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万世節前夜断片集



AM07:52 桃子と赤池



「……あ、」
 後ろからの声に鈍く肩を叩かれて、桃子はゆっくりと振り返った。声の主は確かめるまでもなく分かっていた。
「──け、……赤池先輩。お早うございます」
 砂に塗れた手を洗うのを休めないまま、桃子は赤池に挨拶する。
 部活のときに着用するジャージ姿が想起されたが、目の前に立つ赤池は、ブレザーの上にマフラーまでも巻いた制服姿だった。彼はとうにサッカー部を引退したのだからそれも当たり前だと、桃子はぼんやりと頭を振る。起床してから早数時間が経つのにも関わらず、まだ頭は起きてくれていないらしい。
 体育館外に設置された水道の蛇口からはひどく冷たい水が流れ出る。秋も深まってきていて、ことあるごとに寒さを実感するようになっていた。手の甲を打つ流水にまた一つ寒さを覚えながら、それでも桃子は必要以上に水道の前に佇んでいた。
「おはよ」
 赤池からの返事はどこか憮然としていた。彼の持ち味である溌剌さが微塵も感じられない声だった。
 登校時にどこか怪我でもしたのだろうか、それとも具合でも悪いのだろうか。
 桃子は沸き立った心配を抱えながら、赤池を覗き見る。しかし、身体に不調があるようには見えなかった。
 赤池が口を開くのを目にして、様子を尋ねかけた口を噤む。
「……俺さ、サッカー部引退したじゃん」
 赤池の脈絡のない発言に、桃子は思わず首を傾ける。傾けて、返事をしないままであるのも具合が悪いと考えて、
「先輩?」
 問い直すと、余計に彼は苦虫を噛み潰したような顔をする。
 ますます訳が分からなくなった。どうしようもないので視線をさ迷わせている桃子に、赤池は何かを諦めたように、あるいはそれでこそ彼女らしいと納得したように、静かに息を吐いた。
「……あー。お菓子。何でもいいからお菓子、今持ってる?」
 桃子は水滴をまとった自分の手のひらを見る。ポケットにはハンカチしか入っていない。鞄は部室の中にあるし、水道に手を洗いに来ただけの自分がお菓子を持っているわけもない。それを赤池も知っているはずなのに、一体どうしてそんな質問を。
 疑問に満ちた顔を向けると、そこには久方ぶりの赤池の笑顔があった。
「桃子」
 なぜか不意打ちに遭ったような気分にあって、直視できず顔を伏せる。
「今日、ハロウィン。じゃ、部活頑張れ」
 追い討ちのように飛んできた声が先ほどよりも遠く聞こえて、桃子はゆっくりと顔を上げた。赤池の背中が遠くに見えた。生徒玄関に向かうブレザー姿がひらひらと右手を振っている。
「……名前」
 彼に下の名前で呼ばれたのはいつぶりだったか。
 頬が火照っているのを自覚する。
 寒いから。きっと寒かったから。それだけだ。
 言い聞かせるように心中で繰り返す。
 細く水の流れ出ていた、水道の蛇口を捻る。きゅっ、と高い音が空気を切った。


AM08:57 黒谷と真白



 チャイムが鳴る。スピーカーから響く電子音が時間を区切る。デジタルはここからの四十五分間を一時間目と称して、生徒に集中と沈黙を課す。しかし三年一組の教室内は、その規律を忘れたかのようにざわついていた。
「はいはい、始めるから静かに。あんたたち、中学上がりたてじゃないんだから。いつものように三十分計るわよー」
 壇上の女教師が、腕に嵌めた時計を確認しながら声を張り上げた。彼女は一斉に口を噤んだ生徒たちを満足そうに見渡して、開始の合図をかけようとする。
 そこで、生徒の一人がすっと右腕を掲げた。誰もが彼に注目する。
「どうしたの赤池」
 教師が問う。手をあげていた男子生徒はそのままの姿勢で発言し、一時クラス中の賞賛を集めた。
「紫織ちゃんが年甲斐もなく魔女っ娘の格好してるのは何でですか!」
「紫織ちゃんじゃなくて、古橋先生か、紫の上と呼びなさい! じゃあ開始。あと二十九分ー」
 二十九分、というカウントダウンに、男子生徒の質問があったことなど忘れたかのように、生徒全員がシャープペンシルを手にとる。芯が紙の上で削れる音と、ページがめくられる音だけが教室に満ちる。
 教室内、廊下に近い、後方の席に座っていた真白も、他の生徒と同様、国語の問題集に制限時間つきで取り組んでいた。窓側にあるストーブから遠いこの席は、少し肌寒い。スカートの上にかけるブランケットを忘れてきたことが、少し悔やまれるなあなどと、問題を解く頭の片隅でそんなことを考える。
 一通りページをめくって、冒頭に戻る。ぱらぱらといい加減に捲くると、いつか書いた某人間が紙の右上で旗を振っている。
 黒板の上の時計をちらりと見ると、あと三分ほどで、教師のカウントする三十分が終了するところだった。時間以内に問題を解き終え、見直しもできたことに充足感を覚える。
 視線を手元に戻すと、その傍らには先ほどまでなかった小さな紙があった。おそらくルーズリーフを千切ったであろう紙が、牛乳パックの形に折りたたまれていた。差出人の見当をつけながら、真白はその手紙を開いた。紙の罫線を無視して、見慣れた字がそこには書いてあった。
『紫織ちゃん、仮装してるよね? 俺の見間違いじゃないよね?』
 さっと目を通し終えて、思わず左を向くと、手紙の差出人、黒谷と目が合った。真白は視線を手紙に戻して、黒谷の文字の下にシャープペンシルを走らせる。
『多分。私の目も赤池の目もおかしくなってなければ』
 紙を元のように畳み直す。手紙交換における牛乳パック型とはこういう風に折れば良いのかと、妙な感心をしながら、さりげなく黒谷の机の上に載せる。
 左側から手紙を開く気配を感じ取れたのでそっと視線をずらすと、黒谷が明らかにほっとしているのが見えた。真白は笑みを零す。
 再び真白の机の上に手紙が載せられた。開く。
『良かった。俺も赤池も幻覚見てるかと…紫織ちゃんが魔女っ娘許される歳のわけが、』
 真白がそこまで読んだとき、教師がちょうど黒谷を指名した。問題の選択肢について問われている。そのタイミングの良さに再びおかしさを感じていると、
「問三は間違えてたらデコピンレベルよ、次、真白!」
 教師は偶然か否か、次は真白をあてた。慌てて質問に答え、左を見ると、黒谷が笑いをこらえている。釈然としないものを感じて、真白はじっと睨みつけるように黒谷の方を見る。するとそれに気づいた黒谷が、声は出さないまま口だけを動かしてきた。
 黒谷が何と言いたかったのか判別はつかなかったが、きっと「ありがとう」と言っているのだと勝手に自己解釈して、真白は正面に向き直った。
 シャープペンシルの先をくるくると回して、思案したあと、紙の切れ端の一番下に何か書き足した。それから紙をまた折りたたみ、今度はそれを自分の筆箱の中に仕舞いこむ。唇の端で密かに満足そうな笑みを描いて、何事もなかったかのように、教室前方の教師へと集中を向けた。
『こちらこそ、何だかあったかくなった。ありがとう』


AM10:38 黄太と清水



水曜日の二時間目と三時間目の間、十分間の休み時間に、俺は友人たちと渡り廊下を歩いていた。次の授業は化学の実験だったから、手には教科書と白衣が収まっている。
「でさあ、俺のカボチャ、あれ高かったんだぜ? ドンキで四千円もすんの! あの先生──トウノとか言ったっけ、何も没収しなくてもさあ……」
「はいはいそれは災難だったね。でもその話俺らが聞くのもう四回目だから」
「もう何回でもいいよ! 何十回でも聞かせてやるよ!」
 俺の左で友人Aが嘆き、右側から友人Bが半ば呆れ気味に慰めている。俺はというと、廊下の窓から差し込む日の光に目を細めていた。冬の到来が近づいて寒くなってきたが、今日は日差しが暖かい。
「黄太、お前聞いてないだろ! あのカボチャは今日しか意味をなさないんだぞ!」
「来年もかぶればいいだろ」
 わめき続ける友人に取り付く島もなく返答すると、きっと睨まれた。
「来年なんか忙しくて誰も見向きもしてくれねぇよ!」
「その辺りは自覚あるんだね……」
 渡り廊下を曲がり、階段を上る。何とはなしに階段の段数を数えながら、
「そういえば何でカボチャなんだ?」
 ふっと浮かんだ疑問を口にすると、友人A、さらにはBまでもが目を見開いた。
「今日ハロウィンだよ?」
「ハロウィンといえば仮装! 仮装といえばカボチャ! だろ?」
 ひどく驚かれたが、ハロウィンくらいは知っている。周りから問答無用でお菓子を奪える日だ。そう説明してやると、友人二人は微妙そうな顔をした。
「……まあ、間違ってはいないけどさあ」
 小声でそんなことを言う友人を横目に、廊下を歩いていると視界の端が何かを捉えた。捉えたというか、正しく言うのならそれはしっかりと視界に入っていたのだが、まあ、気づかないなら気づかないままでいたかった。
 彼女は俺たちの向かい側から、いつもの調子で歩いてきていて、そして俺に気がつき、喜ぶような怒るような、表現しようのない表情を向けてくる。
「また、貴方はっ、髪を染めて……!」
 清水という、三年女子だ。前期に風紀委員だった。三年は後期、委員会に所属しなくて良いので今は無職のはずだ。それ以外の情報はろくに知らない。なぜか俺を見かけるたびにつっかかってくる。三年なんて暇じゃあないだろうに、毎回毎回ご苦労なことだ。労う気持ちはほとんどないけれど。
 彼女の両目は俺の頭髪を見据えている。ちなみに今の髪はちょっと明るめの茶髪だ。先週までは地毛の黒だった。だいぶ伸びてきたので先の週末に染めた。
 これから、もはや恒例となりかけている彼女のお説教が始まるのだろう。あまり長く引き止められると次の授業が始まってしまうし、両隣では展開が読めたらしい友人たちがにやついている。若干うんざりしていた俺は、そこでふと、妙案を思いついた。
「──トリック・オア・トリート」
 ぼそりと呟く。
 実際、効を奏するとは思ってもいなかったのだが。
 彼女はきょとんと、不思議そうに一度瞬きしたかと思うと、そのまま無言で鞄を探り始めた。
「……これしかなかったです。我慢してくださいませ」
 その言葉とともに手のひらに載せられたのは、小袋に入ったパイとチョコレート。それからお袋の味、という何ともいえないキャッチコピーが売りの飴数粒。
「今日はもうお菓子がないので追撃しないでくださいね!」
 こちらがまだ事態を飲み込めないうちに、鞄をしょい直して、彼女は足を翻していた。
「何だったんだ……」
 手のひらを上に向けたまま、思わず言葉を零してしまった。気づくと友人二人が、くつくつと笑っていた。片方に至っては上半身を折り曲げて腹を押さえている。
「お前ら何なんだよ」
「いやあ、面白いなあと思って?」
「……や、別に、笑ってなんか」
 何がおかしいのか、兎にも角にも馬鹿にされていることは分かったので、双方の頭にチョップをしておく。
「実験遅れるだろ! 行くぞ!」
「はいはい」
「……子ども扱いされてる、よなあ……!」
 いまだ笑い続ける友人にもう一度チョップを入れてから、俺たちは廊下を走り始めた。


PM12:35 緑川と青柳



 予測よりも五分ほど遅れて屋上に現れた風紀委員さんは、何か奇妙なものを目にしたような表情をしていた。
「お化けにでも遭ったんですか?」
 冗談で尋ねたのに、神妙な顔で風紀委員さんが頷くものだから、私は思わず笑い飛ばすのも忘れて同じ質問をしてしまった。
「……本当に?」
「そう、ちょっと待って」 
 風紀委員さんはきっちりとボタンを留めたブレザーから携帯を取り出し、かちかちと操作し始める。
 風紀委員さん──名前は緑川諒。三年生だから今は風紀委員をやっていないのに、つい癖で、そう呼んでしまう。
 彼は私のことを、図書委員と呼ぶ。私は一年生で、現役図書委員だから別に問題はない。一度、青柳沙希という私の名前を知っているかと尋ねたことがあるけれど、「つい癖で」──彼もそう言って笑っていた。
「出せた、これ」
 風紀委員さんは自身の携帯を私に見せてきた。そこには風紀委員さんと他三人の生徒(一人は私のことをどうやら「後輩ちゃん」と呼んでいるらしい男子で、一人はスポーツの得意そうな小柄な男子、一人はショートヘアの女子だった)、そしてその後ろに長身のお化けが立っていた。
「……お化けですね」
 スーツを緩く着用したカボチャ頭が、生徒とともにピースをしていた。カボチャの顔がかなり恐ろしげだったのでシュールな図だった。
「どうしたんですか、これ」
 携帯の画面に映る写真を見つめたまま、風紀委員さんに問う。彼はようやく奇妙さよりもおかしさを感じるようになってきたようで、笑いを零しながら画面の中のカボチャ頭を指差した。
「これ、うちの担任で」
「……橙野先生?」
「そう。で、今日、授業しに来る先生が皆仮装してるんだよ。ハロウィンの」
 一時間目の紫織ちゃんは魔女で、二三時間目の茶木さんは狼男でさ。橙野さんは、忘れてたみたいで朝のホームルームのときは普通にスーツだったんだけど、四時間目にはこれ被ってたんだよ。カボチャ。
 風紀委員さんは昼食のおにぎりを口に運びながら、おかしそうに先生の名前を挙げた。先生の名前は彼の今までの発言にちょこちょこ出てきていたから、私もその仮装姿を想像することができた。
「三年生の先生方、皆、仮装してたんですか?」
 まったくもっていつも通りだった一年生の先生陣を思い返す。やっぱり担当する年次によって、先生方にも色というか、特徴が出てくるのだろうか。
「そうそう、皆。何だろうね、癒しのつもりだったのかな?」
 風紀委員さんはおにぎりの最後の一口を飲み込んで、
「癒しっていうか、黒板よりそっちに目が行っちゃって大変だったけどさ」
 でもまあ有難い……良い先生たちだよ、と笑っていた。
 お弁当を口に運ぶ手を止めて、風紀委員さんを見る。
 明日から十一月に入る。制服をきっちり着込んでいても、ひざ掛けをかけていても、風が吹きすさぶ屋上は寒い。これ以上気温が低くなって、昼休みを屋上で過ごしていたらいつ風邪を引いてもおかしくない。
 十一月。三年生の十一月。あと一ヶ月とちょっとで、冬休みに入り、そしてそのあと三年生は自由登校になってしまう。受験が近い。きっと、忙しい、なんて言葉では言い表せないくらい忙しい時期。
「……私は癒しになれてますか」
 風紀委員さんがこちらにぴたりと焦点を当てた。それに少し戸惑って、そこで、思わず心に浮かんだことを口に出してしまっていたことに気がついた。
「いえ、あの」
 風紀委員さんは返事をせず、ただこちらを向いたまま静かに口角をあげた。こういうとき、私はずるい、と思う。風紀委員さんが風紀委員さんであることが、なぜだかとてもずるく思えて、けれど何も反論することができない。
「明日から昼休みはラウンジで良い?」
 ラウンジ。明日から。
 まだいっぱいいっぱいな頭で反芻する。何とか飲み込んで頷き返した。
 明日から、十一月。屋上に吹く風があっという間に過ぎ去って、また新たな月を運んでくる。


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