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ホワイトキューブ




 二年に進級し、クラスが変わった。担任が世界史好きな倫理教師に変わり、一年のときに一番仲の良かった清水とはクラスが離れた。まあ、とは言っても清水はクラスが二つ隣であるだけなのでしょっちゅう会いには来るが。
 新しいクラスが始まったばかりの頃は、出席番号順に座席が決められる。五十音で前の人から、廊下側から窓側に順々に座っていくわけだ。私の苗字は「真白」、つまり必然的に窓側の席が得られる。一番窓側の列の前から四番目。それが私の位置だ。教師の圧力から遠く窓の外の景色も楽しめる良い場所で、私はかなり気に入っている。いや、残念ながら、「いた」と言うべきか……。
「それじゃあ、全員くじ通りに移動してくださーい」
 委員長の言葉によって、クラスメイトたちはがたがたと立ち上がる。
「うわあ……俺一番前かよ……最悪だ」
「隣だね、よろしく」
 弾む声や呻き声で、教師はしばし騒然となった。
 仕方がなしに私も鞄を持ち、手の中の紙を見ながら移動する。小さな紙切れには委員長の字で十三と書かれていた。
 ……全く、誰が「席替えをしたい」などと言い出したのだろう。誰かが提案した席替えはいつの間にか多数に支持されていたらしく、こうしてくじによる席替えが行われることになってしまった。出席番号に則った席に満足していた私としては、提案者が恨めしいくらいだ。
 私が引いた十三は、廊下から三列目、それから何より一番前の席だった。つまり、教卓から最も近い、もれなく先生とお近づきになれる席だった。先生に頼まずとも宿題や予習をチェックしてもらえる、授業中魂がさ迷い出ているときに問答無用で連れ戻してもらえる、とても素敵な席だった。
「…………」
 先程「一番前かよ……最悪だ」と嘆いていた男子に大いに共感しながら、自身の運の悪さを呪う。昨日までの席が良い席だったから、これからの席と釣り合いをとれ、ということなのだろうか。
 私は席に座り、じっと机の天板を見つめていた。
「あ、席隣か。よろしく!」
 突然話しかけられ、見ると隣の席に男子が鞄を置いていた。二年になって、初めて知り合った男子なのだけれど……名前が思い出せない。まあ、まだ二年になってから三ヶ月しか経っていないということで。クラスメイト全員の名前を覚えていない、というのも致し方ないはずだ、多分。
 その男子の名前は分からないが、よく大勢の人たちと話しているというのは記憶していた。良く言えば交遊関係が広い、悪く言えば、チャラい……といったところだろうか。ここでいうその表現が適切なのかは分からないけれど。
 見た目は別に、不良のように制服をひどく着崩したり髪を派手に染めたりはしていない。そのような格好をした人たちと話しているのは見る。男子でも女子でも、誰にでも気楽に話しかけられる社交性を持ち合わせているらしい。私自身は社交的とは言い難いので、そこは羨ましい。
「あー……ええと、黒谷。よろしく」
 うだうだと考えて、口を開いたところでその男子の名前を思い出した。黒谷だ。自分でもよく思い出せたものだと思う。
「白ちゃんとこうやって話したりするの初めてだね? まあ席も隣同士になったことだし、仲良くしてよ」
 そう言って黒谷は開けっ広げに笑う。その姿は非常に好意的だ。好意的、なのだが。
「そうそう、アドレス教えて。俺、クラスメイトでアドレス知らないの、あと……」
「……『白ちゃん』?」
 喋り続ける黒谷を遮って問う。あまりにも奴が自然に言うものだから、つい流しかけたものの妙な引っかかりを感じた。
「うん? ああそう、苗字が『真白』だから『白ちゃん』。普通に呼ぶより可愛いと思って」
 どうかな? 人に勝手にあだ名をつけておいて、全く悪びれる風なく言う黒谷。
「……っ」
 高校二年にもなってそんなあだ名だとか、恥ずかしいにも程がある。しかも初めて話した男にいきなりそんな馴れ馴れしく呼ばれたくはない。
「……、じゃあ私は黒谷のことをくろすけって呼ぼうと思う」
 私は低い声で反撃を試みる。さすがに某映画に出てくる黒い塊のように「出ておいでー!」と呼ばれるのは嫌だろう(一応言っておくと、あれ自体はとても愛らしいと思う)。「他人にされて嫌なことは自分もするな」の逆をとる作戦である。
「分かった白ちゃん、じゃあお近づきの印に、ギブミーユアアドレス!」
「……は?」
 黒い携帯電話を取りだしこちらに向ける黒谷に、思わず間の抜けた声が漏れた。
 何だか話が通じていないような気がする。この男はただのアホなのか、それともわざとこうしているのだろうか?
 楽しげな様子の黒谷を改めて見る。アドレス……携帯電話のメールアドレスのことか。黒谷がこちらに自身の携帯電話を出したまま動かないので、私は返事を放る。
「携帯電話なら持ってきてない。自宅にある」
 言うと、黒谷は吹き出したように声をたてて笑い始めた。
「……、白ちゃん、携帯なのに不携帯とか……!」
 想像以上に面白いね、と笑い続ける。想像以上、とか一体何を想像していたというのか。
「明日なら大丈夫だよね? 楽しみにしてるから」
 黒谷は自身の携帯電話をパチリと閉じて、笑みを浮かべた。


「白ちゃん、今日は携帯持ってきた?」
「忘れた」
「そっかあ、じゃあ明日! 明日こそ持ってきて」
 こういったやりとりを繰り返すこと、数日。
 携帯電話を持ってくる気がないわけではない。多分。自分でも多分としか言えないけれど。そもそも使う機会がないので、正直なところ自分の部屋のどこにあるのかも怪しいくらいである。黒谷に返事をする時は、じゃあ今日帰ったら探してみるかとは思うのだけれど、帰宅した頃には忘れている。
 つまりは、私の中での、現時点での黒谷への親密度はその程度ということ。私と黒谷がアドレス交換をしたところでメールや電話をするかというとそこは甚だ疑問なので、あまり必要性を感じていないというのも大きい。
 そういうわけで私は毎日のように携帯不携帯な生活を送っている。しかし黒谷への罪悪感はほとんど感じない。なぜだろうか。黒谷の態度が軽すぎるからだろうか。
「白ちゃん、顔色悪くない? 大丈夫?」
 授業と授業の合間の、休み時間。鞄から教科書を出して机に並べ、その上にうつ伏せになろうとした時に黒谷に話しかけられた。
「……ああ、いや」
 大丈夫だ、と答えようとしてなぜか、
「最近変な夢を見て、途中で目が覚める。……おかげで睡眠不足だ」
 と率直に答えてしまっていた。
「変な夢?」
 黒谷が興味深そうに尋ねてくる。自分から言ってしまった手前、続きを話さざるを得なくなった。
「ええと、気がついたら狭い、何にもない部屋にいる……扉も家具もない、床も壁も白い部屋に」
 その後のことは言わなかった。その部屋には自分一人しかいなくて、閉塞感に息が詰まりそうになる。壁や床がどんどん狭まってきているようにさえ感じられて、言いようのない恐怖に目が覚めるなどとは。
 ふうん、と黒谷は相槌を打って、それから口を開いた。そんな夢で眠れなくなるなんて、とからかわれるかと思いつき、言うのではなかったと後悔しかけたが、黒谷の反応は予想したものとは違っていた。
「それ、ホワイトキューブみたいだね」
「……ホワイトキューブ?」
「うん。美術作品……絵とかを展示するための、何にもない白い空間のことだよ。さすがに扉はあるだろうけどね」
 初めて聞く言葉だった。説明を聞く限り、美術展などで使う場所を指すのだろうか。
「なんなら俺、白ちゃんの夢に出てくる空間に飾る用の、絵でも描いてあげようか?」
 黒谷は笑う。
 ああそうか、とぼんやりと思った。無味乾燥した何もない部屋なら、自分で何か飾ってしまえばいいのか。
 あの謎の夢に付き合い始めてどのくらいたったろうか。一時期見なくなってその存在を忘れていたこともあったのだけれど、最近また連続して見るようになっていた。いつも通り布団に入って、幾つもの夢と夢の合間にその白い部屋を見て、夜中にふっと目が覚めるのだ。
 けれどそれを、別の視点から見ることができるなら。特に何を象徴している訳でもなさそうな夢に辟易していた状態を打開できるような気がした。たかが夢と馬鹿にされそうなことでも、自分の中でどこかわだかまっていた問題が氷解した。
「そうそう、絵といえば、緑川が意外と絵描くの上手くてさあ。小学生の頃は市役所に飾られていたりしたんだよ」
 黒谷が朗らかに喋る。
「何か言ったか、黒谷?」
 自身の名が呼ばれたことに気がついたのか、緑川という男子が黒谷に話しかけた。真面目そうな誠実そうな、眼鏡をかけた男子だ。
「うわ、また黒谷が女子くどいてる」
 もう一人、緑川の隣にいた男子が声をあげる。たしか、赤池というはずだ。わりと小柄なサッカー少年である。
 二人とも黒谷とよく話しているのを見かける。三人で仲が良いらしい。チャラそうに見える黒谷と真面目そうな緑川と活発に走り回っていそうな赤池、何を共通点に仲良くなったのかは分からないけれど。
 三人は何か話していた。私は教室の、黒板の上に収まっている時計に目を遣った。あと少しでチャイムが鳴り、次の授業が始まる。
 黒谷の方をこっそり窺い見る。黒谷に対する心象が「隣の席のひたすら軽い男子」から「隣の席の軽いけれどたまには良いことを言う男子」に変わった。ような気がする。そんなことをつらつらと考えていたら黒谷と目が合った。
「どうしたの白ちゃん、そんなに情熱的に見つめられると、」
「何でもない。それよりそろそろチャイムが鳴る」
 先ほどの言葉は撤回する。やっぱり黒谷は「ひたすら軽い」。
 黒谷の言葉を遮って前を向く。教科書を整えているうちにチャイムが鳴った。教師はまだ来ない。
 明日は携帯電話を持って来ようか、とふっと思った。


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