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第三章



 時刻はちょうど昼と夕方の境目辺りで、時計の秒針が心地好いリズムを刻んでいた。忙しなく出入りする人もない。「鈴蘭の音色」に宿泊する客達は、自室あるいは一階でめいめい好きなことをして過ごしていた。
 アークは一階のカウンター奥に入り、窯の火を調節したり、洗い終えた食器を棚に戻したりと日々の仕事をこなしていた。窯の上に置かれた鍋には蓋が載せられていて、その隙間から湯気が立ち上っていく。湯気は紆余曲折しながら天井へと上がっていき、霧散しては見えなくなる。それはこの空間の温度と湿度を快適に保つ役割も担っていた。
「良い匂いが……今日の夕食ですか?」
 上から言葉が降ってきて顔を上げると、二階へと続く階段の欄干にユーレカがもたれかかっていた。
「ユーレカさん」
 彼女は一段ずつ足音を鳴らしながら階段を下りた。テーブルに座るシュウ、ファスと目線を交わし、しかしそのままカウンターへとやってくる。並ぶ丸椅子の一つに座り、顔を乗り出して奥を覗き込むようにする。
「シチューにしました。姉さんが注文してきたので」
 アークは苦笑して、鍋の蓋を開ける。一面の白さが視界を覆い、重みのある熱が一帯を支配する。湯気がゆっくりと頬を撫でていったのを見計らって鍋の中身を掻き混ぜ、渦を巻いているうちに蓋を閉めた。
「楽しみです」
 ユーレカは柔らかく笑んだ。それから手元に持ってきていた新聞を開いた。カウンターの奥行ぎりぎりまで目いっぱい紙を広げ、その上に頬杖を突く。左上の記事から読み始めようとして、何か思いついたように顔を上げた。
「アーク君、この辺りに情報屋ギルドってないですか? この新聞も、読んでなかったですけど結構前に手に入れたものなので」
 最新のものがそろそろ出るはずなんです、とユーレカは言う。アークは味見のために含んでいた一口を飲み込み、否定の意を示した。
 人々にとって、新聞は重要な情報源である。噂よりも信憑性が高く、割合手軽に触れることができるためだ。発行は定期的に、各地に点在する情報屋の集まり、ギルドによって行われている。その新聞を手に入れるためにはギルドへと赴くしかない。あるいは首都など人口の多い土地では売り子などによって売られているのかもしれないが、どちらにせよ首都からもギルドからも遠い地に住むアークには入手困難だった。
 ユーレカに気を害した様子はなく、そのまま記事を読み始めた。目がしっかりと一字一字を追っているところを見るに、全ての記事を読むつもりなのだろう。
 アークはカウンターの、客とは仕切られた反対側、調理のための空間や流しのある側に向き直る。カウンターに寄せていた椀を引き寄せ、中から生地を取り出した。平板の上にそれを広げる。丹念にやすりのかけられた、表面の滑らかな調理用の板である。小麦にバターを練り込んだ生地を半分に畳み、麺棒で伸ばし、今度は別の向きに畳み、を繰り返す。
 とても、とても穏やかな午後だった。慌しさから隔離されたかのようなこの空間は、波一つない湖を思わせた。
 アークは両腕を伸ばし、板と同じ厚さになった生地を見つめる。それを三つ折にして、目を閉じる。瞼に当たる陽の光が仄かに柔らかい。
 輪郭を持たない光を浴びた湖が、ふっと頭の中に浮かんできた。湖畔に近い水は限りなく透明に澄んでいて、中に踏み込むほどに濃密になっていく。湖はどこまでもどこまでも広く、アークの視力では対岸を捉えることはできなかった。
 ……湖って、本当にこんなに広いんだろうか。ふとした拍子に溢れかえってしまいそうな大量の水に対して、そう思う。十八年間今まで生きてきたものの、アークは実際に湖を見たことはない。「鈴蘭の音色」をほとんど出たことのないアークは、本や新聞から得た知識で想像するしかなかった。
 ぱしゃん。空気と水の狭間に、何かが触れた。それは初めは遠方での出来事だったが、だんだんとこちらに近づいてくる。水面に接し、そこを起点として宙に弧を描く。時間をかけて落下しては再び音を立てる。
 ぱしゃんという音が一つ鳴るたびに水面には波紋が広がった。いくつもの波紋が重なり、出来た順に消えていく。重なる円の道を通り、それはアークのもとへと到達した。
 それは小さな文字だった。嬉しさを表すかのように、その文字はアークの目の前で跳ねる。跳ねるたびに飛ぶ高さは増し、アークの目線よりも高くなる。水面の波紋は入り乱れて、模様とも呼べないものになった。
 アークは両腕を前へと伸ばし、手の平を上へ向けた。そこに、すっと文字が落ちてきた。衝撃も重みもない。文字は何事もなかったかのように収まっていた。青く染められたその文字は、一体どこの国で使われているのか、アークにも分からない。
 アークは両手をひしゃくを作るように丸め、文字を優しく包んだ。文字を見つめたまま、しゃがみこむ。文字は動かず、ぴくりともしない。先ほどまでが嘘のようだ。アークは両手を引き寄せ、額に当てた。しばらくそうした後に、
「……ごめん」
 本当に小さく、呟いた。悲痛そうな声だった。
 その声とほぼ同時に、両手は水中へと投げられた。
 どぷんという重苦しい音が響く。
 その音の大きさに自分で驚き、アークは慌てて腕を引き抜いた。文字は水中へと押し込められたまま、寧ろかえって底へと引っ張られていく。底へと、加えて湖の中央へと下がっていき、青色は水の暗さに押しつぶされていった。完全に深淵へと沈むその前に、文字は一度だけ瞬いた。
「…………あ」
 今のは僕に対する抗議だろうか、悲鳴だろうか。いくら外から見たこの湖が綺麗だとは言っても、その底は暗く冷たく、寂しい場所であるに違いない。あんなにも嬉しそうに寄ってきてくれたのに、僕は。
「ごめん」
 再びアークは謝罪を口にした。謝って許されるようなことではないと思ってはいたが、それでも口から零れ出る感情を留める術を知らなかった。
 どうしてこんなことになってるんだろう。
 一体何度目になるのか分からない疑問が、澱のように自らの中に溜まっていくのを自覚する。
「アーク?」
 はっとして顔を上げると、戸口付近に座るシュウがアークを見つめていた。
「どうした? 足が痛むのか」
 アークがよっぽど辛そうな表情をしていたのだろう、シュウは随分心配そうな顔をしていた。
「あ、ううん、大丈夫。ありがとう」
 アークが頬を緩めると、シュウもほっとした顔を見せた。
 盗賊に刺された足の傷は、痛み止めをあてたおかげかほとんど痛まなくなっていた。さすがに走り回ったりしたくはないが、慎重に歩く程度ならば支障はない。今朝ティアナに見つけられたときは「何でもっと早く言わないのよ!」と取り乱し激昂されたが、それを除けばとりたてて問題はなかった。
 シュウの向かい側の席では、ファスが砥石で武器の手入れをしていた。テーブルの上に広げた布の上に、ファスが腰に下げていた剣や小ぶりのナイフが散らばっている。それまでシュウはファスがそれらを手入れするのを見ていたようだったが、顔を上げたのを機としたのか、ユーレカに話しかけた。
「ユーレカ、何か気になる記事あったか?」
 ユーレカは新聞を持ち上げ、振り返る。
「えーと、そうですね……。一面は、セザンの近況が書かれてるです」
「セザンって、あの地震が起きたとこか?」
「そう。かなり大規模な地震が起きて、その後津波にも襲われてしまった地域です。今は復興作業中だそうですよ」
「津波か……海が陸を襲う、なんて想像もつかないな……」
 シュウは額を押さえる。
「ようやく、救出作業から復興作業の段階に移ったみたいです」
 ユーレカが新聞を真剣な表情で見つめたまま言った。


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