二月の廊下
「あ、白ちゃん」
唐突に投げられた声はよく馴染んだもので、真白は思わず両目を見開いた。
「……黒谷か」
久々に会ったというのに無愛想な返事しかできず、そんな自分につい顔を顰める。
「久しぶりだねぇ、白ちゃんも勉強しに来てたの?」
「ああ、うん」
家にいるとだらけるし、ここならいつでも先生に質問できるから。
そう真白が言うと、「だよね」と、黒谷も笑顔で同意を示す。話したいことは沢山あるはずなのに言葉が出てこない。前に黒谷とまともに話したのはいつだったろう。
一月中旬から既に学校は自由登校になっていて、講習も別々の先生だったから中々顔を合わせる機会がなかった。よく考えると、真白は黒谷のセンター試験の結果がどうだったかを知らないし、その結果志望大学をどこに定めたのかも知らない。そんなものなのだろうか、と思いながら口を開けずにいた。
他に人のいない廊下は朝の日差しを浴びて、ワックスを長く長く引き伸ばしたような艶やかさを湛えている。
黒谷はおもむろに窓の外に目を向けて、「二月だね」と呟いた。
二月に入ってからゆうに一週間は経過している。周知の事実に、真白は相槌の打ちようがない。
「去年は白ちゃんがバレンタインにチョコくれたんだよね。懐かしい」
続いた黒谷の台詞に、真白は噴出すはめになった。どちらかと言えば思い出したくない部類の話だった。
「あ、あれは友チョコというやつだ! 義理! それ以上でもそれ以下でもない!」
「知ってるよ」
黒谷がへらり、と笑う。
知ってるって、どういう意味だ。疑問に思考が停止しかける。が、深く考えるのを止めにして真白は深呼吸した。黒谷に調子を狂わされるのはいつものことだ。
「今年も白ちゃんからチョコ貰えたら嬉しいんだけどね。お互い忙しい身だね」
「……ああ」
今度はゆっくりと頷けた。
友人にもなかなか会えなくて、会えたとしても一つのことが頭の中を占拠しているばかりである。こうやって久々に黒谷に会えても、まるで全てが夢か、現実逃避のような気さえしてきてしまうから不思議だ。
真白は窓の向こうを見た。気温は低いが空はすっきりと晴れている。
「……受験が、終わったら」
真白は一言を噛み締めるように言う。
「終わったら、クリスマスもお正月もできるって、先生が言ってたから」
黒谷を見る。自然と口角が上がった。
「バレンタインもしたら良い。……しようと、思う」
黒谷はきょとんした顔をした後、「良いね。世間に流されない辺りが、なお良いかな」おかしそうに破顔した。
先ほどの笑みに含まれていた後ろ向きな色はそこにはなく、ほっとする。
そうだ、全部片付いたら、クリスマスパーティーをしてこたつでだらだらとして、バレンタインのチョコレートを作ればいい。
「だから、待ってるように」
言い聞かせるような口調になった。
真白の言葉に黒谷は楽しげに頷いて、「期待してる」職員室の方向へと廊下を進んでいった。真白の横を通り過ぎる形になる。
「それじゃあまたね、白ちゃん」
黒谷はいつもの軽い調子で言って、通りすがりざまに真白の頭に手を置いた。一瞬だけ頭に重みを感じ、余韻も残さずすっと消える。
「頑張ってるのは知ってるから、無理はしないように」
その言葉に振り向くと、黒谷は丁度廊下を曲がるところだった。
「…………」
返す言葉も浮かんでこず、午前の白い廊下で、真白は自身の髪を手で梳いた。何なんだ、と思わず言いたくなるのを堪えて口を噤み、踵を返す。足元で上靴がキュッと鳴る。そのまま真白はラウンジへと向かった。