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 瞼に透けた陽の光を感じ、アークは目を覚ました。人を再び眠りの世界へと引き込もうとする温かい腕を振り払い、ベッドから足を下ろす。
 部屋の壁に取り付けられている洗面台に向かい、蛇口を捻る。まだ朝方のため勢いの強い水が噴き出す。ムーア谷の渓流から引いてきている水はいつも冷たく、寝起きには丁度良い。顔を洗うことで気だるさを払拭し、アークは息を吐いた。布で顔を拭き、そのまましばしそれを見つめる。
 今日もあれは出てきていない、大丈夫だ。自分に言い聞かせるようにして、つい昨日の出来事を思い出す。
 時折彼の周りに現れる「文字」は、あの森の中で盗賊に遭遇したとき以来姿を見せていない。手の平に包めるくらいの大きさの、平たく半透明な文字。分かっているのはそれらが様々な言語の仮名であるということ、一つ一つ色が違ったり空気中を漂ったりはするもののアークに危害を加えるようなことはなさそうだということ、ふとしたときにアークの周りに出現するといったことくらいだ。特にアークの気が緩んでいるときに出てきやすいようだが、逆も同様に、気を張っているときは現れない。現れたら現れたで、漂うそれらを見つめてしばらく待っていれば、何事もなかったかのように掻き消える。
「一体何なんだろうなあ、これ……」
 呟くもののアークに文字と対面する気はさらさらなく、開かれた右手の平は何も掴むことなく閉じられた。
 布を洗面台の横に再び掛けて、階下へと向かう。ここ数日で宿の宿泊客は指折るように減っていき、今ではカーライルたち五人と残すところ数名となった。人の少ない「鈴蘭の音色」は、それでも壁の木目に日光が染み渡って柔らかな温もりを内包している。
 階段を二階分、合わせて二十二段を下りきると、一階はそれなりの賑わいを見せていた。カウンターには朝食に使った食器を拭くティアナ、その向かいに彼女と雑談を楽しむ宿泊客が一人。そしてカーライルを筆頭にファス、シュウ、ソレイユ、ユーレカと五人がテーブルを囲んでいた。カーライルがアークに気づき、片手を上げる。
「おはよう、アーク。よく眠れたかい?」
 そう尋ねる様子は宿に何度も宿泊したことのある、既に勝手知ったる者のそれで、彼はとうに朝食も取り終えたらしい。これでは一体どちらが「鈴蘭の音色」で日頃暮らしているのか、分かったものではないとアークは思わず苦笑する。
 アークはカウンターに入りティアナとも挨拶を交わす。窯に置かれていた鍋の蓋を開けると中身はスープだった。ティアナが朝に作ったようだ。料理があまり好きではないという彼女らしく、大きさの不揃いな野菜が沈んでいる。彼女曰く「皮を剥いたりだとか小さく切ったりだとかっていう作業が面倒なのよ」ということらしい。アークはそれを適当な器に注ぎ、小さなパンと盆に載せた。
 その簡単な朝食をどこでとろうかと考えて、テーブルの方へと足を運ぶ。カーライルたちを見遣ると、五人で額を付き合わせ、何か話し合っているようだった。声量は普段のものよりも落としているようで、話題が何であるのかはここからでは分からない。あまり余所者に首を突っ込まれたくない話であるのかもしれない。アークはやや遠慮がちに、五人の座るテーブルから離れた、しかしあまり遠くても敬遠しているように見えるだろうかとそこまで距離はない席を選んだ。
 カーライルたちの囲むテーブルの上には物が雑多に散らばっていた。テーブルの表面をほとんど隠しているのが大きな世界地図だ。国と国の境界線や首都名、山脈、海洋の名前まで書かれた細かなものである。その地図を押さえつけるように、羽根ペンや赤インクの壺、角の擦れた本が数冊、紙が置かれている。
 「鈴蘭の音色」の部屋には人数に合わせたベッドと一時的に荷を入れておく棚、ちょっとした雑事に使える程度のサイドテーブルしか備え付けられていないため、部屋であの大きな地図を広げるのは難しいだろう。ソレイユが彼女自身を含め四人のことを「カーライルの助手」と称していたから、今は仕事中なのかもしれない。アークはそう推測して、しばらく彼らの邪魔はしないでおこうと決めた。
 朝食を取り終え、盆をカウンターの方へ片す。使った食器を洗いながら、ティアナを手伝えることはないかと考えを巡らせたけれど、ティアナも客との他愛ない会話を楽しんでいるし、とりたててやることもなさそうだった。シュウ、ファス、ユーレカが宿に泊まるようになって、彼らは自室にいるよりも一階にいることを好んだため、ここ最近は彼らと話をして過ごすことが多かった。しかし、こうなってしまっては些か暇を持て余しそうだ。
「父さんの本でも持ってこようかな……」
 久しぶりに読書でもしようか。自分に提案してみたものの、それが妥協策であることは分かっていた。父イクセヴェルの残してくれた本は全て読み終わってしまったし、気に入ったものに関しては既に何度も読み返している。展開の分かっている物語をなぞるような気分ではなかった。
 まあそれでも何もないよりはいいか、とアークが自分を納得させようとしたとき、カーライルが体を反らし、呻くように声をあげた。天井を仰ぎ、その体勢のまま首を回す。
「あー、案外つっかれるなこれ……」
 シュウもそう呟いて、両腕を組んで伸ばした。
「結構長い間、こうやってたものね……」
 ファスやソレイユ、ユーレカも張っていた肩肘を緩めたようで、彼らが作っていた小さく閉鎖的な円はするりとほどける。
「アーク、もし良ければお茶か何かもらえるかい?」
「ああ、うん、これから沸かすので良かったら」
「構わないよ。ありがとう」
 カーライルの頼みに、アークは弾かれたように返事をする。シュウたちは休憩に入ったらしく、話しかけても邪魔になることはなさそうだと嬉しく思う。アークはポットに水を注ぎ入れ、急いで火にかけた。温度が上がるまで待つ間、カーライルたち五人分、加えてティアナと話す客の分など三つ分のカップを棚から出した。形状は同じだが色合いの違うカップを八つ、虹のように並べる。
 ポットの中は未だ水泡が浮かび上がってきたばかりで、茶葉を入れるにはまだ早いようである。アークは先に各砂糖の入った瓶を手に取る。それをカーライルたちのテーブルの方まで持っていくと、彼らがテーブルの上に覆いかぶさっていたときよりもはっきりと卓上の地図の様子を見て取ることができた。
 地図には赤いインクと小さな紙によって様々な書き込みがなされていた。赤い楕円がセザンやシエンなどといった地名を囲み、その脇に添えられた紙には大変小さな字で何か書き込まれている。書き込みは何箇所もあり、世界地図の至るところに点在していた。アークは思わず顔を近づけるようにして、それらをまじまじと見つめる。
「どう思う?」
 突然に、その傍らでカーライルが問うた。
「え?」
「これを見て何を思う、アーク?」
 聞き返すアークに、カーライルは再び口を開く。すぐには返す言葉が見つからず、アークは砂糖瓶をテーブルの上へと置いた。


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