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ダスト トゥ ダスト



 耳が痛いほどに音量を大きくした音楽が流れてくるヘッドフォンが、するりと外されたので私は重い瞼を上げた。目の前には輪郭のぼんやりとした青年が、ヘッドフォン泥棒のくせに逃げようとする素振りも見せず立っていた。
「何するの」
 絞り出した声は掠れていた。久々に使った喉が思い出したように水分補給を要求する。
 私は沈みこんでいたソファからずるりと抜け出した。我ながらきびきびしたとは言い難い動作で台所に向かう。水道水が飲めればそれで構わない。
 蛇口を捻りコップに水を注ぐ。そのままコップに口をつけた私の背中に彼の声が飛ぶ。
「いつまでそうやってるつもりだ、この精神的引きこもり」
 水の塊を嚥下して、それでもコップの中にはまだ水が残っていたので再び口に含んだ。空になったコップを流し台に置く。
「何のことか分からないわ」
「ソファの上に縮こまり、目を閉じて、ヘッドフォンで周りの音を聞こえなくして。見ざる聞かざる言わざる、そうやって自分の世界に閉じこもって、いつまでも出てこないつもりか」
「閉じこもってないわ。ただ忘れようとしてただけ」
「忘れる?」
「そう」
 青年が怪訝そうに首を傾げる。
「忘却は人間に与えられた恩恵よ。私はそれを享受していたの。要らない感情なら、捨ててしまって忘れるのが得策だわ」
 彼は終始、気に入らないといった風に眉を寄せていた。私が息を吐いたのを見計らってか、ゆっくりと口を開く。
「その要らない感情と上手く付き合っていくのが人間だ」
「そうかしら」
 私は続ける。
「激情、悲哀、嫉妬……そんなものと付き合おうとしていると逆に飲み込まれて、いつの間にかガタが来てしまうわ」
 だから、ごみはごみ箱に。
 要らない感情なら捨ててしまえばいい。彼が中断させたあれは私の、言わばアンインストール作業のようなもの。
 私はソファへと戻り、先程は横向きに座っていたところを、ソファの背もたれに背を預けるという正しい姿勢で座った。けれど、彼は私にヘッドフォンを返してはくれなかった。代わりにどこか悲しげな視線をこちらに寄越した。
「そうやっているうちに、お前はあらゆる感情を捨ててしまうんじゃないか」
「断捨離をするからといって家の中の全てを捨てるわけじゃないわ」
 私は彼を見つめ返す。すると彼は明らかに狼狽した。
「俺は、こんなことを言いにきたんじゃないんだ」
 分かってる、と答える代わりに全く別の言葉を送る。
「私は、貴方に関連することを忘れるつもりはないわ」
 だから安心して。
 そう言ったのに彼の表情は明るくならなかった。寧ろ何かに噛み付きたいといった顔でこちらを見る。
「なら俺は、お前の生活の大半に俺を関わらせてやる」
 私は微笑んだ。それから何も言わずに、彼の方へ手を伸ばした。戸惑いがちにこちらに差し出される彼の手を包み、そしてヘッドフォンを取り返す。
 彼が私の名を呼んだ。
 私はヘッドフォンを耳に嵌め、まるで彼が声を発したのはその後の出来事であったかのように振る舞った。つまり、彼の呼びかけには応答しなかった。
 ヘッドフォンのコードが繋がる先に指を伸ばし、音量を調節する。鼓膜にピアノを叩きつける音が帰ってくる。
「私の忘れる、は、過去をなかったことにできるわけじゃない。ごみを投げると方言で言うけれど、実際に放り投げるわけじゃない。それと同じようなものよ」
 安心して。
 先程と同じ台詞をもう一度言う。
「明日になったら、またいつも通りの私に戻るから」
 微笑む。彼は観念したように、
「分かった」
 と頷いた。
「俺もごみ箱漁りなんかしたくない。おとなしく、明日を待つことにする」
 「明日」は手中に入れた瞬間に「今日」になってしまう。待っている時刻が伸びていくだけで永遠にその日は手に入れられない。手を握る間際にするりと抜け出ていく気まぐれな恋人を、追いかけ続けるほか術はない。
 彼の発言を可笑しく感じたけれど、そんな返答はこれ以上彼を困らせるだけだと判断したので止めにする。
 彼は何も言わない私を視界に捉えたまま、
「じゃあ俺は帰る。また明日、な」
 期待や希望や願望といった、けして要らないとは言えない感情を滲ませた声音で別れを告げた。
 私も短く挨拶をして、彼が去っていくのを見守る。
 ヘッドフォンを嵌め直す。ソファに横向きに座り、膝を立ててそこに頭を埋ずめる。目を閉じれば、私は外界から切り離された存在となる。
 どこまでもどこまでも沈みこんでいく。そうして出会うものたちを分類し、整理し、要らないものは、捨てていく。ごみはごみ箱に、あるべき場所へと入れるのが相応しい。
 そうして空いた空間を優しい感情で埋めて、明日は彼に笑いかけてあげようと思った。


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