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青い薔薇の咲く庭園で



 風が優しくそよいでいる。伸ばした指先に陽射しが暖かい。木陰にいるにはまだ寒いようだけれど、日向にいれば快適に過ごすことができる。こんな日には何よりも、香りの良い紅茶を片手に写生でもするのが相応しい。
 少女はそんなことを考えながら、生い茂る低木の裏にしゃがみこんで身を縮こまらせていた。立てた膝と胸の隙間には竹籠を入れて固定している。籠の中には料理長得意の焼菓子と、持ち運び用の茶器に紅茶、少女が物心着いた頃から持ち運んでいる写生帳が入っていた。それらを何かから隠すようにして前に強く抱え込んだまま、少女はしばし動きを止める。
 正直なところ楽な態勢だとは言えない。けれど昼下がりを優雅に穏やかに過ごすためには、しばらくの間我慢も必要だ。
「……さま。お嬢さま、どちらですか」
 ──ああ、やっぱり、来た。さっき抜け出したときに視線を感じたからそうかとは思ったけれど、やっぱりばれていたんだわ。
 そう思いながら少女は少し空を仰いだ。
 予想が的中したことに対する高揚が半分、失望が半分。茂みをかきわける音が近づいてくるのを感じながら、少女は鼓動とともに漏れ出ていきそうな感情を押さえ込もうと口を塞ぐ。
 落とした視線の少し先を、爪先が過ぎて行くのが見えた。少女はほうと、安堵の息を零す。
 それから心の内で五十数え、足音がもう耳に届かないことを確認する。そろそろ大丈夫だろうと強張った足を緩めたその直後に、
「お嬢さま、見つけましたぞ」
 低い声が上から降ってきた。
「……爺や。どうして」
 いるはずのない相手にやや呆然としながら問う少女に、その老執事は手を差しのべた。少女はその手をとり、立ち上がって衣服の裾を掃う。
「どうしても何も、そんな香りのする紅茶を持ったお嬢さまを、見つけられぬわけがありません」
 執事はさも当然という風に説明し、少女から受けとった籠を示して見せた。
「それに」
 執事は皴の刻まれた顔に柔和な笑みを浮かべる。
「お嬢さまが診察のたびにお屋敷を逃げ出してこの庭園へと逃げ出すのは、もう何度目のことか分かりませぬゆえ」
「……だって、嫌なんだもの」
 まるで年端も行かぬ子どものような言い訳だと、自覚しながら少女は目を逸らす。
「嫌だ嫌だとばかり言っていっても、ちっとも良くなりませんぞ」
 旦那さまと奥方さまを、そう困らせるものではありません。執事は静かにそう口にする。
「診察を受けたって、別に良くなるわけじゃないでしょう」
 少女は執事の方へ顔を向けられないまま反論した。
「そうかもしれません。けれどそれは受けてみないことには分かりません」
「……、私、爺やのそういうところが好きじゃないわ」
「お嬢さまが診察をお受けになるなら、嫌いで結構にございます」
「……嫌いにはなれないって、知ってるくせに」
 少女が生まれる前から屋敷に仕えているという執事は、彼女にとって実の祖父に等しかった。仕事で忙しい父以上に少女に構ってくれた執事は、なくてはならない。居ないことなど信じられない存在である。
 少女が幼い頃は、どれだけ我侭を言っても騒いでも、執事は軽く窘める程度で決して怒ることがなかった。執事が傍目に分かるほど気分を害した姿を、少女は今だに見たことがない。そうやって彼があまりにも怒らないものだから、少女は癇癪を起こすことで物事を思い通りにしようとした自分が恥ずかしくなって、幾分大人の考え方を身につけたものだ。
「それでも診察に行くのだけは、絶対に嫌」
 けれど少女にも譲れない一面というものがあった。このまま執事を振り切って再び逃げ出してしまおうかとも考えるが、快適な午後を約束する籠が執事の手に握られている以上そう簡単にそんなことはできず、せめて言い分を並べ立てることで対抗しようとする。
「同じような検査を延々と繰り返して、一体何の役に立つって言うの? それなら私はもっと有益なことに時間を使いたいの。爺や、お父さまに伝えてちょうだい。診察は大人になったらいずれ受けるから、今日のところはお引き取り願いますって」
 少女が生まれてから早十数年、口だけは達者に成長した彼女を、執事は見つめ直して嘆息した。
「……分かりました。旦那さまにお伝えしてきますが──お嬢さま。来月の診察こそは、絶対に受けなさいませ。必ず。この老いぼれとの約束ですぞ」
 何度も念を押す執事に少女は頷いて、手を伸ばして籠を受け取る。執事はそれから踵を返して館へと向かった。
 勝った! と拳を握ろうとした少女を、まるで見ていたかのような頃合いで執事が振り返る。少女は恐る恐る腕を下ろした。
「……行った、かしら」
 自分のお目付け役が去ったのを今度こそ目でしっかりと確認し、少女は呟く。
 手に提げていた籠を一度下ろし、衣服を再び手で掃う。先ほどは見つかるのを恐れてつい屈んでしまったが、洗っても落ちないような泥でもつけた日には女中に何を言われるか分からない。
「大丈夫、ついてないわよね?」  飾りのついた布を掬い上げ、少女は衣服に草が残っていないか確認する。やがて満足げに頷き、籠を再び取り上げて周囲を見回した。
 執事には見つかってしまったものの、何とか説得――説得と呼んでも差し支えないはずだ――することができた。最大の難所を越えたからには、手早く行動しなければならない。執事が父に何て話をするのか分かったものではないし、自分の要求が受け入れられる保証なんてどこにもない。最悪の場合、女中総出で探されることもあり得るのだ。
「悪いことを考えたらきりがないわ」
 少女は割り切ったようにそう言って、茂みに隠れるのはもう止めようと決めた。時間は限られているのだから、辛い姿勢を保ったまま無為に過ごすよりも、堂々として好きな場所で過ごす方が良いに決まっている。

 右手に提げた籠を揺らしながら、少女はお気に入りの場所へと向かう。それは広い庭園の奥まった場所にひっそりとある。
「……着いた」
 少女は小さく息を吐いて、そこにあった長椅子に腰を下ろした。木板を組み合わせ仮漆を塗っただけの簡素な作りで、背もたれがついている。その背もたれに深く背中を預けてから、少女は手にしていた籠を隣に置いた。籠にかけられていた薄い布を膝に敷いて、籠の中から茶器を取り出す。
 紅茶は猫舌である少女が眉間を寄せる必要のない程度に冷めていた。香りの強い紅茶を舌の上で転がして、ゆっくりと嚥下する。
 残った紅茶は座った横に置いて、写生帳を膝に載せた。ぱらぱらと捲り何も書き込まれていない頁を開く。それからゆっくりと、一本の鉛筆を唇に当てながら、少女は正面に視線を向けた。
 少女の座っている場所は、執事が少女のために作り上げた場所だった。一つだけ置かれた長椅子からは、数々の薔薇を眺めることができる。手前の花壇には小さめの薔薇が直立していて、奥に見える屋敷の壁もまた別の薔薇に覆われている。すべて執事が植え、育てているものだ。この一画だけは弄らないよう庭師にも頼み込んでいる。それが通るのは執事がこれまで積み重ねてきた信頼のおかげだろう。
 少女はここで絵を描くのが好きだった。さわさわと揺れる葉の音を耳にしながら、咲き誇る薔薇のどれかを描くのが好きだった。丁寧に丁寧に、ただひたすらに輪郭を一本の鉛筆で引く。題材はいつも「薔薇」だったが、一口に薔薇といっても品種によって形が違ったり、ましてや同じ品種でも花びらのつき方や枝の伸び方が一本一本異なる。少女が写生に飽きることはなかった。
 執事から勝ち取った平穏を、少女は今日もお気に入りの場所で、落ち着いた時間に充てる。本来ならば屋敷内で不本意な診察を受けているはずだったのだから、この時間は焼菓子を噛み締めるように、自覚を持って有効に使わなければならない。
 立ち上る紅茶の香りがふわりと柔らかい。
 胸いっぱいにその香りを吸い込んで、少女は鉛筆を動かし始めた。

 紅茶の入っていた器がとうに冷めた頃、少女は陽の翳りに気がついて頭上を仰いだ。集中している間は意識しなかったが、気温も下がってきている。この時期、昼間はいいが陽が落ちてくると少し肌寒い。少女は腕を組んで身を縮こまらせた。
「うう、急いで戻らなくちゃ」
 腕をさすりながら呟く。外気にさらされることを拒む両手の平を鼓舞して、長椅子の上に放置されていた茶器をしまい込む。
 かちゃかちゃと音を立てながら、茶器は籠の中に行儀良く収まった。少女はささやかな満足を覚え、次いで膝の上の写生帳を掲げる。
 数時間前には何もなかったその頁には、一面に薔薇が描かれていた。画材はたった一本の鉛筆であったが、少女の集中が込められたその絵には本物の薔薇を切り取って置いたのとはまた違う美しさがあった。
 写生帳の中には、絵だけでなく小さな文字が書き込まれていた。右側の一輪の輪郭に沿って、いくつかの言葉が並んでいる。
 花びらを囲むように、「愛、乙女、秘密」。そこからするりと葉の方へと下って、「希望あり」。葉の根元に添えるように、「不幸中の幸い」。
 顔を近づけなければ読み取れないような小さな字が紙の上にあった。
 少女が写生帳を見つめていると、
「お嬢さま」
 散る花びらのようにそっと静かな、けれど相手をはっとさせるような存在感を伴った声が、少女を呼んだ。掲げた写生帳を後ろから覗き込むようにして、執事が長椅子の傍らに立っていた。
「おや。またお上手になりましたね」
 執事は少女の描いた花をじっと見つめ、目を細める。
「……ほんと?」
「ええ」
 少女は破顔した。少女にとって、執事からの賛辞が何よりも嬉しかった。執事は少女の絵を純粋に喜んでくれるからだ。たった一本の鉛筆で書き上げた絵の数々を見せると、両親は愛娘が画の才能に秀でていることを喜び褒めそやしながらも、その瞳の奥にどこか悲しそうな影をちらつかせるのである。
「お嬢さま。そろそろ夕食ですし、戻りましょう」
 執事が長椅子の上から籠を取り上げる。
「そうね」
 少女も写生帳を握り締めたまま立ち上がる。口角を上げたまま執事の隣に並び、暖かいであろう屋敷に向かって歩き出した。

 昼間、屋敷を逃げ出してきたことなど、完全に忘れていた。絵を描くことに熱中してしまって、自分でも納得のいくものを書き上げることができて、充実した時間を過ごせたことに満ち足りた気分を覚えていたせいで、すっかり忘れていたのだ。
「──、」
 夕食の席で、広めの食卓に少女、子爵、夫人の家族が揃っていた。料理人がいつものように丹精込めて作り上げた食事を静かに堪能し、皿の上のものがあらかたなくなって、口元を拭った子爵が少女を呼んだ。
「はい」
 少女はゆっくりと、やや強張った返事をする。席についたときには自分が我侭を無理やり通したことを思い出していた。その先に父が言うであろう台詞を幾通りか想定して、それぞれにどのように答えを返すか考える。どう答えても言い訳にしかならないのは分かっていた。
「勿論お前も分かっていると思うが、今日の診察を放り出したね」
「……はい」
「嫌なのは私も分かる。私も若い頃は数年に一度の健康診断ですら嫌だったからな」
 淡々とした口調でそんなことを言う子爵に、
「私が貴方に出会ったのも逃げ出した日でしたね」
 流れを見守っていた夫人が、口元を押さえて微笑みながら言う。
「ああ、そういえばそうだったな」
「あら、もしかして忘れてらしたのかしら?」
「そんなことはない。実は隠していたが、今年の記念日には特別なことをやろうと計画もしていたよ」
「まあ……」
 気のせいか花の香りと鈴のような華やかな音色が漂い始めた部屋に、一つ、気まずげな咳払いが落とされた。部屋の隅に、女中と共に控えていた執事のものである。子爵と夫人は瞬きを一つして、ようやく状況を思い出したようで目つきを改めた。
「嫌でも受けなければならないのは、分かっているね?」
「分かって、るわ」
「前にも伝えたけれど、最終的な決断はお前に任せるつもりだ。ただ診察だけは、きちんと受ける。そういう約束だったね?」
 先生ももう若くはないのだから、ここに来るのだって大変なんだ。
 子爵は少女を視界に捉えながら言う。
「……ごめんなさい」
 子爵は深く反省している様子の少女をそれ以上追及することはなかった。
 それ以降は親子、夫婦の穏やかな会話が広げられ、夕食の時間はつつがなく終わりを迎えた。

 ***

 その日は朝から憂鬱な気分だった。
 少女は重い体を起こしひどく時間をかけて服を着替えた。覗き込んだ鏡に映っているのはお世辞にも可愛らしい娘の姿だとは言えなかった。どこか血の気が引いていて、無理やり口角を上げてみても目が笑っていない。
 普段より起床の遅い少女を心配してやってきた女中に、気分が悪いから朝食はとらないと伝える。
「……えっ、お具合が悪いのですか、お嬢さま」
「いいえ、心配しなくても大丈夫よ。……例のごとく緊張しているだけ。お父さまとお母さまに伝えてもらえるかしら」
「分かりました。紅茶だけお持ちしましょうか?」
「ええ、ありがとう」
 少女は女中に礼を言って革椅子に沈み込む。瞼を下ろして、肺の中身を押し出すように深くゆっくりと息を吐く。
 今日は少女の診察の日であった。かなり昔からこの屋敷に健康診断に来ている医者が、今日も訪れることになっている。その医者は老執事と同じくらい穏やかな人柄であったため少女は彼を嫌いではなかったが、しかし、診察自体が昔から変わらず嫌だった。
 医者は長年の経験もあって、少女の不調を、変化を、ぴたりと見つける。加えて、決して少女を子ども扱いしない。医者は少女に現状を、そして今後起こりうることをきっちりと伝える。
 それは少女の矜持を保つと同時に、現実を目の前に突きつけることでもあった。
 瞼を押し上げて、少女は傍らの台へと手を伸ばした。写生帳を手に取ってぱらぱらと捲る。何も描かれていないのは最後の一枚だけになっていた。
 最後の一枚は、今日の診察が終わったら描こう。
 楽しみを残しておいて少しでも前向きになれるよう決意する。
 ちょうどそのとき部屋の扉が叩かれ、女中が紅茶を持ってきてくれた。それをゆっくりと飲み終えた頃、医者の来訪が知らされた。もう少し遅く来てくれても構わなかったのにと思わず考える。
 ひどくゆっくりとした歩調で客室に向かう。医者はとうに準備を終えて少女を待っていた。その表情は少女の記憶の中のそれと同様に穏やかで優しげだった。
 少女は視線を絨毯に落として、拳を握る。
「……前回は、せっかく来てくださったのに、ごめんなさい」
 前回の診察の際、嫌だと思って屋敷を抜け出したことに後悔はない。執事に語った心情に嘘偽りはなかった。ただ、それによって人に迷惑をかけたことは自分でも分かっていた。
 医者は少女を詰るでも諌めるでもなく、ただ頷いた。
 そのまま医者の前に用意された椅子に座るよう言われ、少女はおとなしくそこに収まる。
 最早恒例となった検査を何種類か行い、医者の質問に少女が答えて一通りの診察が終了する。不安げな眼差しで医者を見つめ続ける少女に対し、医者は「ううむ」と一声漏らした。腕を組んで少しばかり黙ったあと、部屋の隅に控えていた女中に声をかける。
「君、悪いが夫人を呼んできてくれんかの」
 少女と女中が同時に両目を見開き、しかし女中はすぐさま平静を取り戻して優雅に一礼した。そのまま女中は部屋を出て行く。ぱたぱたと靴が絨毯を蹴る音だけが残された。
「先生、」
 少女が疑問に満ちた声音で問いかけても、医者は夫人がやってくるまで何も語るつもりはないようだった。もどかしさが募る。
 やがて夫人が衣服の裾をはためかせながら現れた。落ち着かなさげにしている少女の肩に手を置き、女中が用意した椅子に腰掛ける。
「先生、私にもお聞かせしたいお話とは?」
「わざわざ夫人にもご足労願ったのは、夫人も聞いてくれた方が良いと思ったからなんじゃが……」
 前置いて、そこで医者は一度言葉を切る。
「お嬢さまの症状は、悪化しているようじゃな」
 夫人ではなく少女を見据える。すっと伸びた視線に晒された少女の肩がびくりと震えた。
「症状が始めに出たのは、三歳のときに高熱を出したあと……だったかの。以来少しずつ悪化してきていたようじゃが、最近はその進行が早まってきておる。このまま放置しておれば、取り返しのつかないことになるとわしは思う。その前に、できるだけ早く手術を勧める」
「手術……ですか」
 夫人がぽつりと呟くように返した。
「……ただ、わしに手術をする技量はない。知り合いに──ここの執事の方が親しかったとは思うんじゃが、遠方に住む医者の知り合いに心当たりがあっての」
「そのお医者さまの腕は確かなのですか?」
「うん、わしの聞くところではしっかりした医者らしい。年はわしより二周り以上若いらしいが、技術はあるそうだ」
「それでは手術の成功確率は?」
 意外にも淡々と夫人は医者に質問を重ねていく。自分の母はもっと取り乱すのではないかと少女は勝手に想像していた。
 む、と医者の口が止まる。
「低いのですか?」
 夫人が追求すると、医者は頭を振った。
「そういうわけではない……。ただ、お嬢さまの症状はあまりにも珍しい。その医者が今まで似たような症状に対応したことはないんじゃ。手術をしなければ症状は悪化し続けて、取り返しのつかないことになるじゃろう。失敗した場合……同じことが、手術をしたその日に起こるかもしれない。更に別の症状が加わるかもしれない。そうではないとはわしには言い切れない」
「……ああ、」
 そういうことですか、と夫人が頷く。それから他にもいくつかの質問をして、夫人は少女の様子を窺った。
「他に、貴方から聞きたいことはあるかしら?」
 少女の頭の中でひたすらに渦巻いていた疑問のほとんどは既に夫人が尋ねてくれていた。自分から聞きたいことは特にないと答えたいのに舌が張り付いたかのように動かなかった。口の中から水分が一切抜け切ってしまったようだった。おかしいな、先ほど紅茶を飲んだばかりなのに。違和感を覚えながら代わりに首を振ろうとして、それもまた固定されてしまったかのように強張って動かないことに気がつく。
 夫人に名前を呼ばれて、はっと気がつくと医者と夫人の両方がこちらを見つめていた。
「……、」
 あ、と口を開くがやはり声は出ない。
 医者と夫人が顔を見合わせるのが歯がゆかったが、それでうまく発言できるようになるわけでもなく、瞳を泳がせているうちに医者が気遣わしげに口を開いた。
「明日急遽、という話でもない。お嬢さまから連絡を貰ったら、わしはその医者に連絡をとってこちらに向かってもらうことにしよう。それで良いかね?」
「ええ」
 少女の代わりに夫人が答える。
 それを区切りとして、その日の診察は終了ということになった。夫人の手と、女中の見守る視線に支えられながら少女は自室へと戻った。
 扉の取っ手に手をかけた夫人は、すぐさま取っ手を捻ることなく少女を振り返る。
「お父様の話は、覚えているわね。最終的な判断は貴方に任せるという」
 その言葉で先日の公爵の台詞が脳裏に甦る。相変わらず表には鈍い反応しか表せなかったが、少女の目の奥を見ることで夫人には伝わったようだった。
「貴方の人生だから、貴方の好きなように決めなさい。その過程で悩むなら、私でも誰でも、貴方の信頼できる人に相談すること」
 夫人はいつものように静かに微笑んだ。
 そしてようやく少女はゆっくりと、首を縦に振ることができた。
 自室に入り後ろ手で扉を閉める。ふらつく足取りで、革椅子ではなく寝台へと向かう。前のめりに倒れるようにしてそこに全身を預ける。
「……ふ、」
 こみ上げる感情が自然と喉を上ってきた。塞き止められていた水が溢れかえるように、途端に声が流れ出て止まらなくなる。
 手術のことは、別に今日初めて聞く話ではなかった。医者も以前に可能性としてあげてはいたし、いずれは直接聞くことになるだろうと覚悟を決めたつもりでもいた。それがなぜこんなにも衝撃を受けているのか、少女自身にも分からなかった。
「……っ」
 普段は皺になるから、女中に余計な迷惑をかけるからと衣服に気を遣うのだが、今はそんなことを思い出すこともなかった。少女は寝台の上で体を丸める。
 止めどなく流れていく涙を拭うこともなく、少女は感情に身を任せた。
 やがて時間の経過が曖昧になり、気がつけば悲しみの泉に飲み込まれてしまっていたのか、いつの間にか眠ってしまっていた。
 その日二度目の、自室の扉が叩かれる音で少女は目を覚ました。なぜ自分が寝台にいるのか一瞬分からなくなって、それまでの経緯を思い出し、眠ることでも気持ちが収まってはいないことを知る。先刻までは液体だった悲しみが気体に変わり空気中を漂っているような、それだけのことだった。
 少女が寝台の上で動けずにいると、再び扉が叩かれる。控えめに三回、間を置いてもう一度三回。
 寝台から足を落として、扉へと移動する。少女が緩慢とも言える動作で扉を開くと、安心感のある声と顔が姿を見せた。
「お嬢さま」
 執事である。連続して三回叩く合図は、執事と少女の間の暗号のようなものだった。
「爺や、」
 思わず縋るように、飛びつくように昔からの名前を呼ぶと、執事は何もかも分かっているという風に微笑んでみせる。そのまま手を引かれて革椅子に座らされた。
 執事はその隣には座らず、傍らに佇んでいるだけだった。台の上に置いてある写生帳に目を留め、何か思案するように目を細めてみせた。
「お嬢さま。お嬢さまは、薔薇と言えば何色だと思いますか」
 それから執事の一挙一動を眺めていた少女に尋ねる。
「……、色……?」
 少女が困惑と動揺を滲ませた声音で聞き返した。
「色です」
「……あか」
 少女は初めて口にする単語のように不安定にそう言って、
「赤、かしら」
 再度同じ言葉を繰り返した。
「それでは、赤い薔薇の主な花言葉は?」
「……情熱、愛情、貴方を愛します」
「そうです。それでは他に思いつく薔薇の色は?」
「……黄色……」
「その花言葉は?」
「貴方に恋します、友情、薄らぐ愛、くらいかしら……」
「嫉妬、不貞などもそうですね。他の色はありますか?」
「白……花言葉は、心からの尊敬、純潔、私は貴方に相応しい」
 執事と少女の問答は続く。少女の返答は少しずつ流暢になっていった。少女が橙色と桃色の薔薇の花言葉をあげて、応酬はひと段落した。
「……爺や。どうして、薔薇の花言葉なんて聞くの?」
「最近年のせいか忘れものが酷くなりましてな。確認をしたかったのです」
 とぼけるように答えて、執事はいっそう柔らかく微笑む。そして続けた。
「お嬢さま、それでは青色の薔薇の花言葉はご存知ですか?」
「……、」
 徐々に輝きを取り戻し始めていた少女の目が再び曇った。執事は急かすことなく、気長に返事を待つ。
「……ないわ」
「無い?」
「花言葉はある……けれど、青い薔薇自体が存在しないもの」
 ほう、とまるで初めて聞く話のように短い相槌。
「青い薔薇の花言葉は、不可能、よ」
 一句一句を区切るようにそう言って、少女は革椅子に深く沈みこんだ。ひどい疲れが見てとれた。
 沈黙が降りた。執事はそれ以上薔薇について追求することはしなかった。
「──爺や」
 だるさが読み取れる声で少女が言った。
「爺やは、手術を受けるべきだと思う?」
 ぽつりと言って、しかし執事の言葉を待つことなく続ける。
「情けないけど、……こんな年にもなって情けないけど、私は怖いわ。爺やの、先生の信頼のおけるお医者さまなのでしょう。知ってるわ。二人が信頼しているだけで私も信頼できそうな気がしてくるの。それでも、それでもやっぱり、怖い」
 やはり少女は執事の返答を待たない。そして執事もまた、口を開かない。
「三歳のときに高熱を出して、それからこの症状は始まったのよね。そんなこと、私覚えてないわ。気がついたら私はこうだった。寧ろひどくなっていった。この年になるまでずっと、ずっと……。私にとっては、生まれたときからこうだったようなものだわ。それなのに、それを今さら……たった一回で治るものなの? 失敗したらどうなるの? 成功するという自信だって、実際やってみてどうなるかには関係ないでしょう。手術なんて、」
「お嬢さま」
 遮るようにして、静かに、けれど確固たる意思をもって執事は言った。
「言葉は、気持ちは、力を持っているのです。以前お話した、姫にかけられた魔法の話を覚えておりますか」
 それは、おとぎ話が好きな子どもなら誰もが知っているような話である。
 大層可愛らしい容姿で生まれた姫はちょうど三歳の誕生日に、それを妬んだ魔女に、魔法を──呪いをかけられてしまう。心から笑うことができなくなる呪いだ。
 それを受けてしまった姫は、美しく成長して、隣国の王子との結婚が決まっても心から笑うことができず、大切な姫を魔女の目の前に晒してしまった王と妃も心苦しさからずっと笑うことができない。心から笑わない王族のもとでは、国民も本当に笑うことがない。声を立てて笑っていても、唇が綺麗な三日月を描いていても、目の奥がどうしても笑っていないのだ。
 隣国の王子は姫のために奔走し、魔女を倒し、呪いを解いてみせた。しかし呪いが解けたにも関わらず、姫は笑顔を浮かべられない。ひどく狼狽する姫に、王子は言う。
「貴方がかけられたのは、貴方を縛る言葉の魔法ですか。魔女の魔力の籠もった魔法ですか」
 言葉の魔法なら、貴方はきっと打ち克つことができるでしょう。貴方は心から笑うことができるはずだ。
 姫は長い間自分を縛ってきた魔女の言葉よりも、王子の言葉を信じることに決めた。そしてそれを決めるとともに、心の奥底にずっと溜まっていたもやのようなものが取り払われるのを感じた。
「王子さま、私はきちんと笑えているでしょうか」
 そう言った姫は、朝露を浴びた花のように美しく、穏やかに微笑んでいた。
 そうして姫と王子は幸せに暮らしました、というありふれた一文で物語は終わる。
 幼い少女にこのおとぎ話を語った執事は、そのあと言葉と気持ちの魔法について少女に教えてくれたのである。  その話を思い出して、少女は少し押し黙る。しかしそれでも、今の少女を鎮めるには不十分なようだった。再び口を開こうとする。 「納得いきませぬか。証拠なら、──」  執事は言いかけ、ふと口をつぐむ。目に疑問の色を浮かべた少女に微笑みかけ、閉じた口を開けた。
「お嬢さま。私が休日何をしているか、ご存知でしょうか」
 脈絡もなくそんなことを言い、少女が答えるのを待たず続ける。
「もちろん薔薇庭園造りもそうなのですが、独学ながら医学も学んでおりまして」
 突然の話に、少女が僅かに怪訝な表情を見せる。
「もしかしたら今回のお嬢さまの治療の話に、私も加わらせていただくことになるやもしれません。……お嬢さま、この老いぼれの力を信じてみてはくれませぬか。私のことが信じられないならせめて、信じたいという、お嬢さま自身の気持ちを信じてはくれませぬか」
 執事はにこやかな笑みを少女に向けた。少女は今にも泣き出しそうな表情になって、口を横に引き結んで答えない。
「……爺やももう歳なのにそんなことをするなんて、もうちょっと自分のことを労わりなさい」
 やがてぽつりと、呟くように少女は言った。
「これはこれは、私が自分で労らなくともお嬢様が労ってくださるから、殊更自分でする必要は感じないのです」
 執事は楽しげに声を立てた。

 ***

 風が優しくそよいでいる。伸ばした指先に陽射しが暖かい。暑いと言っても差し支えないかもしれないほどだ。直射日光はやや強いようだけれど、木陰にいれば快適に過ごすことができる。こんな日には何よりも、香りの良い紅茶を片手に写生でもするのが相応しい。
「写生日和ですね」
 少女の考えを悟ったかのように、後ろで執事がそう言った。
「そうね」
 前方を向いたまま少女も言う。
 少女の手には何も握られていない。手のひらが少し汗をかいているようで湿っている。
 大丈夫よ、と舌の上で言葉を転がしてそのまま飲み込む。その言葉が消化されて全身に行き渡ればいいと思った。
 車輪が土の上で回る音が絶えず耳に届いている。屋敷の中でいるときとは違って不安定な足元を、執事は丁寧に見極めてくれる。そのおかげで大きな揺れもない。
 少女は執事の押す車椅子に乗って、庭園の中を押されていた。
「もう少しで着く?」
「ええ、あと少しで」
 庭園の様子を執事が報告してくれる。
 本当は夫人や公爵、そして女中たちも一緒であるはずだったのだが、少女が頼みこんで執事と二人にしてもらったのだった。その我侭について、執事は何も言わなかった。
 少女は車椅子の上に座って、両手を膝の上で揃えている。焼菓子や茶器といった馴染みのものは全て執事が用意してくれていた。
 からからから、と車輪の音が小さく響く。
「着きましたよ、お嬢さま」
 やがて丁寧な手つきで執事が車椅子を止めた。
「本当?」
「ええ」
「私は……私は、楽しみにしていいのよね。期待していいのよね」
「ええ」
 少女は恐る恐るといった体で、膝の上で組んでいた手を額の方へと持っていく。焦りのせいか、思うように手が動かない。
 執事が手を差し伸べ、後ろから少女の髪に触れた。
 はらり、と音もなく、少女の顔の上半分を、鼻から上を覆っていた布がほどける。
「お嬢さま」
 取れましたよ、という執事の声に合わせ、少女はゆっくりと瞼を上げた。目を開ける。
「…………、」
 唇を僅かに震わせただけで、少女は何も口にしなかった。幾ばくかの時がそのまま流れる。
 さすがの執事も不安に駆られ、少女に声をかけようと体の向きを変える。そこで目にしたのはただただ涙を零す少女の姿だった。執事も言葉を失う。
「……、……ありがとう」
 少女はようやくその一言だけを言葉にする。執事は持ってきていた荷物の中から、写生帳を取り出して捲った。最後の一頁が白紙である。それを無言で少女に手渡した。少女は写生帳に涙を落とさぬよう気をつけながらも、視線を目の前から離さなかった。
 少女の目の前に広がっているのは、執事が植え、育て、少女がずっと描き続けていた薔薇である。花壇に植えられている小さめのものや壁を覆っているものなど、執事にきちんと管理されていたそれらの美しさはずっと変わっていない。
「薔薇……、青かった、のね」
 少女はそれだけを口にした。
 手前に植えられている薔薇は、見事なまでに青かった。空の色とはまた違う、瑞々しさと高貴さを湛えた青色だった。
 他にも植えられた品種は、赤色や黄色、白色など、少女の覚えている限りの様々な色を身にまとって、誇らしげに咲いていた。
 少女の目に映る世界はとても鮮やかで、艶やかで、彩りゆたかだった。
「お嬢さま」
 執事は荷物の中から、薄い箱を取り出した。平たく、随分と大きな箱である。
「これは、旦那さまと奥方さまからです」
 少女はゆっくりと箱の蓋をとる。そこには数え切れぬほどの鉛筆が、一本一本違う色をして、すらりと収まっていた。
「……っ」
 いっそう涙が湧いてくるのを少女は感じた。自分の中にこれほどの水分が含まれていたとは知らなかった。
 滲んだ視界は、それでも鮮やかさを失ってはおらず、寧ろ輝いているように見えた。


 公爵家の住む屋敷は外観の荘重さもさることながら、庭園の華やかさも素晴らしかった。庭師が丁寧に手入れしている庭園の一角には、長い間仕える執事の管理する花壇もあった。
 今の時期は残念ながら、それらの美しい花を拝むことはできない。しかしその代わりに客人たちの目を楽しませているものがあった。
 屋敷に入ってすぐ目につく位置に飾ってある、大きな絵画である。たいていの客人はここでほう、と声を漏らす。
「これは見事ですね。どこの絵師に描かせたのですか」
「いえいえ、これは娘が描いたのです。昔から絵を描くのが好きで」
 公爵と夫人は、慎ましやかに、けれど誇りを感じさせる声音でそう語る。
 絵画には絵の具を大胆に、鮮やかに使って、薔薇が描かれている。鮮やかに咲き誇るその青い薔薇の傍らには、「奇跡」と小さな、しかし確かな言葉が添えられていた。


 青い薔薇の咲く庭園で、了


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