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二月十四日。



 長かった学校での一サイクルも終わった金曜日の放課後、社会人の仕事終了時間のまだ訪れていない書店は人もまばらで、学生が気兼ねなく過ごせる場所となっていた。そう大きくはない書店なので陳列されている本の数は多いとは言えない。ある程度で折り合いをつけて適当な一冊を選び、その参考書を特に並ぶこともなく購入した。一枚の紙と引き換えに受けとった紙袋を右手に吊り下げ、俺は店内を見回す。
 店舗入口に近い、背の低い棚が並ぶ一角に真白はいた。俺が本を選んでいる間、ずっとそこで待ってくれていたのだろう。やや早足気味にそちらに近づくと、彼女は商品を手にとっているようだった。気まぐれにページをめくるような立ち読みではなく、真剣な表情で瞬き一つせず見入っている。一体何を読んでいるのかとさらに近づくと、写真で鮮やかに彩られた、どうやらレシピ集のようだ。
「白ちゃん」
 呼ぶと彼女は夢から覚めたように様相を一変させ、慌てふためいてこちらを向く。
「く、黒谷か」
 彼女はその返事の裏に隠すようにして本を閉じ、元あった棚にするりと戻す。
「買い物、待っててもらったんだから俺も付き合うけど……白ちゃん、いいの?」
「や、ただ美味しそうだと思って見てただけだから。いい」
 その本を顎で示すと、真白はやり場がなかったのか左手をくるくると回しながら、どこか弁解するような口調で言う。真白も「女子」の例に漏れず甘い物が好きだよなあ、などと思い返しながら改めてその本を見ると、レシピはレシピでもお菓子作りのものだった。その周りの物も同様に。どれも過剰摂取になるのではないかと思うほど粉砂糖が振られていて、酷く甘そうだ。
 頭上を仰ぐと店内には「バレンタインフェア」とピンク色のロゴがいくつも吊られていた。それでこんな一角があるのか、と妙に納得した。
「こういうイベントって、たった一日のためによくこんなに騒ぎ立てるよなあ……」
 クリスマスやバレンタインなど、過剰ではないかと危惧するほどに単色に塗り込められる町並みを思い返しながら、ふっと呟く。あれだけ騒いでおいて、しかし当の一日が過ぎ去った後には何の余韻も残さない。これは日本人特有のものなのだろうか。
 そのまま真白の方に顔を戻すと、ひどく驚いた表情をしていた。目を見開いたまま、けれど何も言わない。
「どしたの? 白ちゃん」
「…………いや」
 真白は再び本を一瞥したもののそれを手にとることはなく、そのまま書店を出ることとなった。
 駅に向かう道筋で、切り替えたように真白はくいと顎を上げた。
「よし、黒谷、お前には義理チョコをやろう」
 やや偉そうに断言する。
「義理チョコ……というか友チョコだな。まあ所詮私のレベルではあるが、貰えるだけ有難いと思え」
 その高圧的な口調に思わず吹き出してしまった。「友チョコ」という世の流れに則った言葉と、それがどことなく俗世離れした真白の口から出てくるという事実が似合わない。
「……はは、白ちゃん、何、俺にチョコくれるの?」
 俺が笑い続けていることに気分を害したのか、真白は頬を僅かに膨らませる。まるで子どもだ。
「要らないって言うなら、やらない」
「いや、いる……ください」
 未だ拗ねたままの口調に、笑いの沸点が低くなって再び声をあげてしまいそうになるのを堪えながら取り成す。何なら本命でも全然構わない、とふざけると更に顔を反らされた。
 俺は密かに笑い続け、真白は小さな子どものように不機嫌を装い続ける。傍から見たら奇妙な二人だったろうことは間違いない。そんな状態のまま駅前へと辿りついた。
「じゃあ白ちゃん、また明日」
 俺のアパートと真白の家の方角は微妙にずれているため、駅前で別れることになる。駅の入り口も近い交差点で真白に別れを告げると、彼女はようやく顔をこちらに向けた。
「黒谷、お返しは三倍返しだからな」
 ひどく真剣な表情でそう言って、しかしその顔はどことなく上気していた。そのままさよならの一言も言わず、彼女は点滅する信号を目にすると道路を渡って行った。俺はやや呆然としながら、小さくなっていくその背中を見る。
 ……まったく、本当にこちらを退屈させない。
 彼女に付き合って、たった一日、けれど多分楽しみにする人々にとっては大きな意味を持つイベントの一つに乗ってみるのも面白いかもしれない。ふっとそう思った。

***

 駅前で黒谷と別れた後、私はいつもよりもやや早足気味に家へと向かい帰路に着いた。まだ顔が熱を持っているような気がする。
 まったく、我ながらどうして、バレンタインだからといって黒谷にチョコをやると宣言するなどと血迷った行動をとってしまったのだろうか。本命でも全然構わないよ? などと、ふざける黒谷の顔が思い浮かぶ。黒谷は誰にでもそのような態度をとるが、けれどやるべき時はきちんとやるし勉強も運動もそこそこできる。手作り、且つラッピングまで手を抜かない女子によるチョコレートを幾つも貰うに決まっている。
 答えの出ない後悔を何週か巡らせた後、私は自室の本棚に向き直った。咄嗟に言ったとしてもあの時の自分の感情に嘘はなかったはずだ。あれだけ堂々と見栄を切ってしまった以上、二月十四日当日に「作れませんでした」では敵前逃亡したと思われるだろう。
 本棚を端から端までさらったが、目当てのものは見つからなかった。小学生の頃に貰ったはずのあの小冊子は、幾度かの大掃除の際に処分してしまったのだろうか。その小冊子は小中学生でも作れるように多くの写真と平易な言葉を使ったお菓子のレシピ集だったが、見つからないのならば仕方ない。しかし、黒谷と寄った書店で立ち読みした本は私には難しく、あれを購入したとしても解読できるかどうか怪しいものだ。仮にチョコレートを扱ったとして、テンパリングという工程から未知の領域である。そもそも我が家には温度計がない。
 自分自身に軽く溜め息を吐いて、私は先ほど落としたばかりの鞄に手を伸ばし、ファスナーを開いて文明の利器を探す。昔に比べてだいぶ慣れた手つきでキーを押し、メールを一通送る。
 と、間髪入れず携帯が震えた。こんなことが以前にもあったような、と既視感を覚えながら通話ボタンを押す。
「ご機嫌よう真白、メールを送ってくださるなんて嬉しい限りですわ!」
 電話の向こう側から、ひどく喜びに満ちた清水の声。既視感が更に募る。
「清水。手っ取り早く話せるのは嬉しいが、電話で大丈夫なのか」
 彼女が自力で通学するには電車を乗り継がなければいけないと言っていたのを思い出しながら問うと、
「ああ、問題ないですわ。お心遣いありがとうございます」
 朗らかな声の裏に、自動車の駆動音を聞き取る。ならば問題はないか、と嘆息する。
「それで真白、書店へのお誘いとは一体どのようなご了見で?」
「ああ、あの、バレンタインのお菓子の本を選ぶのに付き合ってほしい」
 一人で選ぶのには骨が折れそうで。言葉がだんだん濁されていくのを自身でも自覚しながら、電話口の向こうに声を放る。すると清水はあっさりと承諾の意を示してくれた。
「良いですわ、真白の頼みならば喜んで。……ただし」
「ただし?」
 つられるようにして反復すると、
「その作ったお菓子を黒谷にあげるのだけは許しませんわ!」
 人差し指をびっと前に出して宣誓するかのような、そんな清水の姿が思い浮かぶ。
「…………いや」
 それでは私の目的が本末転倒してしまう。勿論、上手くいったならば清水や同じクラスの面々にあげるつもりではいるけれど。
「許しませんわよ! 全く、真白もあの腹黒男に毒されすぎですわ!」
 本人が居ないのを良いことに言いたい放題だ。このままだと軽く十分はそんな台詞を言い続けそうだったので、「分かった」と早めになだめておいた。
 清水も渋々納得してくれたようで、それからは二言三言言葉を交わし、来週の月曜日、放課後に大型書店へ行くことに決めた。お菓子作りの得意な清水ならば、私でも作れるようなレシピを簡単に選んでくれるだろう。持つべきものは女子らしい趣味を持つ親友である。
 通話を終えた携帯を畳み、それを手の中に握り締めたままベッドにもたれかかる。そう言えば、と、先程の黒谷の台詞を思い出す。「こういうイベントって、たった一日のためによくこんなに騒ぎ立てるよな」と。黒谷にしては珍しく冷めた口調で、誰に言うともなく呟かれた台詞。もしかすると黒谷はバレンタインというものが嫌いなのだろうか。いや、学生の間では、最早女子が友人同士で手作りお菓子を交換するのが主流となっているという。楽しみにしている男子など彼女持ちくらいのものか。あるいは、甘いものが嫌いだとか。それならばお菓子をいくらあげたところで喜ばれない。そう考えたところで、昼休みに黒谷が菓子パンを食べていることがあったことに気がついた。
 ……何にせよ、黒谷も喜んでくれればいい。結局のところそんな単純な考えに帰着して、私はそのまま両目を閉じた。


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