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 雨が垂直に地面に向かって降りてきては、ざらついたアスファルトを黒く塗り込めていく。どんよりと暗い灰色の空を見上げ、生徒たちは不満げに声を漏らす。
「やだあ、今日傘持ってきてないよ」
「天気予報で雨なんて行ってなかったよなあ? 俺チャリで来たんだけど」
 口々にそんなことを言いながら、彼らは昇降口を潜っていく。
「あたしの傘大きいから、ほら、入れてあげるよ」
「何、お前チャリなの? 馬鹿だなあ、風邪引くぞ……ああ、馬鹿だから風邪は引かないか」
 しかしそれでも、不平を零しながら彼らはどこか楽しげに見えて、清水は静かに、唇の端から息を漏らした。それは帰路につくために次々と校舎を出ていく生徒たちには、全く気どらせない類の小さなため息ではあったが。
 午後になって急に降り出した雨に、傘を持っていないわけではなかった。着用三年目でありながら型崩れしていないブレザーに、プリーツの整ったスカート。それらに身を包んだ彼女の手には、茶地に赤チェック柄の傘が握られていた。折りたたみ式ではない、骨組みのしっかりしたものだ。
 小さく、彼女は再び息を零した。下駄箱の側面に背中を預け、ぼんやりと天井の溝をなぞる。
 彼女は誰か人を待っているわけでも、雨止みを待っているわけでもなかった。彼女の一番の友人である、真白という女子は最近、どこかいけ好かない男子と一緒に帰ることが多いし(その男子の名前を出すことすら顔をしかめずにするのは難しい)、何より彼女とは常に一緒に帰る約束をしているわけではない。雨が当分止まないことは、今朝家を出るときに聞いているので分かっている。実際のところ、空を覆う厚い雲は当分途切れることがなさそうだ。
 目を閉じれば生徒たちの喋り声は遠退いて、アスファルトを叩く雨の音が迫ってくる。
 けして美少女というわけではないが、日本人らしい黒髪を水平に切り揃え、丈の長いスカート姿で目を閉じている彼女は、ややもすれば少し古めかしい時代の絵画から滑り出てきたようだった。
 ……あの日もこんな、雨の日だった。
 深く深く押し込めていたはずの言葉が水底から浮かび上がってきて、彼女の頭の片隅でたゆたう。まるで存在を主張しているかのようだった。
「あ」
 どこか苦虫をかみつぶしたような、そんな低い声が耳に届き、清水はゆっくりと瞼を押し上げた。
 そこには彼女の見知った男子が立ち尽くし、眉を寄せてこちらを見ていた。彼の首元で緩められたネクタイには深緑色のラインが入っている――これはこの学校において二年であるということを意味しているのだが、何よりも彼を特徴づけるのは、その頭髪の色だった。金色、と表現してよいのかどうか、とにもかくにも彼の髪は染められて、日本人独特の「金髪」となっていた。つい一週間ほど前に、清水が彼に会ったときには地毛であったのだが。
 清水は彼の姿に目をしばたたかせたものの、薄く唇を開いただけで何も言わなかった。あたかもたった今目を覚ましたかのように、ただ男子を見つめる。
 対して男子は、普段と違う清水の様子に狼狽したのか、「……何だよ、何か言えよ」とより一層苦々しさを深めた声音で言う。
 しかし清水は言葉を紡がず、奇妙な沈黙が二人の間に落ちる。
「あー……」
 やがて男子はがしがしと頭をかいて、調子狂うな、と呟いたあと、自身の手にあった折りたたみ傘を、勢いよく清水の方に向けた。
「……?」
 状況の飲み込めない清水は男子とその傘を交互に見比べる。
「あー、あんたの傘寄こせ」
 三年、仮にも先輩である清水に向かって、二年である彼はぶっきらぼうに言う。言われるままに清水は自身の傘を差し出して、代わりに彼の傘を受けとった。何の変哲もない、水色の折りたたみ傘である。
「その色なら別に使えるだろ。これ、一日借りるぞ」
 男子は外に向けて、清水の物である傘を開いた。大きな音が雨の中に響いて一瞬全ての音を支配し、間もなく雨粒がばらばらと、傘の上で踊り始める。
「……あの、ええと」
 事態の流れについていけていない清水は、いつものように彼を叱ることも出来ず、まともに形にならない疑問を零す。
「普段と違う傘なら、雨の日も少しは嫌じゃなくなるかもしれねぇだろ」
 校則違反の金髪をした後輩は、それだけ言ってくるりと方向転換し、校門に向けて歩いて行った。本来は清水の物である傘が、だんだんと小さくなっていく。
「……どうして」
 その後ろ姿を見つめながら、清水は口を開く。
 どうして私は雨の日が嫌いだって、分かったのかしら。
 家族にも友人にも、それを示唆するようなことを話したことはない。寧ろ人の集まるところでは、雨雲を蹴散らすかのように明るく振る舞っていたものなのに。
 青空のように涼やかな水色の折りたたみ傘を握り直す。
 そのとき携帯電話がブレザーの中からくぐもった音を発した。慣れた手つきでそれに応える。
「はい。……ええ、そう……いいえ、今日は結構ですわ」
 携帯電話を耳にあてたまま、清水は一歩外に向かって足を踏み出す。
「本日は駅まで歩いて帰りますので、迎えは寄越さなくても大丈夫です」
 清水は傘を開いた。初めて目にしたあの男子の笑顔を思い返す。
「……ええ、ありがとう」
 電話口の相手に微笑んで通話を切る。
 使い慣れない傘の骨組みをかちりと固定すると、一瞬、まるで傘が吸い込んでくれたかのように、さあっと辺りの音が聞こえなくなった。清水は雨が降る中へと、青空に似た色の傘に包まれながら入って行った。


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