ある秋の日、梧桐一葉した天使の話
乾いた大地を、二つの人影が歩いていた。その二つの影はただひたすらに、南へ向かって歩いていた。
「ロウ」
後ろを行く影が口を開いた。白い翼を持つ少女だった。
「目的地まで、あと……どれくらいかな」
少女の前の背中に問いかけて、空を仰いだ。
声をかけられた、黒い翼を持つ少年は、肩にかけた鞄から古ぼけた地図を取り出し、表面を指でなぞる。
「この感じだと、あと赤い月と青い月が二回入れ替わるくらいかかるかなあ」
指折り数える少年に、
「ごめんね、ロウ」
少女が静かに言葉を零す。
「わたしがとべないからいつまでたっても着かない……ロウはとぶのが速いから、ロウ一人だったらもう南に着いているはずなのに」
「そんなこと気にしてたのか?」
「……だって」
少年は地図から顔をあげ、笑い飛ばすようにした。
「俺がルタと一緒にいたいから一緒にいるの。それにそんなに綺麗な羽を持ってるんだから、ルタもいつか飛べるさ」
そうかな、と少女は答えて自身の白い翼を見遣る。少女の翼は少年のそれとは対照的で、雪のように白い。
「ああ。あ、今日はもう少し行ったところの林で野宿しよう。あとちょっと行ったら入り口が見えてくるはずだ」
「うん」
そんな遣り取りをした後も二人は歩き続け、そして林に辿り着いた。
日は既に落ちていて、特に何もすることなくそのまま休息をとることにした。
「俺はいつものように日記書いてから寝るからさ。お休み、ルタ」
「……うん。お休みなさい、ロウ」
少女は木の幹に体をもたれかけさせたまま、瞼を下ろす。狭まっていく視界に、それでも少年は最後まで移り続けていた。それに安心感を覚えた少女は襲ってくる眠気に身を委ねようとする。
それから少女は体力が果てたかのように、一分も動かず目を閉じていた。少女の常だ。
しかし幾ばくも経たないうちに、少女はうっすらと瞼をあげて、音を立てぬよう気を払いながら立ち上がった。
「……ロウ」
唇が音にならない言葉を紡ぐ。
少女から目の届く範囲に少年の姿はなかった。もしかしたら視線をさまよわせているうちに少年が戻ってくるかもしれないと、少女はしばらく佇んだままいたがその気配は感じられない。
目を凝らしていた甲斐あって、少女は低く生える草の隙間に黒い羽を一枚見つけた。拾いあげる。
これが少年のものであることは間違いない。断言できた。少年と少女が幼い頃から知己の仲であるのに加えて、かれこれ季節が二つ過ぎる間行動を共にしているのだから。
少女が寄りかかっていた木から見て、その羽のあった方角に進めば少年に近づけるだろう。少なくとも真逆の方角に進むことはないはずだ。
少女はそう見当をつけて、羽を手に持ったまま歩き出した。
自身が眠っているときに少年が姿を消したことに関して、少女は焦りや不安を感じていなかった。今までにもこういったことが繰り返されていたのを少女は知っている。おそらく少年は気づかれているとは思ってもいないだろう。それだけ少女が両目を閉じてから再び開くまでの間に身じろぎしないのだ。
少年は少女が眠りに落ちたと判断すると、いつもどこかへ行っていた。そうしてしばらくすると戻ってきて、自身も眠りにつく。朝には何事もなかったかのように少女に笑いかける。
少年はどこへ行っているのか。はじめは淡い疑問だったそれはいつしかひどく濃いものになっていた。少年と少女が南に向けて移動し続けていることを考えると誰かに会っているとは思えない。また休息の場は結局外に落ち着くことが多かったため、わざわざ離れた場所で見張りをしているとも言い難い。そもそも何を見張るというのか。
少女は届く光の乏しい瞼の裏を見つめながら考えを巡らせていた。そして最終的には確認してみるのが一番わかりやすいという結論を導き出した。
「……ロウ」
少女はもう一度口を開く。
少年のことを信じていた。逆説的な言い方をするのならば、信じているのは少年だけだった。
降り積もる雪のように小さな部屋にいたあの頃、あまりにも物を知らない少女が標とできたのは、孤高であった存在と、少女を安全な場所へ連れてきたあと不定期に訪れるようになった女性と、自由に遊びに来てはひとしきり話して帰っていく少年だけだった。それが今、一つは消え失せ、一つはいつ出会えたものか分からない。少女の手にある数少ない糸の中で、その先が繋がっていると確かにわかっているのは一つだけだ。
「……それでも」
自身に言い聞かせるような声音だった。
少女は木の幹に手を伝わせながら進んでいく。
木と木の間隔はそれほど近くはない。根に足をとられることを恐れてそろそろと歩くよりも、翼で飛んだ方が速いのは明らかだ。少女はゆっくりと息を吐いた。
こんなことでは少年が戻ってきたところに鉢合わせるかもしれない。そんな考えに至って、しかし、それでも良いと思い直した。何も知らないと思われているのだから素直に聞いてみれば良い。
思案しているうちに少女は木々の隙間を抜けた。そこには開けた平原が広がっていた。草が風に波打っている。空は雲に覆われていて薄暗い。星は見えなかった。
「……?」
薄ぼんやりとした灰空の中に、少女は何か黒い影を認めた。目を細める。
それは長い棒のようなものを構えている少年の姿だった。翼を動かしてひとところをあまり離れないようにしているらしい。なぜあんな高いところに留まっているのか、不思議に思いながら少女は少年を見つめた。
少年が黒々とした揺らぎに覆われて見えなくなった。一拍後、紫の光が小さく明滅したのが目に届く。少年が再び姿を見せた。
歩いて近づくと少年の動きがより見て取れるようになる。少年が手に握っていたのは槍だった。身長に匹敵する長さの槍をどうやって持ち運んでいたのか、少女がそれを目にしたのは初めてだ。
少年に向かって、黒い塊が動いていた。直線的な動きではないものの、確かに少年を狙っているように見えた。ずずず、と擬音が聞こえてきそうなほど重く見えるもやが空に浮かんでいる。あのような背筋に寒気を走らせるものを少女は知らない。
あれは何、と口にしようとして、少年がも黒いやに突っ込んでいくのを捉え息を呑んだ。いくら気体の塊のようなものとはいえーー、
ボッと音がしてもやが霧散した。
少年が、振るった槍の先を払うように右腕を振っている。
少年は怯むことなく、槍の切っ先を前方に向けたまま空を駆ける。途切れ途切れに浮いているもやに槍を突き刺し、体を反転させ、さらに擦り寄ってきた黒色を薙ぎ払った。広がるようにして少年から離れたもやに、瞬く間に近づいて切っ先を刺す。
右腕を振るい、振り向きざまに後方を狙い、押し込んだ杖を左手で握りなおして下に向ける。少年の動きは一連の流れのようだった。時折滞空する位置を変えてはいるが、その移動は流れるように素早い。
書物で読んだ舞とはこんなものだろうかと、少女は息を呑んで上空を見つめる。
「神の槍=c…」
呟くとともに、かつて少年が嬉しそうに語っていたのを思い出す。
「ルタ、聞いてくれ! 俺さ、神の槍≠ノ入ることにしたんだ。レス──師団長が推薦、っていうか入らないかって誘ってくれてさ。お前は飛ぶのが速いからって」
これから自分は神の元で槍を振るうのだと。
そうして皆を危険から遠ざけるのだと。
少年が誇らしげに語っていたことを思い出す。
「あれはいつのことだったかな……」
少年が少女を狭い世界から連れ出して、二人で南への旅を始めてから相当な月日が経過している。その前の少女は眠っているのか起きているのかも分からないような生活を送っていたため、少年が訪ねてきた日々のことも定かではない。
雲を手繰り寄せるように曖昧な記憶に嘆息し、少女は黒いもやを払い続ける少年を見つめる。
少年が何度も何度も一人抜け出 。して、何をしているのか。それを探りに、あるいは問い詰めに来たことなど忘れて見入っていた。
少年の手元で何かが、紫色に光った。一回、二回。小さな明滅が続く。
少年の左腕に嵌められた腕輪に石が一つついている。それが規則的に光り続けていた。何かを警告するように鈍く光るそれを、しかし少年は無視した。槍を体に引き寄せ、弧を描くように振るう。伸ばしきった腕を戻そうとしたとき、
「──っ、ロウ!」
高い声が少年の耳元まで届いた。悲痛な響きを帯びた声だった。
「……ルタ?」
自身を呼ぶ声の主が少女であることに気づき、少年は声の発生源を振り返る。
そのときぐらりと体が傾いた。
自分の左羽が、風に溶ける塵のように散っていくのを、少年は見た。
空の上で体勢を保てなくなっていく。
無事であるはずの右羽や両手からも力が抜けて、槍を取り落としそうになる。
「ロウ、ロウっ!」
耳に届く少女の叫び声。少女があんなにも感情豊かに大声を出しているのは初めてだ、などとひどく場違いなことを少年は考える。
左羽がすべて砂と化し、支えを失った少年は緩やかに落下していった。瞼を下ろす。
後悔しているか、ロウ? 私がお前を神の槍≠ノ推したことを?
……ロウ、わたしね、神さまってさみしがりやだったんじゃないかっておもうの。
待ってる。きっとロウたちなら大丈夫だろうって、信じてる。
わたしはロウみたいにつよくないよ。
かつて言われたいくつかの言葉が、瞼の裏によみがえる。
「一人に耐えられないのも、依存してるのも──全部俺のことだ。強いのはお前だよ、ルタ」
片翼を失った少年は落下していく。不思議と恐怖はなかった。次から次へと沸いてくる黒い塊が少年を追って下降してきていたが、それにも気づいていないようだった。
「ロウ!」
少女は少年の左羽が消えてなくなるのを目にしてから、ひたすらに少年の名を叫び、少年のもとへと走っていた。
普段走ることなどないためすぐに息が切れる。酸素の行き渡らない四肢が重く感じられる。喉が痛い。それでも少女は、滲む視界の先にぼんやりと少年を捉えて足を動かした。
そうして少年が地上へと落ちるその瞬間、無意識のうちに両手を伸ばした。広げた手のひらの上に少年が乗るような形になるが、当然支えられるはずもなく、二人はもつれるようにして倒れこむ。少女は慌てて頭を起こし少年に声をかけようとした。
そこで黒いもやが依然しつこく、少年に近づこうとしているのに目を留める。
「──、ロウに近づかないで!」
ありったけの拒絶をこめて少女が叫ぶ。
刹那、ざあっと、恐れをなしたように、大量の塊が消え失せた。跡には何も残らなかった。
「……ルタ……お前、今の……」
呆然とした顔のまま、少年は呟くように問うた。少年の左羽は最初からなかったかのように消失していた。
少女は少年の疑問に答えない。ただ少年がかつて見たことのないほど真剣な眼差しで少年を見つめていた。
「──ロウ。ロウ、全部話して」
断固とした口調で少女が言う。その視線に少年は一瞬たじろいで、目を逸らし、しかし幾ばくかの後口を開いた。
少し雲が晴れて、星々の鈍い光が届き始める。それは二人のいる草原を淡く照らしていた。