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たとえ世界を敵に回しても



 放課後の教室は生徒が机に張りつけられていないというただそれだけで、随分と空疎なものになったように感じられる。沈みかけた夕陽が窓から遠く差し込み、何物にも遮られず教室の奥まで伸びている。時計が穏やかに時を刻む。その音に溶け込むように、三年一組と札が掲げられた教室には二人の生徒が残っていた。
「黒谷、さっきから何読んでるんだ?」
 教室に並んだ七個かける六列の机のうち、一番窓側、前から二列目に座った男子が口を開く。彼は制服のボタンをきっちりと閉めネクタイも校則通りに着用している、新入生への手本としてあげられそうな風体をしていた。この男子の服装が校則として生徒手帳に記されているものである以上、本来この高校の生徒は皆彼のような服装をしているべきなのだろうが、ほとんどの高校においてそうであるように、規定通り制服を着こなしている者の方が少なかった。
「ん? うん、これ、女子の忘れてったやつなんだけどさ、今やってる映画とか載ってて」
 黒谷と呼ばれた男子が顔をあげる。教卓の上でパンフレットを広げる彼は、窓側の男子、緑川と反し、制服にはない灰色のセーターに身を包み、ネクタイを軽く緩めていた。校則はあっても教師からの目がさほど厳しくないこの高校では、そう珍しくない服装だと言えるだろう。
「映画? 何か面白そうなのやってたか」
 緑川は教科書をめくる手を緩めぬまま応える。眼鏡の奥の目は真剣な眼差しで文章を追っていて、黒谷との会話は片手間という様子だった。
「いや、映画館に行って金出してまで見たいと思うのは……あ、緑川の好きなシリーズの続編が来月公開だってさ」
「それはもうチェック済み」
「さすが。今公開してるのにそんな面白そうなのはないなあ」
 そう言って黒谷はぐぐ、とストレッチをするように両腕を伸ばし、パンフレットを遠ざける。緑川は、粗方眺め終わったのか暇そうな素振りの黒谷を一瞥した。
「今CMでやってるやつあるだろ、軍隊モノの……何だっけタイトル。……忘れたけど、あれ行ってくればいいじゃないか」
 黒谷は珍しいことをいう友人に目を遣る。普段の彼ならば遊んでばかりいる赤池に宿題は期限までにやれジャージはきちんと畳めだとか、その場の気分で好き勝手に女子に軽い台詞を吐く黒谷にお前はもうちょっと自覚と責任を持てだとか、そういった同級生らしからぬ忠言をしているはずだった。
「珍しいな緑川がそんなこと言うなんて。あの後輩ちゃんの影響?」
 黒谷はからかうように言って、
「でもまあ、土日はバイト入れてるし、そんな映画見に行くような金もないし? 折角のお言葉有難いけどまたの機会だな」
 パンフレットを何気なくめくる。
「あ、これか。今まさに緑川が言ってたの」
 そこには丁度緑川が提案していた映画の特集が、二ページ見開きを丸々使って扱われていた。黒谷の目で見たところ、若手女優から人気俳優まで、それだけで観客を集められそうな役者を集め、大規模なセットを用いて壮大なストーリーを展開し、はらはらさせる戦闘シーンにヒロインとの純愛で最後は涙無しには返さないという集客根性たっぷりの作品らしい。ページ全体をざっと眺めたところで、
「──『たとえ世界を敵に回しても』?」
 思わず書いてあった文章を声に出す。
「ああそれ、映画のキャッチコピーだろ。爆風の中で主人公が相手役の女優に言うっていう……『たとえ世界を敵に回しても、俺は君のことを守ってみせる』だったか」
「何それ……緑川俺に告白してんの?」
「たとえ世界を敵に回しても、お前に告白するなんて事態は絶対に招かないから安心しろ」
 はは、と緑川が乾いた笑いを見せる。こういうとき、緑川が怒っていないように見えて意外と沸騰寸前まで温度を上げていることを、黒谷は長年の付き合いから知っている。
「にしても大それたキャッチコピーだな」
 つうかCMでネタバレしてどうするんだよ、と黒谷は話題を逸らす。それはどうやら成功したようで、緑川はすんなりと修正された軌道に乗ってきてくれた。
「前からそういうの流行ってるだろ。ほら、世界の中心で〜とか、永遠に君を〜、とかさ。実際言ったら顔から火が出そうなやつ」
「うん、女子たちが少女漫画にやたら盛り上がってたな」
 黒谷は手の中の薄い冊子を畳み直し、元あったような角度で置き直した。頭上の時計を見遣り、そろそろか、と思案を巡らす。緑川はそんな黒谷の様子に顔を上げた。
「で、それ観に行ってくればいいじゃないか」
 緑川はさらりと言う。さすがの黒谷も今までの会話の流れを全て飛ばしたような口調に呆気に取られたようで、は、と目を丸くして声を零した。
「その純愛モノを? 男一人で、わざわざ金出して? おかしいどころか気持ち悪いだろそれ!」
 緑川は俺に何を求めてんの? と困惑の表情でさらに問いただす。
「俺もそんな友人には正直引くわ……そうじゃなくて、真白と行って来たらどうだって話だよ」
「白ちゃんと? 何で?」
「何で、って……」
 先ほどから疑問符を飛ばしてばかりの黒谷に、緑川は口ごもる。てっきり気に入っているらしい女子と映画を見に行くとなれば、喜んで答えるだろうと思っていたのに。
「いや、俺の勘違いだったみたいだ。気にしなくていい」
 緑川はそう言って、一度閉じた教科書を再び開いた。黒谷は訝しげな視線を緑川へと送ったが、詳しく追求することはせずに視線を床に落として鞄を拾い上げた。それを肩にかけ、扉へと一歩足を踏み出す。ふと思い出したように振り返って、
「そう言えば、緑川だったらどうする? 世界中の人間を敵に回してでも、あの後輩ちゃんの味方につける?」
 パンフレットの表紙を見つめながら尋ねる。
「あー……どうだろうな」
 黒谷が想像したほど動揺することもなく、緑川は言葉を濁した。
「万が一、いや億が一、そんなことがあったらそのとき考える」
「緑川らしい……っていうかお前とあの後輩ちゃんならそれで一月くらい論議してそうだな!」
 揶揄するようなその口調に、お前はどうなんだと緑川は切り返そうとする。そのとき勢いよく扉が開かれた。
「黒谷、待たせた! やっと橙野先生が解放してくれて──」
 頬を上気させながら早口に喋るその女子、真白は教室に二つの人影があるのに気がついて動きを止めた。
「……緑川」
「お疲れ、真白」
 小さな子どものように顔を赤らめる真白に、緑川は気にしていないといった風に笑う。
「じゃあ白ちゃん、帰ろうか」
 黒谷は笑いをこらえながら真白に言う。その一言に真白が我に返ったようにして、
「あ、え、緑川は?」
 尋ねると、
「緑川は後輩ちゃんを待ってるみたいだから」
 なぜか緑川本人ではなく黒谷が楽しげに返事を寄越した。
「あくまで勉強のついでだ」
 緑川が淡々と反論する。
「またそうやって、姫を守る騎士のくせに照れちゃって」
「うるさいさっさと帰れ!」
「はいはい、分かりました」
 真白を押し、また明日、と声を放って黒谷は教室から出る。影が長く伸びる廊下を、二人で連れ立って生徒玄関へと向かう。この階の教室に残っている生徒は他にいないようで、上履きの立てる音だけが後ろへと流れていった。階段に差し掛かり、一つ目の踊り場を通過して、真白がようやく口を開く。
「さっきの……姫を守る騎士、というのは何の話だ?」
 先ほどその言葉が話題にあがってから、既に数分は経過している。まさか黙していた間ずっと真白はそのことを考えていたのではと、黒谷はこみ上げる笑いを堪えながら返事をする。
「ああ、それは、映画の話で……白ちゃん、知ってる? 『たとえ世界を敵に回しても、俺は君のことを守ってみせる』」
 黒谷の台詞に真白は目を見開き、しかし間髪入れずに視線を落とし、
「……い、いや、知らない」
 妙にくぐもった声で言う。そんな真白の挙動不審な返答にはあまり気を留めず、黒谷は続けた。
「今公開中の映画らしいんだけどさあ、主人公がヒロインにそうやって言うらしいよ。で、緑川は後輩ちゃんに同じことをできるかって聞いて、からかって遊んでた」
 緑川の反応を思い返しているのだろう、楽しげに黒谷は笑う。
「黒谷は?」
「うん?」
「黒谷はどう思う? もしも──もしもの話でしかないが、好きな人か、その人以外の全員か、どっちか選ばなきゃいけなくなったら」
 下を向いたまま、真白は尋ねる。ごくごく自然な、放られたボールを同じように投げ返すだけの言葉であるはずなのに、ひどく緊張しているように見えた。
 黒谷は真白を一瞥する。緑川のように、その時になったら考える、という答えは彼女に通用するのだろうか。しかしそこで即答を放棄しなくとも、自分の中には既に答えはあるようだと気がつく。
「極論になるかもしれないけど」
 前置きすると、真白が黒谷に注目するように顔を上げる。
「世界の全員と敵対した人を、俺が好きになったとして。二人で手をとって逃げ出して、逃げても逃げてもそれでもきりのない生活に嫌気が差したとして」
 まばたきをしない真白の両目を、黒谷は見つめ返す。
「俺が、俺と彼女以外の人間を全員殺してしまったら、そんな俺と今後も付き合っていける人間なんていないと思うよ」
 そして結局、俺は一人ぼっちになるんじゃないかな。
 その内容とは裏腹に、笑い飛ばすように黒谷は言う。
「……それは、」
 真白はぽつりと呟くように言った。黒谷は続きを待ってみたものの、どうやらそれは出てこないようだった。沈黙が下りて、そうしているうちに生徒玄関へと辿り着く。
 再び顔を伏せてしまった真白を見、気づかれないように肩を小さく竦め、明るい口調を作る。見るからに落ち込ませてしまったらしいこの友人を、慰めるにはどういった手が有効だろうか。思案して、緑川の言葉を思い出す。彼のあれは、この時のためのアドバイスのつもりだったのだろうか。だとしたら、とんだふざけた預言者だ。
「白ちゃん、今度、映画観に行かない?」
「え?」
「いや、映画の話してたらさ、昔、白ちゃんが映画に誘ってくれたのを思い出して。あの時断っちゃったからさ」
 忘れろ、と言われた過去の話を蒸し返すと、真白は一転、顔を赤くして捲くし立てる。
「なっ、あの時のことは……」
 尻切れトンボのように声量が小さくなっていって、文末が聞き取れない。彼女にとって、黒谷を映画に誘ったことは黒歴史か何かに分類されているようだ。
 何にせよ、彼女の気分を変えさせることには成功したらしい。黒谷は内心嘆息する。
「もし良ければ、今度。俺のバイトがない時になるから、だいぶ先になるかもしれないけど」
 いつものように笑う黒谷に、真白は無意識のうちに小さく息を吐いて、頷いた。
「行きたい。……黒谷、何か見たい映画は?」
 上履きを靴箱へと仕舞い込み、代わりにローファーに足を入れる。隣では黒谷が既に外靴へと履き替えていた。
 真白が鞄を持ち直したのを認め、黒谷は生徒玄関の扉を開けた。若干の抵抗を伴って、扉が横滑りして開く。そうだなあ、と黒谷は前を向いたまま言葉を漏らした。
 特に思いつく様子のない黒谷の背中を、真白はしばし見つめる。
「とりあえずは、さっき言った映画以外だろう」
 同じ仮定の話を自分が振られたら、何と答えるか。答えは胸の奥に仕舞い込んで、真白は黒谷について校門をくぐった。


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