ティアナには、アーク自身からの説明も要るだろうが、何よりカーライルから頼みこむ必要があるだろう。カーライルはそう説明した。それから彼女の同意を得次第近日中に出立したいといった、いくつかの事務的な話を聞く。
アークが宿を空ければその分ティアナの仕事が増える。しかし、納得してくれたなら、出来る限り早くアークを出発させようとするだろう。出発が早ければ早いほど、アークの帰宅も早くなるからだ。
アークを伴っての首都行きをティアナは許してくれるだろうかと、カーライルは頻りに心配していた。
「多分大丈夫だよ、姉さんそういうところは聞いてくれるし」
アークは明るい言葉を返す。その点については心配していなかった。ティアナ自身が随分と我が道を行く性格であるため、自分のことを棚にあげてアークに反対することはないだろうと想像できたのだ。ティアナが昔、若い頃の話をしていたのを思い出す。
「……それでね、あたしは何が何でもテセルキィアに行ってやろうと思って。勿論、お父さんは、お前の仕事はどうするつもりだ、何よりお前みたいな小娘が一人で行けるわけがない、一日で挫折して帰ってくるだろうって怒ってたわ。でも、あの頃のあたしは、土産の酒でも持って帰ればお父さんの機嫌も直るでしょって考えてたのね。だからレリィに乗って、置き手紙して、あたしは旅立ったわけ」
そうして自他ともに認めるお転婆娘は、隣国テセルキィアに行き、土産に酒を携えて帰ってきたらしい。当たり前だが、ティアナの父――つまりはアークの祖父に当たるわけだが――は酒瓶などでは騙されなかった。
「ちゃんと買って帰ったのに、お父さんも本当に頭固い人だったわ」
後にティアナはアークに対し、全く反省の色なくそう語った。そんな彼女だから、アークは叔母は説得できるだろうと考えていた。
その後はいつものように雑談となり、
「お休みなさい」
最後にお互いに挨拶を交わしあって、その晩の会談はお開きとなった。
アークはカーライルたちの部屋を出て廊下を進む。月の光が僅かにしか入りこんでいない廊下は暗く、アークは手にした燭台を先へと掲げた。蝋燭が静かに揺らめく。
そうして二階へと降りる階段を降りきったとき、突如蝋燭の光が一階から上ってきた人物を浮かび上がらせた。不意に現れた人影に、アークは燭台を取り落としそうになる。
「アーク? あんた何で上から」
「ティアナ姉さん……。そっちこそ明かりも持たずに何やってるんだよ」
ティアナの髪色は、アークの黒まではいかないものの焦げ茶色である。燭台を手にしていないその姿は暗闇に溶け込んでおり、これで足音まで殺していたならただの怪談だった。
「あんたに話があったのよ。これくらい、明かりを持ってくるまでもないと思って」
「はあ、心臓に悪いから面倒くさがらないでほしいんだけど……」
話しつつアークは自室の扉を開け、ティアナとともに中に入る。燭台を机の上に置くと、ぼんやりとした明かりが暗闇を少し部屋の隅へと追いやった。
アークは椅子に横向きに座る。ティアナは断りもせず、ベッドに腰掛けた。
「それで姉さん、話って何? 明日のこと?」
アークは問いながら、良い機会だから先程のことを話してしまおうと考える。カーライルたちに首都に一度来てくれないかと誘われたこと、そして自分が行きたいと思っていることを。
「そうそれよ。明日は昼前に村に行ってくるから、昼食の用意だとか頼むわ。それまではゆっくりしてていいから」
トラストに乗って行くから、帰りはそんなに遅くならないと思うけど。ティアナは朗らかに付け足す。
トラストとはこの宿で飼っている馬のことで、村に買い出しに行くときなどにアークとティアナが乗っている馬だ。大量に食料を購入するときや急いでいるときにトラストと共にいると時間をとても短縮できる。
「うん、分かった」
「ほんとは昼間にあんたに伝えておく予定だったんだけど、すっかり忘れちゃってて。頼むわね」
「いつものことだから、まあ気にしないで」
「ありがと。さて、あたしは寝るわ。もう遅いし、アークも早く寝なさい」
ティアナは腰を浮かした。
「あ、待って姉さん」
そこをアークが引き止める。椅子から立ち上がり、叔母の方へ向き直った。
「何?」
わざわざ改まって言うことがあるのかと、ティアナが不思議そうにこちらを見る。
「えーと……あの、さっきカーライルたちに言われたことなんだけど」
アーク自身にとっても突然だった先程の話を、どのように伝えたものか。言葉を手繰り寄せながらアークは話す。
「仕事を手伝うために、僕に首都まで付いてきてもらいたいって言うんだ。カーライルは歴史家らしいんだけど、資料を調べるための仕事。勿論ずっとじゃなくて、その仕事が終わったらすぐ帰って来れるけど……僕に頼んでくれた。それで、僕自身、行きたいと思うんだ」
アークは言って、だから、お願いします。そう頭を下げようとした。
返事は簡潔だった。
「駄目よ」
ただ一言。あまりにも簡単に返ってきた言葉に、アークはその内容がすぐには飲み込めなかった。
「……え」
「駄目。そんな話、簡単に許可できると思ったの? 隣の村にお使いに行ってきます、みたいな問題じゃないのよ」
ティアナはアークを見ず、床の木目を視界に捉えたまま矢継ぎ早に言う。
「着の身着のまま行ける訳じゃないでしょう。旅費はどこから出るの? 行きは彼らと行くにしても、帰りは? 首都まで何日かかると思ってるのよ、帰りも彼らが責任もって送り届けてくれるの?」
「……それは」
至極真っ当な質問だった。返す言葉に詰まるアークに、ティアナは更に詰問を重ねる。
「そもそもあんたがいない間、宿の仕事はどうするつもりなのよ」
それは奇しくもと言うべきか、ティアナが若かりし頃彼女の父に問われたという、その台詞と同じものだった。だからこそ余計に、彼女の言葉はアークにとって堪えた。自分自身そういった、宿を出た後のことを考えていただけに、「姉さんも昔宿のことを放って出かけて行ったことがあるじゃないか」という反論は口にできなかった。おそらくその言葉は、ティアナへの一番の反撃になっただろう。けれどティアナと二人で宿を切り盛りしてきたからこそ、たった一人で宿の管理をする難しさをアークは知っていた。そしてそれを改めて痛感し、何も言えなくなっていた。
アークと目線を合わせないまま、ティアナは息を吐いた。
「そういうことはせめて、色々と考えてから言いなさい」
最後にそう言い残し、彼女はアークの部屋を出て行った。色々と思いを巡らせていたアークは、その声が震えていたことに気づかなかった。
ティアナは明かりも持たないまま階段をゆっくりと下りる。酒場としても開かれている一階は、さすがにこの時間には客もおらず明かりもつけていない。手摺りに掴まったまま下りきって、薄闇をすり抜けてカウンターに座った。そこかしこに動かした手が固い何かにあたるとそれを引き寄せる。
数拍の後、ボッという音とともに、その角灯の中の蝋燭に火が点った。ティアナは火を点けるのに使った軸木を振ってから捨て、明るくなった角灯を天井から下がる金具に引っかけた。角灯の中の蝋燭はかなり太いものであるため明かりも強く、カウンターがぼんやりと橙色に照らされる。
ティアナは滞りなく火が点いたのを確認し、それからカウンターに突っ伏した。
「……はあぁ……」
体の奥底から絞り出したような、深いため息を吐く。ひどく暗い色のため息だ。
「自分の昔のこと棚にあげて全否定とか、何やってるのよ、あたし……」
誰かに指摘されれば反論の余地もない。誰か、と言わずアークに指摘されればそれまでだった。
若い頃の自分は無茶もしたし、周りの忠言もほとんど聞かなかった。それに比べたら甥のアークなど、「良い子」過ぎて驚くほどだ。
幼い頃に両親と別れたせいか、宿という大人の沢山集まる空間で生まれ育ったせいか。アークが子どもらしい我が儘を言ったのを、ティアナはほとんど聞いたことがない。理由はおそらく前者と後者、その両方だろう。
もう一度ため息。それから頭は伏せたまま腕だけを伸ばして、カウンターの向こう側から瓶を引きずり寄せる。その隣にあったグラスも手に取り、瓶を傾けて中身を注いだ。宿近くの村で作られている、透明な酒である。普通は水で割って飲むのだが、彼女にとっては度数はそんなに高くない。
「……リアナ、イクス義兄さん」
一階に、彼女の他に人はいない。宿泊客は皆寝静まっている時間だろう。周りを気にする必要がないからか、彼女は心情を吐露し続ける。
「分かってるのよ、行かせるべきだって。アークにだって旅に出たり、学院に進む道があった。それをここに引き止めたのはあたしなんだから」
だからこれはアークの我が儘というより、あたしの我が儘。
「リアナなら、それでこそ私の息子、って言うんでしょうね」
ティアナはグラスを一気に煽った。
「あー……」
喉が少し焼け付くように感じられる。酒を割りもしないまま流し込んだことに少しの後悔を抱きながら、グラスに更に酒を注ぐ。
今度はそれを口に含み、舌の上で転がしながらゆっくりと飲む。
仄かに明るいカウンターで、ティアナは一人葛藤を繰り返す。けれど自分の中で既に結論が出ていることにも薄々気がついていた。
他に物音もない宿屋で、静かに夜が更けていく。
第五章、了