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たったひとつの




 彼女が僕の名前を呼んだ。
「何でしょうか」
 彼女から一歩控えた状態で、僕は答える。純白のドレスに身を包んだ彼女は、窓硝子に手を添えて外の様子を眺めていた。
 外は騒がしい。浮かれた民衆たちが日も暮れる前から酒を片手に、宴を繰り広げている。姫さま万歳、国王さま万歳。誰かがそう叫んで、誰もがつられて歓声をあげる。真っ白な花が宙に投げられた。
「何でもないわ」
 彼女は後ろ姿を見せたまま言う。露出の少ない上品なドレスに、複雑に結いあげた髪。今日はさらけ出された首が細く、白い。
 幾許か後、彼女は再び僕の名を呼んだ。
「はい」
「貴方、魔法を使えるでしょう」
「……多少は」
 彼女が何を言わんとしているのか、既に僕には分かっていた。
 彼女は、姫さまは今日、隣国の王子のもとへ嫁いでいく。愛する人のためにではなく、愛する国のために。民の愛する美しい花嫁は、この国に繁栄と平和を約束する。どんよりと暗い戦争の噂は取り払われ、その空白は華やかな祝賀とそれに便乗した浮かれ騒ぎで埋められる。
「一つ、頼みがあるのだけれど」
 何でしょう、とは返さなかった。返せなかった。代わりに僕は、これ以上ないほど無情な言葉を突き付ける。
「申し訳ありませんが、お受けできません」
 彼女のたった一つの願いを、僕は叶えてあげられない。他の願いなら何だって、現実にしてあげようと思うのに。
「そうよね。いえ、冗談で言ってみただけよ」
「はい。姫さま、そろそろ出立のお時間でございます」
「ええ」
 言葉では頷いたものの、彼女は振り返ろうとしなかった。
 こちらからは彼女の顔が見えない。しかし、表情は見てとれた。素晴らしき門出の日に彼女が爽やかな気持ちでいられるよう、侍女が熱心に磨き上げた硝子に彼女の顔が映り込んでいた。
 音もなく泣く彼女の肩を、僕はもう叩いてやることができない。
 控えめに扉が叩かれた。彼女が乗る馬車の用意が終わり、侍女が彼女を迎えに来たらしい。
「姫さま」
 促すと、ようやく彼女が動く気配が感じられた。僕は深い礼をすることで、彼女の顔を見ることを避けた。
 僕は貴方のたった一つの願いも叶えてやれないけれど、代わりに王子が沢山の願いを叶えてくれるでしょう。
「どうか、お元気で」


「一から十のお題」(提供元:追憶の苑さま)


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