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第六章



 ふ、と自然に目が覚めた。温もりに満ちた布団を振り払い、アークは窓の木戸に手を伸ばす。開け放った戸の向こうから差し込んできた光は既に柔らかい。それを届ける高さが、一日が始まってから既にしばらく時間が過ぎていることをアークに知らせる。
 どうやら寝過ごしてしまったらしい。昨日ティアナは何と言っていたのだったか――朝はゆったりと過ごして良いと言っていたはずだが、それに甘えて何の手伝いもしない訳にもいかないだろう。しかしこの陽の昇り具合では、朝食の片付けも既に終わっているかもしれなかった。
 アークは慌てて服を着替え、布を掴んで水場へと急いだ。洗面器に張った水で顔を洗い終え、水気を拭き取りながら改めて周囲の物音に耳を澄ます。階下から食事をとっているような喧騒は聞こえてこない。
 階段を下りて一階を見回しても、宿泊客は誰もいなかった。朝食をとった客は皆部屋に戻ったか、外へ出かけて行ったのだろう。あるいは疲れの溜まっている者は未だ睡眠を貪っているに違いない。何にせよ、アークが起きようと決めていた時間を寝過ごしたことは明らかだった。
 カウンターにティアナの姿はなく、テーブルの上も物が片付けられ整然としていた。ティアナは朝食を用意し、片付けも全て済ませてから村に買い物に出かけたようだ。壁の時計の時刻は昼とするにはまだ早く、ティアナはおそらく宿を出たばかりだろうと思われた。
 アークはカウンターの裏へと回り、かまどに置いてあった鍋の中身を確認する。朝にティアナが作ったらしいスープが相当量残っていた。昼食にはこれを出しても良さそうである。
 アークは器に自身の分のスープをよそい、籠から一つパンを取り出してカウンターの席に座った。咀嚼しながらこれは朝食と昼食のどちらになりそうか、などと考える。「鈴蘭の音色」では朝昼夜の三食を提供しているが、ほとんどの宿泊客が朝と夜の二食しかとらない。しかし前日隣国からやってきた疲れのためなかなか起き出してこない者や、中途半端な時間に到着する者もいるため、一日の三つの時間帯に食事を用意しているのだった。
 アークはヤクの乳の入った白いスープを飲み干し、器をパンで拭って片付けを楽にする。最後の一口を飲み込み天井を見上げる。
 上階からは話し声も足音も聞こえてこない。ここ最近のこの時間帯はずっとカーライル一行が一階で雑談や仕事をしていたのだが、今日は現れる気配すら感じられなかった。カーライルたちも出かけたのかもしれない。
「そうか、姉さんも、カーライルたちもいないのか……」
 立ち上がり、カウンターの裏に回って食器の汚れを落とす。思い返すのは昨晩のティアナとの会話のことだ。
 カーライルたちとの首都行きは即座に反対されてしまったが、アークの首都に行きたいという気持ちはそれでも失われていなかった。たしかカーライルは今日、ティアナにその話を詳しく説明すると言っていたはずだ。もう話はしたのだろうか。二人ともこの場にいない今は知りようがない。
 カーライルが話をした結果、それでもティアナが反対の立場をとり続けた場合どうしようかとアークは考えた。首都に行ける機会などなかなかない。ティアナも隣国に行ったことこそあるものの、首都ナクレには行ったことがないっ言っていた。生きていればいつかは行けると、今回のことは早々に諦めることもできる。が、一人で行くとそこまでの道のりには余計に費用がかかるし、安全面でも不安が残る。何よりいつになることか分からない。
「でもやっぱり、ティアナ姉さんに迷惑かけちゃうしなあ……」
 決着の着かない逡巡を繰り返しているうちに、昼食をとるために幾人かの客が姿を見せ始める。彼らのうち誰もが両目をこすり、髪の毛を整えたとは言い難い様子である。ゆったりと食事をとりながら徐々に目を覚ましていく客をアークは見守った。
 そのうち彼らは自室に戻ったり、あるいは荷造りを終えて宿を旅だって行く。アークは出立する男から宿泊代を受けとった。
「はい、ちょうどです。ありがとうごさいました」
 代金を確認し、しまい込んでから宿の戸口で客を見送る。
「では、お気をつけて。――太陽の加護を背中に受けられますように」
「おう、また泊まりに来っからそのときは頼む。――月の揺り篭に背を向けるときまで。じゃあな、坊主」
 アークがかけた言葉に、男は正確に応えてみせた。昔からある、旅人とそれを見送る側の合言葉のようなものである。最近はあまり頻繁に用いられなくなってきているようだったので、男がその文句を知っているかと思いつつ言ってみたのだが、当たり前のように返答がきたことにアークは心温まるのを感じた。
 そうして少し穏やかになった心でカウンターへと戻り、また時間を潰す。
 先程思いついて馬小屋へと回ってみたが、宿の馬も、カーライルとソレイユの馬もそこにはいなかった。やはり皆出かけていたようだ。大きな荷物は部屋にあるし、彼らの性格上アークに何も言わず宿を引き払ってしまうということは考えられなかったから、村に買い出しに行ったか森に散策にでも行ったかというところだろう。
 一人でいては考えが悪い方向に回り落ちていくばかりである。普段ならこんなときには宿で出す料理を考えたりするのだが、今日はそんな気分でもなかった。完全に暇を持て余している自身を自覚しながら、アークはカウンターの上で目をつむる。
「アーク!」
 勢い良く扉が開かれ、その手荒な扱いに抗議するように鈴が激しく揺れた。緩んでいた空気の中、高い鈴の音が突っ切っていく。
 いつの間にかまどろんでいたらしい、アークは突然の騒音に意識を引き戻された。
「いらっしゃいま……」
 言いかけ、カウンターから下りたところで、入ってきたのがティアナであることに気づく。
「……姉さん。お帰り」
「ただいま帰ったわ!」
 対するティアナは非常に溌剌としていた。何か嬉しいことでもあったかのような様子である。普段通りと言えば普段通りだったが、アークが昨晩最後に見たティアナはこのような明るい表情ではなかった。ティアナが怒りを持ち越す性格だと知っているアークは、拍子抜けした気分を味わいながらティアナを迎える。
 アークはティアナが持っていた袋を受け取る。何が入っているのか、腕に沈む重さがあった。何を買ってきたのか聞こうとしたそのとき、再び戸口が騒がしくなる。
「ただ今ですよ」
「カーライル、これはどこに持っていけばいいかしら?」
「ああ、ここのテーブルに。ファスとシュウのは全部部屋に頼むよ」
「りょーかい」
 カーライルを始めとした、ユーレカ、ソレイユ、シュウ、ファスの五人だった。彼らもまたティアナと同様に、大きな袋を抱えている。
「お帰り。カーライルたちも買い物してきたの?」
 アークはカーライルに尋ねた。
「ああ、保存の利く食料だとかを購入してきたよ」
カーライルは袋の向こう側から頷き、ゆったりとした動作でカウンターに近いテーブルにそれを置く。一つのテーブルに四つほどの袋がまとめられる。
「アークもその袋、そこに置いてくれる?」
 ティアナが指差したのは、カーライルたちが袋を置いたのと同じテーブルだった。袋を混同しないかと少し危惧しながらアークが袋を置き、顔を上げるとティアナがカーライルのもとへと駆け寄っているところだった。
「皆さん、助かったわ。ありがとうございました」
 そう言って頭を下げるティアナに、カーライルが首を横に振る。
「いえいえ、お気になさらず」
 にこやかにそう返し、カーライルはソレイユやユーレカと共に上階へと戻っていった。本当助かったわ、などと呟きながらティアナがカウンターの方へと戻ってくる。満足げな表情をしているティアナに、アークは質問せずにはいられなかった。
「え、姉さん、これ全部、うちの荷物?」
「そうよ」
 こともなげにティアナは言う。しかし、テーブルにある袋の数は四つ。その全てが結構な重量である。
「この間買い物行ったばっかりじゃなかったっけ? こんなに食料……」
「夕方に酒樽も届くわ!」
 なぜかティアナは嬉々とした様子である。夜に宿泊客に提供している酒樽も、まだ底をついてはいなかったはずだ。膨れ上がる不可解な気持ちを抑えきれず、アークは首を傾ける。ティアナはそんなアークの様子に一度両目を瞬かせ、
「……ああ、アークに言ってなかったわね! 今日は宴会よ!」
「宴会?」
 満月の日でもないのに? アークの問いにティアナは詳しい理由を返さず、「そう」とだけ頷いた。
 通常、宿「鈴蘭の音色」が酒場として村に開かれるのは、満月の日だけだ。その日は村人が「鈴蘭の音色」に集い、宿の宿泊客と混じって酒を楽しむのである。たまたま訪れていた吟遊詩人が歌を披露することもある。大勢の人が会するので非常に賑わうのだが、その宴会はつい十日ほど前にも開かれたはずだった。アークは自身が森で迷い、結果としてシュウたちと出会うことになった夜を思い出す。
 詳細を語らぬティアナを前に考え込むアークを見、ティアナは、
「まあ、村の人たちにももう伝えてあるから。とりあえずそういうことよ」
 どこか含みのあるように見える笑みを浮かべて、アークの頭に手を置いた。
「……?」
 アークが目線を上げたそのときには既にその手を外し、袋の荷解きへと移っていた。


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