに」

 少年は短い言葉を返して、再び窓の外を眺める。遠方、横たわる雲の向こう側が黒く塗り潰されている。少年は顔をさらに窓に近づけた。

「……ロウ、わたしね、神さまってさみしがりやだったんじゃないかっておもうの」

 脈絡もなく、空を見つめたまま少女は言った。

「え?」

 思いもかけない台詞に少年は振り向く。けれど少女は顔を動かさなかった。

「さみしかった。だから自分ににせてわたしたちを作った」
「……ルタ」
「だけど水にうつる自分を見たって、さみしさはまぎれないでしょう?」

 少女はその瞳に少年を映し、静かに笑んだ。少年はどことなくその身を強張らせて、何の言葉を返すこともできずにいた。そのままただ幾許かの時が無意味に流れ、少女が気だるげに体を傾けたのを見て、少年は我に帰る。

「ルタ、疲れただろ? 先に寝ろよ、明日も早いし」
「……うん、そうだね」

 少女は部屋の奥へと踵を返し、積まれてあった毛布に身を包んだ。群青色の毛布から白い翼だけが覗く。

「それじゃあ、ロウ、おやすみなさい」
「お休み、ルタ」

 目を閉じて、少女はすぐに動かなくなる。その寝顔を見つめ、昔からそうだ、と少年は思う。昔から、ルタは眠っている時ぴくりとも動かない。まるで全ての機能を停止させているみたいに。
 少年は部屋の入り口に置いていた小さな鞄を広い、その口を開けた。中から筒のような物を取り出し、それを持って外へと向かう。
 視界が開けた瞬間、凍てつく風が少年を突き刺そうと襲いかかってきた。暦の上ではとうに春が到来していてもおかしくはないのに、風は依然として厳しさを見せつける。

「っ、寒……」

 体に沁みこもうとする寒さを振り切るように、少年は右腕を投げた。手の中の筒の収納されていた部分が現れて、それは少年の背丈ほどの槍となる。その槍を地に立て、今度は懐から何かを取り出した。紫色の小さな石が一つ埋め込まれた輪である。それを左腕にするりと通すと、石は一度だけ瞬いた。
 そして少年は、ろくな助走もせずに浮き立った。それから数秒も経たぬうちに、元居た場所からは遥かに離れた位置まで移動する。黒い翼を動かしてそこに滞空しながら、前方をきっと睨みつけた。
 何かが勢い良く、少年の方に近づいてくる。霧のような煙のような、黒い塊だった。固体でないことは見て取れるにも関わらず、向こう側を垣間見ることは叶わない。塊は布のように広がって少年の視界を塞ぎ、頭上を覆って少年を飲み込もうとする。勢い良く、しかし同時にじわじわと。それは少年の左羽に吸い付こうとし、瞬間、ぼっと蒸発するような音を立てて消えうせた。
 霧散した黒い塊の中から、少年が姿を見せる。

「はっ……その程度で神の槍≠ノ敵うと思うなんて百年早いんだよ」

 少年は吐き捨てるようにそう言って、再び槍を黒い塊に向けた。学習することのない黒い塊は、何度も何度も少年に襲いかかっては槍の切っ先に貫かれ、残滓をまた未練がましく少年に向けた。少年が槍を振り回して宙を切る音と、黒い塊の蒸発音だけが辺りに落ちていく。

 しばらく後、少年の左腕で輪の石が光った。腕に通された時よりも鈍い、網膜にそれを焼き付けようとするかのような瞬きだった。それを視界の隅で捉えて、少年は槍を下ろす。

「ああ……そろそろ、やばいか」

 先ほどまであんなに冷たいと感じていた風も、散々動き回った後では火照った体を冷ます足しにもならない。肩で息をし額に汗を流しながら、少年は地上へと降り立った。

「やっぱ左羽、重いな……」

 少年は呟いて、少女の眠るもとへと歩き出す。槍の柄を軽く捻って幾つかの部品に分解し、再び小さな筒へと戻した。部屋の入り口まで辿りつき、右手に収まったそれを見つめる。

「神様は寂しがりや、か」

 俯いたままそう口にした少年の表情は、誰にも捉えることができなかった。
 厚い雲と雲の間に生まれた隙間を風が潜り抜け、煌く光を一心に浴びる。それはそう遠くない春の到来を予感させた。


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