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文化祭




 七月の第三週の土曜日は、青い空の下を爽やかな風が吹き抜けていく、天気の良い日だった。
 普段は白を基調とした落ち着いた色合いの校舎は、紙細工や風船などで飾り付けられて色鮮やかな姿を見せていた。近隣の住民や他校の学生などが遊びに来ていて、校舎の中も外も大いに賑わっている。
 昨日金曜日から開催されている、高校の一大イベント、学校祭である。
 うちの高校では、初日の金曜日は体育館に生徒が会して、クラスごとの発表といったステージ発表を行い、二日目、休日である土曜日に屋台や模擬店を出して一般公開もする。私立ではないからお金をかけて芸能人を呼ぶなんてことはしない。一般的な高校の学校祭といったところだろう。
 昨日はまあ、自分のクラスの出し物を終えてしまえば、椅子に座ってステージを観るだけだったから特段忙しくもなかったし面白かった。自分のクラスの発表も、俺は照明係だったから事前の打ち合わせどおりに機材を動かしただけだ。いや別に、今流行のアイドルの曲を覚えて踊ったりできないとか、アクロバティックな動きができないとか、そういう理由じゃない。逃げたとかそういう訳じゃない。ただ適材適所を目指しただけだ。
 昨日は普通に面白かったし楽しかったのだ。なのになぜ、今日は。
「こんなに忙しいんだ……」
 思わずぼそりと呟くとそれをクラスメイトの女子に聞かれた。
「やー、ごめんねー。佐竹くんさあ、意外に似合うんだもん。その格好」
 その女子はペットボトルのオレンジジュースを、装飾の施された紙コップに注ぎながら悪びれもなく笑う。謝っているようでその実、全然謝罪にも理由の説明にもなっていない。彼女はペットボトルのキャップをきゅっと締めて、紙コップとマドレーヌを俺の持つトレーに乗せた。
 俺、佐竹黄太は自分の服装を見下ろした。黒いスラックスに白いシャツ、黒いベスト、赤いネクタイである。一応付け加えておくと、髪は黒だ。
 何でこんな格好をさせられているかというと、うちのクラス、二年六組は喫茶店を営業しているためである。男子はシャツにベストを着用してウェイター、女子はロングスカートにリボンを着てウェイトレスをしている。
 提供する食品は市販のジュースにインスタントコーヒー、それから近隣にある菓子店で作っているクッキーとマドレーヌだ。クッキーとマドレーヌはプロが作っているからまだしも、紙コップに注いだだけの飲み物を学校祭で提供するのはどうかとも思うが、教室という場所の特性上凝った調理もできないし仕方ない。
 その分、うちのクラスの模擬店は内装や接客に力を入れていた。教室の壁一面を装飾しているから、ここで普段授業をしているとは一見思えないだろう。発泡スチロールを用いた煉瓦が壁を覆い蔦が張り巡らされていて、なかなか落ち着く喫茶店に見えるのではないかと思う。それからなぜかうちのクラスは音楽ができる奴が多くいて、彼らが交代で電子ピアノだったりバイオリンだったり、見事な腕前を披露している。
 毎年恒例のことなのだがうちの学校祭は優秀なクラスに賞品を出していて、模擬店部門で一位をとって打ち上げ代を手に入れるのだとクラスメイトたちが息巻いていた。俺はそれをやや遠くから眺めていたのだが(勿論協力はするが、積極的に関わっていくような性分でもない)、どうしてこうなったのか。他のクラスや部活の出し物をろくに見に行くこともできず、朝からずっと接客させられている。接客と言っても簡単にオーダーを聞いて食品を運ぶだけだからそう疲れるわけではないけれど。
「お待たせしました」
 間に合わせの接客マナーで、オレンジジュースとコーヒーの入った紙コップ二つとマドレーヌを持っていく。テーブルに座っていたのは、うちの生徒の家族だろうか、四十代に見える母親と五歳くらいの女の子の二人組だった。俺はそれぞれの前に紙コップを置いて、軽く頭を下げて立ち去ろうとする。
「あっ」
 そのとき、楽しげに笑っていた女の子が戸惑ったように声をあげるのが聞こえた。そちらに首を向けると、倒してしまった紙コップから流れテーブルを伝わったオレンジジュースが女の子の服にかかってしまうところだった。咄嗟にスラックスのポケットに入れていたハンカチに手を伸ばし、テーブルの淵にあてる。オレンジジュースは数滴零れて女の子の足にかかってしまったようだったが、零れ出た残りは幸いハンカチに染み込んで流れていかなかった。まだ少し中身の残った紙コップを立ててテーブルの中央に置いておく。
「すみません!」
 母親が慌てて立ち上がり、ポケットティッシュを取り出して女の子の方へ寄ってくる。濡れませんでしたか、とこちらの方を気にするので、女の子の足をティッシュで拭いてやるよう頼んだ。
「すみません、ありがとうございます。そのハンカチ……」
 テーブルも女の子の足も拭き終え、母親がオレンジジュースに染まったハンカチを申し訳なさそうに見る。
「洗えば大丈夫なので気にしないでください。今、代わりのオレンジジュースをとってきますので」
 母親と、おろおろとしていた女の子に笑みを向け、俺は新しいオレンジジュースを用意して再び届けた。
 彼女たちは女の子のペースに合わせて飲み物を飲み終えたあと、他の展示や模擬店を見るために去っていった。女の子が去り際に、こちらに小さく手を振っていったのが可愛かった。
 ……まあ、ずっと接客続きで遊びに行きたい気持ちもあったけれど、普段アルバイトなどしていない身には新鮮ではあったし、こういうことがあるから楽しいと言えば楽しかった。
 来客が少し落ち着いてきたので、俺はウェイトレスをやっている女子に目配せして裏へと引っ込んだ。
 企画に準備に走り回っていたクラスメイトの努力が効を奏したのか、客入りは結構良い方だと思う。他の模擬店の様子をほとんど見ていないから言い切ることはできないけれど、このままなら模擬店部門一位も夢ではないんじゃないだろうか。
 ネクタイを少し緩めながら食品を準備するスペースである裏へと入ると、ずっと裏方をしている女子たちがなぜかこちらを見て次々に口を開いた。
「すごいね佐竹君、執事もできそうだね!」
「……はあ?」
「咄嗟にハンカチ出すとかなかなかできないよねー!」
「そもそもハンカチ持ち運んでる人がなかなかいないよね」
「ウェイター似合うと思ってたけど執事もいけそう……!」
 喫茶店の裏であるから抑え気味の声とは言え、盛り上がる女子たち。こういうときの女子のエネルギーは凄まじい。こういった場合そこそこにスルーするのが得策だということを経験上俺は知っている。
「なあ、俺そろそろ休憩行って良い──」
 か、と尋ねようとしたときに、
「黄太! いるだろ!」
「……声でかいよ」
 馴染んだ友人二人の声が聞こえた。他にも客がいるのにもうちょっと声を抑えろというのは後で言うことにしよう。腕につけた時計を見る。二人が先ほど休憩に入ってからそう時間は経っていない。まだ次のシフトの時間ではなかったはずだが。
 裏から顔を出して教室の入り口を見る。俺と目が合った友人が、目的を見つけてぱっと顔を輝かせた。
「黄太、黄太!」
 手招きされる。呼ばれるままに教室の外へと向かうと、友人二人が横に並ぶようにして立っていた。
「何だよ、一応仕事中だからできるだけ早めに……」
 二人は笑いながら、二人の間にスペースを作るようにして退けた。そこに見覚えのある人物がいた。
「じゃん、ゆかり先輩です!」
「すぐそこにいたから連れてきてみた」
 連れてきた、などとまるで捨て猫を拾ってきたかのような言い方をされて見てみる。
 清水ゆかり。三年の風紀委員をやっていて、俺を見かけるたびに主に髪色についてしつこく説教してくる謎の先輩。
 正直なところ、好んで遭遇したい相手ではなかった。
 しかし、今目の前にいる彼女は、借りてきた猫のように静かである。普段なら「いい加減に髪を元の色に戻さないと」などと言いながら、俺を見つけるや否や一目散にこちらに向かってくるのだが。俺は無意識のうちに自分の髪に手をやりながら違和感を覚えていた。
「と言うわけで、ゆかり先輩お届けしたから!」
 友人の一人がびしっと敬礼の真似事をし(左手でやっているので微妙に間違っている)、
「黄太に指名入りましたー」
 もう一人が教室の中に向けてそんな戯れ言を放り込んだ。
「俺はホストじゃねぇ!」
 そう返したが彼らはにやにやと笑うばかりで、ああもう、自分の友人ながら、こういうときわりと腹が立つ。まあ彼らも引き際を心得ているので俺も怒ったりはしないけれど。
 と言うか「ゆかり先輩」と呼んで連れてくるとか、こいつらいつのまにこんなに仲良くなったんだ。問いただそうとしてふと見ると友人二人は既に廊下の人ごみの向こう側だった。ちらと振り向いて遠くからこちらに手を振ってくる。良い笑顔だ。奴らは逃げ足だけは速いのである。
「あいつら……」
「あの、」
 声をかけられて改めて向き直ると、彼女が少し伏し目がちに、困ったような様子でいた。
「……呼ばれてきたのだけれど、私はどうすれば良いのかしら」
 そんなことを聞かれても俺も困る。そう返そうとしたとき、教室の内側から妙な視線を感じて、窺ってみると主に裏の方からクラスメイトたちがこちらを見ていた。先ほど友人が余計な一言を放ってくれたおかげで、何か面白いことが起きているとでも思っているに違いない。
「あー、とりあえずここを離れる」
 彼女の手首を掴む。そのまま、生徒や来校者で賑わう中をかきわけて廊下を進んでいく。階段を下りて踊り場を通り、三階から二階に来たところで、ここまで来ればクラスメイトの視線に晒されることはとりあえずないだろうと立ち止まった。
 そこで、ずっと彼女の腕を掴みっぱなしであったことにふと気がつく。少し力をこめれば折れてしまいそうな腕だとぼんやりと思う。
「……あの、」
 再び躊躇いがちな声。我に帰ると彼女が少し頬を上気させ、相変わらず困ったような表情でいた。
 腕をぱっと放す。悪い、と謝ろうとした言葉は舌の上を転がりこそしたものの彼女の耳元まで届くには至らなかった。
 二人ともが口を噤んで無意味に時間が流れた後、彼女が緩やかに口を開く。
「髪、黒に戻したのね」
 いつも俺の髪色に触れてくる彼女は、やはりそこが気になったらしい。
「ああ、」
 対して彼女は、いつものきっちりとしたブレザー姿ではなく、紺色の着物姿だった。全体に睡蓮の花と波紋があしらわれており、帯は白地で、同じく睡蓮が飾られていた。
 うちの学祭は二日目の夜に花火を打ち上げるからか、女子は浴衣、男子は甚平を着用することが多い。普段の学校生活が制服に規定されている分、お祭り気分を更に盛り上げるためだろうか。女子は現代風の華やかな浴衣に、髪を持ち上げて高い位置でお団子にしているのが大半だ(あれを作るのは大変なのに、着付けも含めて一体何時から準備しているのだろうか)。
 彼女は浴衣ではなく着物だった。浴衣姿の女子たちの中で珍しくはあったが、どこか着慣れているような、そんな印象を受けた。
「これは、茶道部のお茶会のために着たのだけれど……変、かしら」
「いや、別に」
 無愛想に答える。脳内で「もっと具体的に、かつ相手を喜ばせるような感想を言いなさい!」と姉が言うのが聞こえた。人の脳内に出張してきてまでいつもの調子で説教するとは恐ろしい姉である。
「まあ、悪くないんじゃないか」
 彼女は何も言わず、ただわずかに瞳を見開いた。普段は廊下で出会えばうるさいくらい口やかましいのに調子が狂う。やがて彼女は唇を開き、
「クラスの仕事の方は良いの?」
 そう問われて、半ば放り出すようにして教室を出てきてしまったことに気づく。まあそろそろ休憩時間に入れる時間帯だったし、一本連絡を入れておけば大丈夫だろう。俺は携帯を取り出して、クラスメイトに簡単なメールを送る。
「あんたは大丈夫なのか? クラスの方とか、部活の方とか」
「ええ、先ほどからずっと入っていたので二時間ほど自由時間があるのだけれど……ええと、その」
 どうやら俺と同じ状況らしい。せっかくの自由時間なのだから、色々見て回らないと勿体ないだろう。軽く息を吐く。
「どうせだから回るか。あんた、どっか行きたいところはないのか?」
 彼女は途端にぱあっと表情を明るくして、手提げから校内図の載っているパンフレットを取り出した。
「ここに……三年一組でやっているカジノに、行ってみたいわ」
「分かった、じゃあその次は隣でやってるお化け屋敷な」
「……私、お化け屋敷というものに入ったことがないのだけれど」
「うちの高校のお化け屋敷はなぜか毎年クオリティが高いらしいから楽しみだな」
 パンフレットを眺めながら目的の教室へと向かう。その途中でも盛んに宣伝をしている学生とすれ違ったり、外装に凝った模擬店があったりして面白い。
 なぜ俺は学年も違う彼女と学祭を見て回ることになっているのだろうか。友人二人は妙に親しげに「ゆかり先輩」などと呼んでいたが──俺は彼女を名前で呼ばないし、逆に自分も呼ばれることがない。こっちが彼女の名前を知ったのだって偶然だ。基本的にうざったいくらいうるさいのに、時々こうやって急に静かになったりするから、こっちはその度に面食らわされる。
「あっ、あそこが三年一組の教室ですわ」
 彼女が前方を指差して嬉しそうにこちらを見る。
 理由は知らない。知らないし、認めたくもないが、俺はなぜか彼女を嫌いにならない。寧ろ、いつの間にか目が離せなくなっている。
「そんなに急ぐとつんのめって転ぶぞ」
 浮かんだ疑問は、ひとまず祭りの賑やかさの裏に押し込んでおくことにした。


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