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空縁



 夢を見ていながらこれは夢だと気づくようなことがあるけれど、私にとって今がまさにそれだった。ただその夢はいつもよりも現実的なものであるように思えたし、自分に振り分けられた役も特にはないようだったので、私は観客に徹し、事態をぼんやりと眺めているに留めていた。
 そこは音楽室で、クラスメイト全員が収まっていた。教室内に机や椅子は一つもないというのに、ひどく狭い。大人とさほど変わらない体格の高校生四十人が一所にいるから、というよりは、教室が人間に合わせて小さくなったかのような、そんな息苦しい狭さだった。
 クラスメイト達は中央に出ていくことなく壁際に寄り、いびつな四角形を描いている。私も一辺を構成する一人として、何の違和感もなくそこに組み込まれていた。ただ一人の例外は、教室の中心で皆の視線を集める生徒会長である。彼は両腕を大きく振り上げ、リズムを刻んでいる。彼の性格のように、正確で生真面目な指揮だった。
 その指揮に合わせて皆は歌う。大きく口を開け、両目を見開いて。手を抜いている人など一人もいない。誰もが真剣な眼差しを教室の中央に向けている。その姿は毎年テレビで放映される、合唱の全国大会にどこか似ていた。
 ピアノの伴奏もCD等の音源もなく、指揮だけを頼りに曲は流れていく。合唱はきちんと四つのパートに分けられていた。ソプラノ、アルト、テナー、バス。それぞれが絡み合い、一つの渦を作り出している。竜巻と呼んでも差し支えないかもしれない。孔雀の羽のように大胆で、鮮やかな渦だった。
 渦は歌が盛り上がれば盛り上がるほど回転を速め、辺りの空気を巻き上げていく。それと比例するように、教室は狭まってこちらを圧迫する。息苦しい。酸素が足りない。無意識のうちに、喉を押さえていた。
 皆はこんなに狭い教室で、辛くはないのだろうか。皆、全く気にしている素振りを見せないけれど。そう思って、右隣に立っている子の顔を見つめてみる。すると彼女はこちらの視線に気付き、にっこりと笑いかけてきた。早く歌おう。そう誘っているかのような、清々しい笑顔だった。
 私も歌わなくてはいけないのか、とそこではたと気がついた。皆が歌っているこの曲なら、小学五年生の時に学芸会で歌った。だから歌詞も音程も知っている。今この場で進行している歌に途中参加することも簡単だ。
 両腕を体の横に落とし、生徒会長の方に体を向ける。肩幅の広さに足を開いた。
 合唱は再びサビに入るところだった。このサビから歌い始めようか。そう決めて、口を丸く形作る。続けて息を吸い込んだ。
 サビに入り、渦はますます大きくなる。
 けれど、言葉が喉に張り付いたように、掠れた声しか出なかった。

***

 トントントン。悠紀の耳に、机の天板でリズムを刻む音が飛び込んできた。太陽も南中した午後三時、日差しは暖かく、風もそよいでいる。心地好い環境に突然侵入してきた無粋な騒音を、迷うことなく悠紀は無視した。重い瞼は落としたままで、頬杖を付いた姿勢も変えない。
 再び音が響く。控えめだけれど急いているような音だ。煩いな、とそう思いながら、それでも悠紀は顔を上げなかった。
「高橋」
 頭上から声が降ってきて、悠紀はしぶしぶ両目を開けた。まだ夢と現実の境界をさ迷っている頭が、目の前に立つ教師の輪郭を捉える。
 悠紀の担任兼、数学教師をしている男だった。高校に入学してからずっと関わりのある、黒縁眼鏡の見飽きた顔だ。
「お前なあ、あと十分くらい何とか起きてろ」
 呆れたように彼は言う。それには生返事で頷きつつ、悠紀は辺りを見回した。
 本日最後の授業の数学も、あと十分で終了する。その最後の時間は、今日のまとめに問題を解くよう指示が出たのだった。悠紀の周りの生徒達は、脇目も振らずに数式をプリントに刻み続けている。
 自分の手元を見ると、そこには蛇がのたくったような線が残されているだけで、何の思考の形跡もなかった。過去の自分に溜息を漏らしつつ、悠紀はシャープペンシルを手に取る。
 担任は悠紀がプリントに目をやったのを見てとると、納得したのだろう、教卓の方へと戻って行った。悠紀は彼の背中を見つめ、くるり、シャープペンシルを回す。
 授業が終わるまであと十分。担任にばれないようにしつつ、残り時間をやり過ごすしかない。紙面に並ぶ数字の羅列を眺めながら、悠紀はようやく頭を回転させ始める。プリントの上から順を追ってなぞっていく。記憶を辿って、自分が聞き流していたところを確認する。冒頭の公式の説明は聞いた。教科書には載っていないが、覚えるとそれに数字を当てはめるだけで計算が進んで便利らしい。公式の証明は説明を受けたが、その下に控える練習問題を解いた覚えがない。再び眠気が忍び寄ってきたが、担任に一度声をかけられた手前、寝てしまうわけにはいかなかった。
 教科書を読み進め、よく理解できない箇所を二三度読み返していると、そうこうしているうちに授業は終わった。チャイムは鳴り終わったけれど、誰も席を立たない。壇上の担任が、黒板の数式を大雑把な手つきで消していく。
 そしてそのまま、帰りのホームルームへと突入した。担任が一日の最後の授業を受けもっていると、六時間目と帰りのホームルームの合間の時間が削られることがある。週に一度のこの時間の短縮は、早く帰路に着きたい生徒にはとても歓迎される。
 担任は今週末の模試の話を始めた。今週は金曜と土曜を使って模試があるが、前回の模試の解答なんかを見て復習しておけよ。定期テストも近づいてきてるが、定期は捨てるとか言った奴は、俺が通知表を窓から捨てるからな。普段の雑談と同じ語調で担任は話す。悠紀は机にあげたリュックの上に頭を載せた。黒板に残る石灰が目につく。まるで真新しいカンバスを、油彩の絵の具でなぞった跡のようだ。絵の具が妙に浮き立っていて、落ち着かない気分になる。このホームルームが終われば掃除があるからか、はたまた誰かがやってくれると思っているのか、担任はそういうところにひどく無頓着だ。
「悠紀、起きてるー?」
 と、前の席の女子が振り向いた。顔だけをこちらに向け、彼女は続ける。
「悠紀さ、さっきの数学の授業で起こされてたでしょ。毎日毎日遅くまで起きてるからだよ、早く寝なよ?」
 そして睡眠は敵だよ! と眉を上げた。悠紀は彼女の剣幕に押され、分かった、二時には寝るから、と返した。二時って……それじゃあ意味ないでしょ! と彼女は悠紀の額を弾いた。
 そこそこ痛かった。彼女の目の奥には面白がるようなふざけているような光が覗いていて、悪気がないのは分かっていても。
「体調崩したら元も子もないんだからね」
 最後にそう締めくくって彼女は前を向き直した。悠紀はその背中を見つめる。
 こうやって、他人のことを心配してくれる彼女は優しい。少しずつ、少しずつだけれどしかし確実に、自分のことしか見えなくなってくるこの時期に。その優しさに癒されると言うクラスメイトがいる半面、「東京の私大、指定校で狙ってるんでしょ? 最初から私大って決められる子は楽で良いよね」と、そう零すクラスメイトがいることを悠紀は知っている。
「それじゃあ今日はこれで終わりだ、はい起立」
 担任の言葉に、悠紀ははっとして意識を切り替えた。生徒はがたがたと席を立ち、一斉に礼を交わす。その途端、彼らは何の関わりもなくなったように、各々好きな場所へと散っていく。
周りに遅ればせながら、悠紀も肩紐の長いリュックを背負う。顔を上げ、女子が一人、こちらの様子を伺っているのに気が付いた。
「どうしたの」
 悠紀から声をかけると、先手を切る必要がなくなったからか、彼女は少しほっとしたような表情を浮かべた。長めの髪を首元で結わえ、華やかなシュシュで飾っている。お洒落も含めて何事にも手を抜かない、自然と周りの注目を集めるタイプの子だと悠紀は記憶していた。
「あの、お願いがあるんだけど……古文のノート、一日貸してもらえないかな?」
 両手を合わされて、何で私に? と悠紀は首を傾ける。悠紀と彼女はよく話すような仲ではなかったし、ましてや古文の授業で席が近いわけでもなかった。悠紀の当惑に気付き、
「や、あのね、私、先週の木曜、古文の授業休んじゃって……それで、高橋さんって古文の授業、いっつもしっかり聞いてるよね? 先生の質問にもしっかり答えてるし、テストも点数いいよね。ノートもしっかり取ってるイメージあるから――」
 彼女は慌てて言葉を並べ立てる。
 古文の、ノート。舌の上で言葉を転がすようにして、悠紀はそのノートがリュックに入っていることを思い返す。
 その間に、彼女は焦りを深めたようだった。
「あまり綺麗じゃないけど、それで良ければ貸すよ」
 悠紀は安心させるように、笑みを浮かべてみせた。そんな、授業中の様子も見られてたりするんだ。妙な感慨を抱きながら、リュックから取り出した大学ノートを手渡す。
 彼女はそれを胸の前で抱えた。ありがとう、お礼は必ずするから! 嬉しそうに笑い、教室の入口へと身を翻す。お待たせ、待たせてごめんね、と友達にかける声が悠紀の耳に留まった。
 後を追うように悠紀も歩き出す。教室を出てすぐ左に折れ、現れた扉を静かに開ける。そこは悠紀の教室と変わらない作りの部屋で、机はちらほらと生徒で埋まっていた。
 二年一組の隣は空き教室であり、定期考査以外滅多に使われることがない。教室の戸に鍵もかけられておらず、いつでも開放されている。校舎の一番奥に位置するために放課後の部活動の喧騒も届きにくく、利用する生徒もそう多くはない。勉強する場所としては最適だ、と悠紀は考えている。つまらない授業の最中には、ここに来て自習した方がいい、と思ってしまうほどに。
 悠紀は机と机の合間を縫って進み、一番廊下側、前から二つ目の机にリュックを下ろした。悠紀が座るのはいつもこの場所だ。根拠は全くないけれど、占いを信じるような感覚で、この席は勉強が進みそうだと考えていた。
 リュックの口を開け、まず筆箱を取り出す。
 古文のノートはなくなったから、予定を変えなきゃなあ……。定期テストに合わせたノート点検の前に、一度一通り復習するつもりだったけれど。リュックの中を探りながら、何を勉強しようか悠紀は思いあぐねる。……まあいいか。あの子はノート、大切に使ってくれそうだったし、復習だってそう時間はかからないだろう。気を取り直して、悠紀は生物の参考書や資料集を取り出す。数学の教科書にも手が触れたけれど、数学に取り組む気分ではなかった。数学は帰宅してから取り組むことにする。
「さて、やりますか……」
 あまり気乗りしない調子で呟いて、悠紀は参考書を開いた。

 予め決めた範囲の演習問題を解き終わった頃には、もうそろそろ六時になろうかという頃だった。終わりを宣言するかの如く勢いよく参考書を閉じて、時計を見つめる。ふっと思わず息が漏れた。もう、今日は帰ろう。
 悠紀は膝にリュックを載せ、中に教科書をしまい込み始める。教科書に載せていた筆箱が弾かれ、そのはずみで横転した。筆箱の口を閉め忘れていたようで、シャープペンシルや消しゴムが筆箱から飛び出して机の上を転がった。その勢いを止めようと、悠紀は咄嗟に右手を伸ばす。と、はしとシャープペンシルを押さえたその指の先に、残されているものに気がついた。
「落書き……?」
 落書きならば、机に書かれていることなどよくあることだ。お腹が空いただとか眠いだとか、その時々の短絡的な呟きだったり、好きな歌の歌詞だったり、はたまた教師の似顔絵を目にしたこともある。退屈している生徒の置き土産は、存外に面白いものであったりする。この机の上の落書きも、放課後も続く勉強に飽き飽きした生徒が書いたものだろう。
 自分と同じ席で勉強しているのは、一体どんな人なんだろう。僅かながら興味が湧いた。悠紀は落書きからペンを除け、身を乗り出す。シャープペンシルで書かれたらしい、ちょうど消しゴムで隠れる大きさのそれを覗き込む。
「ねえ、本当に笑ってる?」
 そこにはただそれだけ、習字を習っていた面影のある字で、男子のものか女子のものか分からない一文が印されていた。
 ペンをさらに押しのけ、できた空間を見つめ直した。
 これは落書きだろうか、それとも誰かに宛てたメッセージだろうか。机に書かれているのはその一文だけで、書いた本人の名前も残されていない。「本当に」という表現にもどこかひっかかる部分を感じる。一体、何が聞きたいのだろう。
 悠紀は右手をさ迷わせ、指先に当たったシャープペンシルを掴んだ。その最上部を押して芯を出す。
 手首の腕時計と黒板上の時計が、同時に六時を告げた。

 いつもと変わらない一日が今日も過ぎ去り、悠紀は今日も自習室へと向かう。どこかはやる気持ちを抑えながら、やや早足気味に両足を運ぶ。
 扉を開けると、昨日よりも教室を利用する人が増えているように見えた。定期考査が近づいているからだろう。教科書を片手に、隣の席の友人に質問をしている生徒が目立つ。
 教室の中へと入り込み、いつも悠紀の座る席が使用されていないことに安堵する。机にリュックを下ろすよりも先に、悠紀は天板に両手を突いた。両手の間に視線を落とす。
 落書きの面積が広くなっていた。昨日見た一文には、悠紀がさらに書き込みをしていたが、しかしそれだけではなく、新たに文章が記されていた。
 昨日の今日で、こんなにも早く反応が返ってくるとは思わなかった。違う人が加わってきた可能性も否定はできないけれど、きっとその線は薄いだろう。悠紀は椅子に座ることも忘れて、額を天板に近付ける。
「ねえ、本当に笑ってる?」
 始めの一文の下に悠紀の文字が並び、さらに新たな文が書き足されている。
「……どういう意味?」
「本当に、心から楽しくて笑ってるかってこと。あまりにもそこら中に笑顔が溢れてるから、そんな疑問を抱きたくもなる」
 質問に質問で応えているのは見慣れた自分の字だ。一日間を空けて見てみると、我ながら随分不躾な返事の仕方をしたものだと思う。にも関わらず、答はすぐに返ってきた。初めの文も終わりの文も、字体が似ているから同一人物と見なして構わないだろう。
 悠紀は筆箱を取り出そうと、リュックの口を開いた。金具が走る音が想像以上に大きく響き、悠紀ははっとして辺りを見回す。幸いにも周りがそれを咎める様子はなく、悠紀は椅子を引き出してようやく腰を下ろした。
 リュックを床へと下ろし、机には筆箱だけを残す。机の木目の上に浮き立っている文章を見つめる。悠紀はシャープペンシルを手に取り、芯の先を天板に強く押し付けた。
 どう書いたら、思っていることを上手く伝えられるだろう。メールや手紙など相手の顔を直接見ることのないコミュニケーションツールは、情報がどこか屈折されて相手に伝わっている気がして、悠紀は苦手意識を感じることがある。伝えたいことをそのままに送り出すには、どういう言葉を選べばいいのか。もどかしさに包まれながら、ペン先で宙に螺旋を描く。
「いつも心から楽しくて笑っているわけじゃないよ。こういう場で生きていくために必要で、笑みを見せることだってある」
 書いて、この字の主は笑うことがほとんどないのだろうかと思った。

 放課後に自習室に行くことに加えて、机に書かれている文章に返事をすることが悠紀の慣習となった。初めて落書きを見つけてから、そろそろ一週間が経過する。自習室を利用する人はある程度固定化されていて、その席順も同様だったので、落書きのある机にはいつも座ることができた。机にたどり着き、まず始めに返事の有無を確認する。落書きは大抵更新されていて、それに返事を書く。一日置きに送るメールのようなものだ。始めのうちこそ言葉だけで伝えたいことを上手く伝えられないと難しく感じたものだけれど、相手の顔が見えない、相手のことを知らないからこそ言えることがあることも知った。
「笑顔を作れるって、凄いな。いや、これは厭味じゃなくて素直にそう思う。例えそれが、君が『楽しくない』って思いながら浮かべてる笑顔でもさ、相手に不快感を与えることはない。仏頂面してるよりよっぽど好印象だ」
「いや、私のこれは、ただの自己保身だよ。笑いたくない時に笑うと……変な話かもしれないけど、一歩引いたところに、いつも周りを客観的に見てるもう一人の自分がいるんだけど、その自分が風化していくような感じがする。私の方を、冷めた目で見つめたまま」
「もう一人の自分ね……事態を客観的に見たりする自分っていうのは、確かに居るかもなあ。友達と騒いでて楽しいんだけど、そいつが、自分は今は騒いでいても大丈夫な場所にいるか、大丈夫な時間帯か、ずっと点検をしてるんだよ。それで審査基準をクリアしたら黙ってるんだけど、いつ声をかけてくるか分からない。だから時々視線をやって牽制してる。誰かに迷惑をかけたいわけじゃない。けど、何もかも忘れて、心の底から楽しみたい時だってあるからさ。……話が逸れた。君は『キャラを作ってる』ってこと? 優しくて親切な」
「そういうことになるんだと思う。頼まれたことは基本断らない、誰かが何か言ったら好意的に応える。自分で言うのもかなり変だけど、優しいよねって言われることも多い。でも違う、きっと優しい人は心から人に優しく接することができるから優しいのであって、私のそれは善意から来るものじゃない。良い人に見えるように、そう振る舞ってるに過ぎない。笑顔を向けられると安心するけど、私の笑顔は人のためじゃなくて他でもない自分自身を安心させるためのものだ。勿論、本当に楽しくて笑ってる時だってあるよ。けど……私は、人から嫌われることを一番恐れてる」
 学校で課された作文を書く時にだって、ここまで言葉が溢れ出てきたことはない。机の表面という異質な媒体にシャープペンシルの芯はどんどん削れていった。学校の物品に落書きをしていることは良心を少し突いたが、いつの間にか胸の底に降り積もっていた感情を吐露する清々しさを思えば、そんなことは気にならないも同然だった。
 日を追うにつれて、相手が一回に書き残す量が増えていき、悠紀が応える量もつられて増えた。腹を割り、本音で話し合っているという感じがした。お互いの顔も知らないのに見せる腹の内などあるのか、とおかしくて思わず笑みが零れた。
「案外、皆そんなものなんじゃないかって思うよ。こうやって君と話をしていて思ったことだけど、悩みなんて全くなさそうな人が悩んでたり、適当に生きてそうな人が意外と色々深く考えてたりする。自分だけじゃないんだ。自分が悩んでる時には気づきにくいけど」
「うん。……それって、私はいい加減に生きてるように見えたってこと? 私だって頑張ってるんだから、勉強とか。……貴方は、自分自身のキャラクター、作ったりしてるの?」
「どうなんだろうなあ。そもそも人とコミュニケーションをとること自体苦手だからよく分からない。友達がいないとかそういう訳じゃないんだけどさ」
 きっと彼(あるいは、彼女)は人に見せるための性格、キャラクターなど所持していないのだろうと悠紀は思った。真面目、面白い、優しい、可愛い、格好良い。人から簡単に、一言で称されることのできる、見目の良いもの。彼にとっては素でいることが日常だから、キャラクターなど必要ないのだ。それに対して、まず、羨ましいと思う。自分を取り繕うということは、時として悠紀を疲れさせる。しかし同時に――人のことを言えた義理はないが敢えて己のことを棚に上げて――希薄なのであろう彼の人間関係を案じたりもした。
「素の自分を見て、相手がその後も付き合っていってくれるかどうかなんて分からない。人と人の関係なんて案外あっさりとほどけてしまうものだから、形容しやすい性格を準備して、相性占いでもしたかのように繋ぎ止める」
 そこまで書いて、悠紀は、一度シャープペンシルを机に置いた。
 机の上の文字は最早落書きと呼べるような規模のものではなく、すっぽりと覆うためには肘から先が全て必要なほど広かった。遠目に見ても、何かが書かれていることは一目瞭然だった。自習室の席順など決められてはいないのに悠紀の使用する机が常に空いているのは、もしかしたら明らかな落書きの跡があるからかもしれなかった。
 悠紀は再びシャープペンシルを手に取った。
「皆仮面を被って生活してるんだ。外しても付き合っていける相手を探してる」
 書き終わり、右手を開く。無造作に落とされたシャープペンシルは机を転がっていった。本気で拾うつもりのない鈍い動きにそれは天板を飛び出し、床に叩き付けられる。その音も、悠紀が椅子をずらしてシャープペンシルを拾い上げる音も、教室内ではほとんど響かなかった。熱心に勉強に取り組む生徒が紡ぐ音に掻き消される。
 定期テストが近いなあ、とまるで他人事のように悠紀は思った。

 定期考査が始まり、そしてあっという間に終わった。どの教科でも、教師が重要だと連呼した問題ばかりが出題された。悠紀が想像していたよりも問題は簡単で、ほとんどを解答することができたもののここのところ模試を受ける回数が増えてきていて、定期考査もその中の一つというようにしか感じられなかった。
 定期考査の期間中、放課後学校に残っていることは許されなかった。だから、悠紀が自習室に足を向けるのも久しぶりだ。定期考査が終わった直後にまた勉強をするなど去年の自分からは想像もつかなかったが、来年受験生となる今、勉強しなくては意味がない。そして何よりも、随分間を置いてしまったあの落書きが気になっていた。
 がらりと扉を開けると、自習室には悠紀が一番乗りだった。あるいは今日は、悠紀の他に誰も来ないかもしれない。
 柔らかい午後の日差しを包み込んだ教室の中へと進み、「……あれ」と悠紀は呟いた。その疑念は、一歩踏み出して確信へと変わる。
 机の脇に立たなくても分かる。今までの文章が、綺麗さっぱり無くなっていた。一文字も残さず消え去っている。
「ああそうか、この教室もテストで使ったから……」
 事態をすぐに飲み込めず、なおも言葉が外に出た。
 普段こそ自習室と呼んでいるものの、この空き教室は定期考査時には試験会場として使われる。そのため、使用する机に落書きなどが残っていては問題がある。大方、あの文章は、定期考査前に教室の見回りをした教師によって消されたのだろう。
 こんなにもあっさりと、何の跡も残さず消えてしまうなんて。例えばペンか何か、今まで精一杯積み上げて塔としてきたものを、根元を指先で突くだけで壊されてしまったかのような、そんな感覚が胃の中で渦巻いた。自分と彼との繋がりが、こんなにも、こんなにも脆いものだとは思わなかった。もともと、明日また会おうねと約束した友達同士でもなかった。返事が返ってくる保証もなかった。相手の顔も分からないし、ましてや性別すら知らない。ただお互いに間断なくやり取りをしていたから、あの会話は成り立っていたに過ぎなかったのだ。
 悠紀は、大きく音を立てて椅子に座った。そしてそのまま、しばらくの間呆けていた。やがて立ち上がり、教室の前方にあるスイッチを押して蛍光灯を点けた。
 机に戻り、大きく息を吐いて肩を落とす。
「貴方に会いたい。会って、直接話をしてみたい」
 シャープペンシルを取り出して、一字一字確かめるようにこう書いた。
 落書きを消した教師は、あんなにも大量に書かれた文章を見て、何か思うところがあっただろうか。それとも何も考えることなく、ただ消していっただけだろうか。

 自習室を利用することに変わりはなかったけれど、悠紀は座る座席を変えた。一番窓側、一番後ろの席である。教室の中で極めて空に近く、かつ教室内全てをも見渡せる、特別な気分のする席だ。
 春が近づくにつれて、自習室にくる生徒の数は増えた。定期考査前でなくても、ほとんどの座席が埋まっている。人の座っていない席の方がぽつぽつと空いている穴のように目立つ。
 それまで悠紀が座っていた、廊下側、前から二番目の席は、人がいる時もいない時もある。人は毎回違うようだったし、机を通じて会話をした相手とも雰囲気を異にしているような気がした。わざわざその席に近づいていって、自分の最後の一言に返事がされているかどうか、確認するというのも変な感じがした。結局、悠紀は相手に出会えていない。
 彼は定期考査の間だけ自習室に来ていたのかもしれない。次の定期考査は、学年があがった三年の一学期である。そのときに彼がまた、三年に割り当てられた自習室に来るのかは分からない。予備校や塾に通いだす可能性だってあるだろう。
 カタン、と右手で音がした。悠紀は顔を向けていたプリントから顔を上げる。
「悠紀ちゃん、隣、座ってもいい?」
 スクールバッグを下ろしながら、彼女はそう言った。髪を肩口で二つに緩く結んだ、柔らかい雰囲気を醸し出している女子だ。悠紀と同じクラスに所属していて、その柔らかい雰囲気に反して、言うべき時は、意外とはっきりと物を言う。その見た目とのギャップから、悠紀はわりと彼女を好きだ。
 ――あるいはもしかしたら、私はもう「彼」に出会っているのかもしれない。そうは見えないのに人と接することを実は苦手としていたり、自分を取り繕うのに疲れていたり、逆に率直過ぎて生きづらく感じていたり、なかなか口に出せない悩みで悩んでいたりする、そんな人。きっと、どこにだっている。
 私たちは現実の息苦しさから逃れるために、仮面を付ける。そして相手の付ける仮面の形が怖いと、子どものように泣いている。きっとただそれだけ、たったそれだけのことなのだ。
 ふっと両肩の力を抜いて、そう思った。
「うん、いいよ」
 窓の向こうに広がる青空を背景にして、悠紀は笑った。
 

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