home - unclear

ふたりぼっち




「兄ちゃん」
 背中にかけられた小さな声に、立ち止まることなく少年は一本道を突き進んでいた。辺り一帯は田んぼであり、砂利と土でできた舗装のない道には目立った明かりもない。空が曇っているせいもあり陽の落ちた今は薄暗く、目を凝らさなければ爪先の石に気がつくことも難しい。
「兄ちゃん」
 前を行く背中を追う弟が、再度兄を呼んだ。
「つかれたよ……おなかもすいたし」
 かえろうよ。そういって弟は足を止める。砂利と靴の立てる音が一つ消えた。兄から返事はない。弟の唇は不満げに突き出され、腕は気だるげに落とされていたが、再び言葉を紡ごうとして、振り返った兄の顔にびくりと両目を見開いた。
「帰りたいなら、おまえだけ帰ってろ」
 兄は意地に満ちた声音でそう返して、半ズボンから伸びる足を動かすのを止めなかった。
 弟は泣き出しそうな顔をする。しかしすぐにきっと口を真一文字に引き結ぶと、小走りに駆け出して兄の横に並んだ。
 兄弟はけして速いとはいえない速度で、道をただひたすらに歩いていく。二人を取り巻く景色は、等間隔に植えられた苗の広がる田んぼのまま変わったようには思えない。
「にいちゃん、どこまでいくの」
 弟の質問に、兄はズボンのポケットへと手を伸ばした。布地の上から叩く。金属の触れ合う音がした。その音に安心したように眉尻を下げて、兄は口を開いた。
「とりあえず駅に行って、それから、行けるとこまで」
「いけるとこまで?」
「うん」
 どちらからともなく兄弟は手を繋いだ。電灯などほとんどない道では影を判別することも難しい。前を見ても後ろを見ても、他の人どころか車一台見かけなかった。
「……母さんは」
 脈絡もなく兄が呟いた。弟は兄の顔を見上げ、しかし何も言わなかった。
「あんなふうに、おばあちゃんに泣きついている母さんは、きらいだ」
 目を瞬かせる弟の横で、続ける。
「父さんも父さんだ。だけど、──」
 そこまで口にして兄は、浮かされていた熱を放出したかのように静かになって息を呑んだ。弟に目を向け、それから繋いでいた手を強く握り直した。
 兄弟の目の前には暗闇が広がっていた。かと言って後ろで光が輝いているかというとそういうわけでもなかった。唇の隙間から零れ出た息だけが音もなく拡散していく。兄弟はまるで自分たちがこの世で二人きりになってしまったような気がした。
「……、にいちゃん」
 弟の小さな声は、耳をしっかりと傾けて聞いていなければ、薄闇に塗り込められてどこかへ消えていってしまいそうだった。
「かえろうよ」
 先ほどと同じ言葉を繰り返し、兄の手を引く。
 兄は一瞬呆けたように弟の顔を見て、それから小さく頷いた。
 二人は先ほど来た道を、同じように手を繋いで戻っていく。

 ***

「ただ今、っと」
「お帰り」
 独り言のように呟いた言葉に返事があったことに驚いて、青年は目を瞠った。この時間帯には珍しく居間の電気が点いている。短い廊下を抜けて居間に顔を突っ込むなり、青年はソファに沈み込んでいる弟に声をかけた。
「今日は帰り早いんだな」
「うん、早く終わったんだ。夜ご飯作っといた」
「助かる」
 弟はどうやらテレビのバラエティー番組を見ていたようだった。普段ならば自分が先に帰宅して夕食を作り、テレビを見ながら弟を迎えるものなのに、と兄はやや不思議な気分でその姿を見る。
「……えっと、にい……兄貴」
「うん?」
 背広を脱ぎつつ自室へと向かいかけていたが、弟に呼び止められて立ち止まる。首だけを後ろに回して振り返ると弟が存外真面目な顔つきをしていたので、動かす手を止めてそちらへと向き直った。
「明日って、帰り遅い? 暇?」
「社会人に暇とか聞くなよ……いやまあ、予定は特段入ってないな」
 兄は苦笑しながら、話の続きを待つ。
「あのさ、明日、兄貴に会ってもらいたいひとが、いるんだけど……ここに連れてきてもいい」
 歯切れの悪そうに言う弟に、兄はニ三度瞬きをする。
「会ってもらいたいひと? ……彼女か?」
 黙って頷く弟に、
「うっわあリア充爆発し──じゃなくて、いつから付き合ってる?」
「えっと、そろそろ四年……?」
「四年ってお前高校のときからじゃねぇか! 何年兄弟で二人暮ししてると思ってんだ!」
 対して兄は強く声を張り上げた。
「ごめん」
「いや謝ることじゃないけどさあ……」
 はああ、とどこか悔しげな声音と共に天井を仰ぎ見る兄。
「……まあ」
 そうしてゆっくりと視線を戻して、弟を見据えた。
「家族が増えるってのは、良いことだな」
「兄貴、気が早すぎる」
 二人の兄弟の顔には、揃って穏やかな、満ち足りた表情が浮かんでいた。


「一から十のお題」(提供元:追憶の苑さま)


inserted by FC2 system