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 ハローハロー、聞こえてますか。
 システムオールグリーン、こちらは異常無しです。予定通り、このまま軌道に乗って進みます。


システムオールグリーン



 帰宅した頃には既に夜遅く、部屋の中は真っ暗だった。今日の空は曇ってこそいないが、月に雲がかかっていたので明かりはろくに届かない。街灯のオレンジ色の光が窓から鈍く差し込み、輪郭のぼやけた長方形を形作っている。
「ただいま」
 誰に言うともなしに呟いて、俺はぱちりと部屋の電気を点けた。途端に白い光が、数少ない家具を浮かび上がらせる。
「……あー、疲れた」
 ソファーベッドに鞄を落とし、その隣にその身を埋める。
 瞼を閉じると、やっぱりあの時、逃げるようにしてでも帰ってくれば良かったという考えが頭を掠める。バイト先でよくシフトの重なる、女子大生の顔が思い浮かぶ。
 ちょっと黒谷君に相談したいことがあるんだけど、だめかな。バイトが終わり、早々に帰ろうとしていた俺を引き止め、彼女は両目を伏せた。そんなに時間はとらせないから、お願い。そう言って、今度は視線を上げて両手を合わせた。俺は時計を見、心の中で嘆息する。自分よりも長く生きていて、人生経験も積んでいるであろう彼女が、一体何を相談するというのだろう。同姓に相談した方が、異性である自分にするよりも、遥かに有意義な相談になる気がする。そもそも彼女は、いくら年下といっても男子に積極的に声をかけるような、そんな性格の持ち主だっただろうか。言葉が次々と浮かんできては渦巻く思考に加わっていったが、それを口には出さなかった。
 結局、俺は彼女と駅前のファストフード店に入り、ざわつく店内で向かい合うこととなった。彼女はなかなか引き下がりそうになかったし、「話」ではなく「相談」ならばまあいいか、と妥協したためでもある。大量の氷で薄くなったアイスティーを流し込みながら、それでも失礼にはならないよう気をつけつつ、話を聞く。訥々と話す彼女の相談の内容を概略すると、大体こんな感じになる。
 彼女の友達の話だ。その「友達」をAとする。Aには、二、三年前から想っている人がいた。周囲の人間関係に詳しい友人にそれを話したところ、その想い人もAのことを好いているはずだという。友人はAとその男子が両想いであることを喜び、男子の友人をも巻き込んで、二人をくっつけようとした。まずは一日デートだ、という話になる。Aはその男子と映画を見に行き、食事をし、帰りは家まで送ってもらった。その男子は優しかったし、会話も弾んだ。しかし、何かが違う、と感じたという。感じたけれども、それを誰か、特に自分のことを思って今回のデートを取り持ってくれた友人には話せない。Aは気が重いままアルバイト先に向かったが、そこで同じくアルバイトをしている男子と雑談をし、彼と話した後は晴れやかな気分になることに気がついた。彼といると自分は素の自分でいられる。疲れないし、彼の笑顔を見ていると幸せな気持ちになる。二、三年も想っていた男子のことは好きだ。どうやらその男子も自分のことを好いてくれているらしい。けれど、アルバイト先の男子のことを思い出している時間の方が、どう考えても長い。このままだと流れで、三年間想っていた男子と付き合うことになりそうだが、彼に対して不誠実なことはしたくない。Aは悩んでいるそうだ。
 どうすべきだと思う? 「悩んでいるA」の友達であるらしい彼女はそう言って、実に一時間にも及ぶその話を締めくくった。相槌を打ち続けるのも大変だった。
 ところでそのAって誰ですか、君に当てはめても問題がないように思えるんだけれど。浮かんできた言葉に、自分でも意地が悪いと思った。自覚がある分、口にも表情にも出さないようにする。しかし、何でこんな相談を俺にするんだ。真剣な回答が欲しいなら女子に、それこそその友人に聞けばいい。俺に聞かれたって、Aは恋に恋しているようにしか思えない、なんて回答しか出てこない。
「黒谷君?」
 彼女は心配そうに首を傾ける。
「んー、その子はその男子のこと、三年も前から思い続けてきたんでしょ? それってなかなか出来ることじゃないと思うんだよね。彼の長所短所を知り尽くした上で、それでも好きなわけだ。それならそっちの想いの方が本当だと思うよ、俺は。想い続けるっていう現状維持に耐え切れなくなってきたその子が、近くにいたアルバイト先の人の方に揺れることで、何らかの事態の進展を求めているようにも思える」
 俺は喉元に駆け上がってきた言葉を、ろくに検問もしないまま放り投げた。まあ俺が言えるのなんて推測でしかないけどね、と一応の断りも付け加える。こういう時の俺はやけに饒舌で、そして他人に見せるのは大抵こんな自分だから、俺は他人から随分お喋り好きな人間だと思われていることだろう。否定は、しないけれど。
 彼女は俺の言葉に表情を二転三転させ、それから再び話し始めた。俺は思いつくままに言葉を返した。
 俺と彼女が別れたのは、バイトが終わってから約二時間半後。Sサイズのアイスティー一つで、こんなに長くファストフード店に居座っていたのも初めてかもしれない。
 少し泣き出しそうな表情をしていた彼女が駅に消えるのを見送って、俺は自転車に跨る。色々なことを考えながら自転車を転がしているうちに、いつの間にかアパートの前まで来ていた。自転車を駐輪場に入れ、疲れが全身に回っていくのを感じながら階段を上る。ようやくの帰宅だった。
 俺はソファーベッドの上で頭を傾けたまま、腕だけを鞄に伸ばし、携帯電話を手に取る。スライド式の上部を滑らせてボタン部分を開くと画面が明るくなった。クラスメイトの緑川が赤外線で送ってくれた空の写真が、目に飛び込んでくる。清々し過ぎるほどに青く澄んだ空だ。その待ち受け画面の下の方に、テロップが出ていた。着信三件、という文字が横に流れていく。
 一体誰だ、と思いつつ着信履歴を確認すると、全て自宅からだった。五時から一時間に一回ずつ、計三回。
「平日は毎日バイトだって言ってんのに……」
 こちらから電話し直そうとして、今の時刻を目にして考え直す。十時七分。普段通りなら、十時過ぎには家族三人とも就寝準備を始めている。そんな時間に電話でもしたら、そんな非常識な子に育てた覚えはないわよと、眠気で少し不機嫌な母の説教が始まるのが関の山だ。それは避けたい。父母はともかく、中学生である妹も十一時には寝てしまうのはどうかとも思う。
 明日の昼にでも電話してみよう。そう決めて、俺はようやく立ち上がった。部屋の隅にある小さな冷蔵庫を開けるが、中にはペットボトルしか入っていなかった。ああ、昨日で丁度食材を使い切ったんだった、とそこで思い出す。今日買い物に行って、そこで夕食に何を作るか決めることにしていたから米も炊いていない。
 俺は財布と携帯電話、鍵という必要最低限の物だけを手にして部屋を出た。向かう先は、アパートから徒歩三分のコンビニエンスストアだ。学生の一人暮らしにコンビニ食は経済的にやや辛いものがあったが、気だるさがその思いに打ち勝った。
 夜でも、いや夜こそ煌々として明るいコンビニに入り、店員の挨拶を受ける。二十四時間営業のお店なんて、まったく便利なものだと思う。母も口癖のようによくそう言う。俺はコンビニエンスストアがとうに普及した時代に生まれたから、その実感は母よりも薄いのかもしれないが。
 賞味期限が近いのか値引きのシールが貼られたおにぎりを二個取って、ついでに飲料系のコーナーへと進む。ずらりと並ぶ紙パック飲料の表面をざっと眺めたが、特に目新しいものは見つからなかった。
 ペットボトルの棚も見ようかと体の向きを変える。と、正面から客が進んでくるのに気がついた。知人、どころかよく知る友人の真白だった。
 真白、クラスメイト。帰宅部の女子。聞きようによっては偉そうにもとれる、中性的な喋り方をする。可愛い、と言うよりは、凛とした、という表現の方が似合う。
「白ちゃん! 奇遇だね、こんな時間にこんなとこで会うなんて」
「黒谷か」
 近づくと、真白は目を細めた。
「白ちゃんも買い物? こんな時間に、女の子一人は危なくない?」
「私は塾帰りだ」
 俺の質問に、真白は棚の商品を見ながら答える。ゼリーやプリン、ヨーグルトなどが置かれている棚で、彼女は食い入るようにそれらを見ていた。塾帰りだから一人でも危なくないというのか、そんな反論も頭を過ぎったが、どうやらデザートに気を取られて返事どころではないらしい。
「塾ねー……白ちゃんは勉強熱心だねー。俺は勉強嫌いだからなあ、塾行く気も起きない」
 これはわりと本音だったが、そう言うと真白は今度こそこちらに目を遣り、黒谷はそれでも勉強できるだろう、とさらりと口にした。ここに羨望も嫌味も入ってこないところが、真白の良いところだと思う。俺は曖昧な言葉を返して、彼女の横に並ぶ。
 真白は何種類もの果物が入ったゼリー、苺やブルーベリー、ラズベリーなどが入ったヨーグルト、最後にプリンを手に取って重ねた。それら全てを購入するつもりらしく、タワーが崩れないように両手で押さえ込んでいる。どうやら彼女、果物の沢山入ったものが好きらしい。そう言えば女子のお弁当にはよくデザートに果物とかついてるよなあ、と思い至って、何だか可笑しくなった。
 二人連れ立ってレジへと足を向け、先に俺が商品を出した。時間帯が時間帯だったので店員は一人しか居らず、俺と真白は自然縦に並んだまま会話することになった。
「そう言えば」
 デザートタワーをしっかりと抱えたまま、真白が後ろで言った。振り向いた矢先に、店員が遠慮がちに金額を言ったので、慌てて正面を向き直す。
「大変だな、豪雨だなんて」
 会計を終えて、真白が商品を出せるように俺は横へと逸れた。受け取ったビニール袋の輪を腕に通す。
「うん?」
 脈絡もなく始まった真白の話に、聞き返す。
「台風。夕方から今夜にかけて、西日本を襲うだろうって、テレビで言っていた」
 金額きっかりの硬貨をカウンターに並べながら、真白は言う。その真意がよく掴めなくて、オウムのように俺は再び問いを返した。
「さっきワンセグで見たニュースによると、今日一日は雨が降り続くそうだ。結構な降水量だった。天気予報士がずぶ濡れになっていたからな」
 こいつ、この間まで携帯電話でメールを送ることすらできなかったのに、ワンセグまで扱えるようになったのか。場違いな方向に驚嘆する俺を見て、勘違いしたらしい真白が続ける。
「心配だな」
「……心配? 白ちゃん、西日本の方に何か縁あったっけ?」
 扉を引き、真白が出るまで押さえておく。客の入退店を告げるブザー音に見送られて、俺達はコンビニを出た。しかしそのまま歩き出さず、土地を目いっぱいに使った駐車場に立ち尽くす。俺のアパートと真白の家の方角は逆なので、話し続けるためには自然立ち止まることになる。
 真白は一瞬目を見張り、それから一転して、眉をつり上げるようにした。
「黒谷、お前自分の実家がどこだか覚えてるか?」
 疑いの眼差しを向ける彼女に、勿論覚えてるよと言ってやる。俺はアパートに一人暮らしをしていて、家族は西日本の方に住んでいる。それは忘れる訳がない。
「……白ちゃん、もしかして俺の家のこと心配してくれてたの?」
「お前が心配しないから、代わりに私が心配していたんだろう」
 未だ怒ったままの口調で、真白は言う。
 台風。台風か。大雨が自分の住んでいた県を襲うのは珍しいことではなかった。そういう時は家族揃って、家の中に篭ってやり過ごしていた。俺が今住むここまで、台風がやってくることは珍しい。ここに来る前に太平洋へと逸れていくことがほとんどだからだ。
 自宅から来ていた三件のあの電話も、台風に関してのことだったのかもしれない。
 心配……俺は、心配しているのだろうか。
「黒谷?」
 黙ったままの俺に、さすがの真白も怒りを収め、俺の顔を覗き込んできた。
「心配ないさ、きっと大丈夫だ」
 真白のその台詞に、母との電話を思い出した。一人暮らしを始めたばかりの頃は、よっぽど息子のことが心配だったのか、よく母が電話をかけてきた。時々父が代わることもあった。困ったこととかはない? ちゃんとご飯食べてる? 担任の先生はどうなの。
 心配ないよ、大丈夫だって。
 その度にそう言ってやり過ごした。
「うん、そうだね」
 俺は笑った。笑い、ここで笑うのは果たして適当なことだったのだろうかと思う。思ったが答えを出すのは放棄した。
 真白をやっぱり家まで送っていくことにして、彼女を催促して歩き出す。コンビニを背にして歩いていくと、道の両脇に一定感覚で点在する街灯だけでは、夜に一人で歩くのには随分心もとないことが分かる。
「話は変わって、そのニュースでやっていたのだが、来週スペースシャトルが打ち上げられるらしいな」
 真白は右手の先にビニール袋を引っかけ、それを揺らしながら話す。
 その話なら俺も知っていた。先週辺りから、同じくクラスメイトである赤池が騒いでいたからだ。子どものように目を輝かせながら、聞いてもいないのに色々なことを教えてくれた。そのスペースシャトルが打ち上げられるのは外国の話だが、日本だけでなく世界中が注目しているらしい。
「宇宙……どんなところか想像もつかないな」
 授業で話を聞き教科書で写真を見たりしているだろうに、空を仰いでそんなことを彼女は言う。
「白ちゃんは宇宙、行ってみたいと思わないの?」
 問うと、
「私は話を聞くだけで十分だ……大変そうだから」
 そんな返事が返ってくる。初めて聞くタイプの意見だった。赤池なんかに同じ質問をすると、行きたいに決まってるだろ! と即答されたのだけれど。ついでに言うと、そう答えた後、彼は、でもおれ乗り物酔いするからなー、と実に悔しそうな表情をしていた。
「宇宙飛行士だって、多分大変な思いをして宇宙に行くだろう? 様々な訓練を受けて皆の期待や希望を背負って。弱音を吐くことも許されないだろう」
 そこまでして私は行きたくない、とまるで子どものように真白は言った。その理屈は分からないでもなかったが、俺が想定していたのはもう少し、宇宙旅行が身近になった時代の話だった。まあいいか、と一人勝手に納得して、言葉を返す。
「彼らが順調にいけばいいね」
「全くだな」
 そんな感じで雑談しているうちに真白の家の前まで着いた。閑静な住宅街の中の特にどうということもない普通の一軒家だったが、居間の電気はまだ点いていた。
「……黒谷、送ってくれてありがとう」
 家の階段の前で、真白が向き直る。
「白ちゃん、珍しく殊勝なんじゃない? 俺の優しさにやられた、もしかして」
 俺がふざけると、彼女はやっぱりすぐ付け上がる、とよく分からないことを零した。真白は玄関には向かわず、手にしていたビニール袋をがさがさと鳴らす。
「これ、やる」
 手の上に載せられたのは、真白が先程購入していたプリンだった。確か店員直筆のポップカードに、角のない丸っこい字で男女問わず人気の商品! と書かれていたか。
「え、うん、ありがとう」
 多少驚きつつ礼を言うと、
「黒谷、無理して頑張らなくても良いんだからな」
 真白は突然にそんなことを言った。
「困ったら困ったと、辛いなら辛いと言え。それを溜め込んでいっつも笑って、自分を騙してるんじゃない」
 どうやら俺は説教をされているようだった。同い年の彼女にそんなことをされているとは、そこまで俺は危うく見えるのだろうか。異常なし、問題なしと、点検もしていないのにそう言い続けてきたからだろうか。そう言えば緑川に、同じようなことを言われたことがあったかもしれない。
「黒谷」
 真剣な表情の彼女に、思わず笑みが零れた。理由は分からない。
「まったく可愛いなあ、白ちゃんは」
 そう言った途端に、はぐらかされたと思ったのか真白は機嫌を悪くする。
「ありがとう、オヤスミ」
 俺は笑みを浮かべた。彼女の返事は聞かずに、踵を返して俺は歩き出す。貰ったプリンは袋に仕舞わず、手の平に載せたままだ。
 街灯の少ないこの道は、交通量も少なく夜は暗い。それでも道に沿って真っ直ぐ進むだけだから、俺としては何ら困ることはない。途中にはコンビニエンスストアがあって、昼間よりも眩しく輝いている。
 俺は携帯電話を取り出した。画面を明るくすると、現在時刻は十一時だった。さすがに着信はない。
 バイト先の女子大生、彼女のあれは一種の心配だったのかもなあ、などと今さらのように思い出す。だからと言って、あれにまた付き合う気は起きなかったけれど。
 とりあえずは帰って、こんな時間ではあるがプリンを食べて、寝て起きたら自宅に電話をしようと思った。空を仰ぐ。空気が澄んでいるのか、ここは自宅から見るよりも星がよく見えた。

 ハローハロー、聞こえてますか。
 システムオールグリーン、何とかやっています。前程万里であるとは限らないけれど、少しずつでも進んで行こうと思います。


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